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【夜鳴】

 仕事帰り、閉店間際のうどん屋で、私はあの人の背中を見つける。

 残業が長引いたら決まって入るこの店。あの人に会うのは何度目だろう。

「並で」

 彼の注文する声に吸い寄せられるように、すぐ後ろに並んでこっそり聞き惚れる。

 すると、彼は突然くるりとこちらに顔を向けた。

 視線が合って、どきりとする。瞬きをするのも忘れた私に、彼の言葉が降ってくる。

「ひとたま、食べる?」

 私は何のことだかわからずに、あうあうと微かに口を動かす。彼はそっと近くにあったポスターを指差した。


『一杯買うと、その場でもう一杯無料』


 そんなキャンペーンをしていることを、私はちっとも知らなくて。

 だからポスターに視線を何往復かさせて、ようやく理解する。

 どうやら彼は、サービスで貰う一杯を、私におごってくれるつもりらしい。いや、無料でもらう分を譲ってくれるから、おごってくれるのとはちょっと違う?

 ただほど怖いものはない。

 だけど私は素直にうなずく。

 ちょっと気になっていた人に、声を掛けられた嬉しさで、すっかり頭がのぼせてしまって、冷静な判断なんかできやしない。

「ありがとうございます」

 客同士の話がまとまったのを見計らい、私の持ったお盆の上に、店員さんがどんぶりをのせてくれた。中には、ほかほかのうどんが滑らかに横たわっている。

 その間に、彼は会計を済ませてレジから離れて行った。

 私は慌てて皿を取り、揚げ物コーナーから大きないも天を選ぶ。

 レジで天ぷらひとつの代金を払い、店の中を見渡し彼を探した。


 いた。

 彼は壁に向かったカウンター席に座っている。

 私はためらう気持ちを振り払い、その隣の席に着く。

 彼は一瞬、こちらを見た。けど、何も言わない。


 彼にとっては、ただ単に。サービスでもらった食べきれないうどんを、次の客に横流ししただけかもしれない。

 だけど私にとっては、なんだかもう、食べる前からお腹も胸もいっぱいになる大変な出来事だ。

 このままつるりと食べるだけでは、後悔する。


 私は箸を手に取ると、いも天をぐいぐいと半分に割った。

 そして半分を自分のうどんにのせると、もう半分のいも天を、皿ごと彼の方に押しつける。


 私はいも天が大好きだけれど、毎回半分も食べるとお腹が膨れてしまう。だからいつも、誰か半分食べてくれたらいいのにと思っていた。

 だから半分。


 彼は私の行動を見て、黙っていたけど、急にぷっと吹き出して、それからくくくと笑い始める。

 私はそんなに妙な行動をしただろうか。

 だんだん恥ずかしくなってきた。


 そうだ、私は天ぷら界では、いも天が一番おいしいと思っているけれど、彼はそうではないかもしれない。迷惑な押しつけ行為だったかもしれない。


 しかし後悔したのは束の間。頬を赤らめる私の前で、彼はいも天に箸を伸ばし、ありがとうと呟いてぱくりと食べてくれた。


 私はほぅ、と、安堵する。


 それからようやく、うどんに箸を付けた。ふたりでしばらく黙々と食べた。

 汁の中に踊る麺をつかみ損ねたタイミングで、思い切って尋ねてみる。

「あのう」

 ちらりと横目で見たら、彼はどんぶりを持ち上げて口をつけるところだった。

「明日も来ますか?」

 彼はぴたりと動きを止めて、ゆっくりとうなずき、そしてこくこくと汁を飲んだ。

 少し彼の頬が赤く見えるのは、うどんを食べてあたたまったからだろうか。

 それとも。

 私はその横顔に、勇気を出して伝えてみる。

「じゃあ明日は私が先に買うから、もらったひとたま食べてください」

 一息に言い終えた私の隣で、彼は空っぽになったどんぶりをお盆に戻す。

「わかった」

 こちらに向いた彼のやさしい笑顔に、私も満面の笑みを返していた。


 *


『一杯買うと、その場でもう一杯無料』


 これ、もらっても困る人いるんじゃないかと、ポスターを見たときに思った。まあ、自分は大盛でも平気で食えるし、倍食べられるならラッキーだな、ぐらいに思ってた。

 残業帰り、閉店間際のうどん屋は、だいたい見知った顔だ。

 だから彼女のことも知っていた。

 いつもひとり、くたびれた表情で席に着く。けど、食事が進むうちに、幸せそうな顔になる。ほんと、好きなんだろうなあ。うどん。あと、いも天。

 会社は近くなんだろうか。

 ひとり暮らしなんだろうか。

 きっとそうだよな、こんな時間にひとりでうどんって。


 俺はいつしか、店に入ると彼女の姿を探すのが癖になっていた。


 その日は、いなくて。

 俺は少しがっかりした。このがっかりを埋めるのに、うどんを二杯食べるぐらいがちょうどいい。そんな気持ちで注文をする。

「並で」

 そのとき俺は視界の端に、彼女の姿を見つけた。

 さっきまで体の中にあったがっかりした気持ちは、一瞬でどこかに蒸発してしまう。


 代わりに込み上げてきた気持ちを、こくりとのどを鳴らして飲み干して、振り返って彼女に言う。


「ひとたま、食べる?」


(夜鳴/終)


 *

 *

 *

2018年11月02日 (金) 活動報告掲載小話

執筆当時、そういうキャンペーンを某うどん屋さんチェーンでやっていて、ロマンチックだなあと思ったのでした。

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