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不思議な青年

なみだのくすり

作者: 曲尾 仁庵

 くもりの日にはロクなことがない。

 学校からの帰り道、灰色の空を見上げて、健大は少しため息をついた。洗濯物が乾かないのだ。生乾きの洗濯物を家の中に干し直すときの気分といったら、もう最悪だ。なのに父さんは乾燥機の必要性というものを少しも理解してくれない。


「……ちょっと急ご」


 見上げた空は本格的な雨の気配で、健大はアスファルトの上を走り始めた。今日はスーパーで豚肉が半額なのに、雨なんて冗談じゃない。背中のランドセルがガチャガチャと音を立ててうるさいけれど、それを無視して健大は走るスピードを上げる。体はすこぶる調子がいい。沈んだ気分を吹き飛ばすように、走る。走る。走る。うん、これなら大丈夫。降り出す前に、豚肉と一緒に家に帰ることができるだろう。結構な速さで過ぎていく住宅街の景色を見ながら、そんなことを確信した、そのとき。


「ちょいと、ぼっちゃん。落し物ですよ」

「え?……うわっ!」


 急に声をかけられて驚いた上にほとんど全力疾走状態だった健大は、無理に止まろうとして失敗し、足がもつれて盛大にこけた。ざりっという嫌な音。同時にひざからは鈍い痛みが伝わってきた。……すりむいたらしい。せっかくいい気分で走っていたのに、台無し。健大は地面に倒れたまま思った。やっぱり、くもりの日にはロクなことがない。


「大丈夫ですか?」


 心配そうな声に気付いて、健大はあわてて地面から跳ね起きた。もともと大したケガではない。大丈夫です、と返事をしながら、服についた砂を払う。格好悪いところを見られたなぁと思いながら相手のほうを見て、健大は少しおどろいた。声の主は、着物を着た若い男の人だったのだ。チューリップハットを目深にかぶり、着物姿で足にはブーツ。とても奇妙な、言ってみれば現れる時代を間違えたようないでたちのその人は、不思議に柔らかい雰囲気をまとって優しく微笑んでいた。


「はい、どうぞ」


 健大は青年から落し物を受け取りながら、こんな格好の人って本当にいるんだな、と感心して彼を見ていた。青年は「それでは」と軽く会釈して去り、健大は「ありがとう」と言って見送った。不思議な青年の余韻はすぐには覚めず、健大はしばらく青年の去った方向をぼんやりと見ていた。

 どれだけの時間ぼうっとしていたか、健大はふと、自分が手に物を持っていることを思い出した。青年が拾ってくれた落し物だ。そういえば、いったい何を落としたのだろう。手のひらの上に視線を落として、健大は思わず「あっ」と声を上げた。そこにあるのは真っ白な四角い箱。……見覚えがない。こんな箱を持っていた覚えがない。つまり、これは自分のものじゃない!


「あのっ……」


 あわてて顔を上げても当然、そこに青年の姿はない。つまり、「僕のじゃないです」と言って箱を返す相手がいない。誰かの落し物だろうことを思うと捨てるわけにもいかず、しかし健大のものではなく、灰色の空の下、手のひらサイズの白い箱を見つめて健大は途方にくれた。




「ただいま……っと」


 玄関の鍵を開けて、誰もいない家に入る。誰もいないことは分かっているのだから、何も言わずに入ったって構わないのだけれど、家に戻ったときはただいまと言うように教えられている。もう習慣になっていて、言わないと気持ちが悪い。

 リビングのソファの上にランドセルを放り投げる。まずはスーパーで買った肉と野菜を冷蔵庫に入れなければならない。結局、半額の豚肉は売り切れていて、仕方がないので牛のミンチを買った。野菜はその日に安く買えるものを買う。今日はほうれん草が安かった。ただ、見切り品だから早く使わないと。

 慣れた手つきで買い物の成果を冷蔵庫にしまうと、今度はベランダに向かう。ベランダから空を見ると、ちょうどポツポツと雨が降り始めたところだった。


「やばっ、濡れる!」


 あわてて洗濯物を取り込もうと手を伸ばして、健大は少し顔をしかめた。やはり乾いていない。部屋干し決定。ああ、気が滅入る。健大がため息をつくと、パラパラパラ、と雨が屋根にはねる音が聞こえてきた。雨足が強まっている。健大は洗濯物をひっつかむと、急いで部屋の中へ取り込んでいった。


 傘型の物干しに洗濯物を干し変え、健大は軽く息を吐く。部屋干しすると部屋が狭くなるから嫌いだ。季節によってはいわゆる部屋干し臭がするところも。乾燥機さえあればそれらの問題はすべて解決するのに、本当に父さんときたら、「お日様の光で乾かすのが一番気持ちいんだぞ」とか言うのだ。健大は天気の良い日まで乾燥機で乾かそうなんて言っていない。乾かない日に乾かせる手段が欲しいという、ただそれだけの願いなのに、成就する日ははるかに遠い。

 ソファに放り投げたランドセルから宿題を取り出そうとして、ふとその横にある四角い箱が目に入る。そそっかしい青年に間違えて渡された物。真っ白のその箱は中身が何なのかを伝えてはくれない。いったい何が入っているのだろう。……気になる。開けてみようか、と手を伸ばし、箱に手を触れて健大は動きを止める。自分の物でもないのに開けたら怒られるだろうか? 実は中身は貴重なおもちゃで、開封すると大きく値段が下がるとか? だとしたら、弁償しろって言われても健大には無理だ。でも……


「ほら、中を見たら本当の持ち主が分かるかもしれないし」


 誰に向かってというわけでもなく言い訳をして、健大は箱を手に取りふたを開けた。箱の中には小さな琥珀色の瓶がある。瓶の表面には商売っ気のない、素っ気ない感じのシールが貼ってあって、やはり愛想のない文字で名称が書かれていた。


「『なみだのくすり』……?」


 くすり、ということはつまり、薬、なのだろうか? ひらがなで名称が書いてあるから子供用? なみだの、というのなら、これは涙を止めるための薬、ということだろうか。涙が薬で止まるなんて初めて聞いたけど。それに涙なんてしばらくしたら勝手に止まるのだから、わざわざ薬で涙を止める必要なんてあるのだろうか。健大にはこの薬を使う場面が想像できなかった。


「別にいらないや」


 薬を箱にしまい、健大はランドセルと一緒に箱を抱えて立ち上がった。もうすぐ父さんが帰ってくる時間だ。リビングの机にものを出しっぱなしにすると怒られてしまう。結局宿題には手を付けていないがそれはよしとしよう。自分の部屋の扉を開けて、勉強机の上にランドセルと箱を置き、健大は再び部屋の扉を閉めた。お風呂を沸かすのは健大の役割。父さんが帰ってきたときにお風呂に入れるようにしておかないとかわいそうだから、という理由で、健大はいつも父さんが帰ってくる時間の少し前にお風呂の用意をしておくのだ。お風呂場に向かい、健大は風呂釜をスポンジでこすりはじめた。





「ただいま!」


 やや焦りを含んだ声で父さんが玄関から飛び込んでくる。健大はちょっと怒ったような顔を作った。


「遅い」

「ごめん!」


 かばんをリビングのソファに放り投げ、ネクタイを外してやはりソファに投げて、腕まくりをしながら父さんは台所に立つ。


「今日はなに買った?」

「牛ひき」


 父さんの問いかけに短く答える。一瞬思案顔になり、すぐに父さんはうなずいた。


「じゃ、ハンバーグだな」

「できるの?」


 健大は不信げに父さんを見た。牛ひき肉だけでハンバーグを作るのは素人には難しいということを、父さんはほんの二週間ほど前に証明して見せている。ぼそぼそのひき肉炒めと化した自称ハンバーグをもそもそと食べるやるせなさをもう一度体験したくはない。健大の心配をよそに父さんは自信ありげだ。


「リベンジリベンジ。見てろ」


 笑って胸を張る父さんほど信用できないものはない。だいたいが楽観的過ぎるのだ。せめてレシピを調べてその通りに作ってほしいと思うが、父さんにそれを期待するのは無理だろう。


「食べられるもの作ってね」

「生意気!」


 いーっだ! と父さんは顔をしかめた。どっちが子供なんだか、と健大はあきれ顔になる。表情を戻して父さんは尋ねた。


「他は?」

「ほうれん草。見切り品」

「じゃ、バターソテーして付け合わせにしよう」


 方針が決まったらしく、父さんは冷蔵庫を開けて食材を取り出し始めた。


「お風呂は? もう沸いてるけど」


 おお、ありがとう、と言って父さんは答えた。


「腹減ってるだろ? 帰るの遅れたし、今日は夕飯が先だな」


 父さんは腕まくりをして料理を始める。はぁい、と返事をして、健大は二人分のランチョンマットを机に置いた。




「ごちそうさま」


 ほうれん草と卵とひき肉の炒め物を平らげ、健大は両手を合わせた。父さんはひどくバツの悪そうな顔をしている。


「……ごめん」

「いいよ、食べられたし」


 父さんの失敗をリカバリーする力は前より上がっている。ハンバーグはまだ無理でも、食材を無駄なく食べられるならそれは進歩なのだ。多くを望むのは贅沢というものだろう。健大は食べ終わった後の食器を流しに運ぶ。


「洗っとくよ。先にお風呂済ませて」


 ほんとにごめん、と父さんは肩を落とした。今日はずいぶん落ち込んでるな。ハンバーグなんてまだ二度しか作ろうとしたことはないのだから、失敗したってそんなに落ち込むことないのに。食器をゆすぎながら健大は違和感を覚えた。父さんは食べ終わったにもかかわらず椅子から動こうとしない。


「お風呂、入らないの?」


 父さんは大きく息を吸うと、覚悟を決めたように健大を振り返る。


「今度の日曜日、な」


 スポンジに中性洗剤を垂らし、握って泡立てながら、健大は言葉を続けようとする父さんを遮った。


「いいよ」

「いや、でも」


 泡立つスポンジで皿を洗う。父さんがハンバーグを作るという無謀な挑戦を試みた理由が分かった。ハンバーグは健大の大好物だったから。母さんのハンバーグは。


「早くお風呂入って。ぼくも洗い終わったら入るからさ」

「……ごめんな」


 父さんは気落ちした様子で立ち上がり、とぼとぼと風呂場へと向かった。そんなに気にしなくていいのに。父さんが忙しいことくらい知ってる。平日に早く帰って健大に夕食を作るから、休みの日に働かないといけなくなってることくらい、知っているのだ。


「買い物なんていつでもいけるし」


 洗った皿を水切り籠に置き、健大は小さくため息を吐く。食卓の上には父さんの使っていた皿が残っていた。約束を破ったことに落ち込む前に皿を持ってきてくれればいいのに、父さんはそういうところが気が利かない。食卓の皿を下げ、スポンジを見る。洗剤を追加するか悩ましいところだ。

 ひと月ほど前のこと、健大は父さんと約束をした。今度の日曜日に近所のアウトレットモールに行こう。何でも好きなものを買ってやるぞ。でも「今度の日曜日」は毎週「今度の日曜日」であり、いつまで経っても訪れることはなかった。今週もそうだっただけだ。何も変わりはしない。

 皿を洗い終わって手を拭く。そういえば宿題をまだしてないんだっけ。健大は自分の部屋に向かった。扉を開け、電気をつけて、後ろ手に扉を閉めて――


「――ふっ」


 涙が出た。え、なんで? なんで、泣いてるんだ? 泣くようなことなんて何もないのに?


「うっ、くっ」


 慌てて目をこする。でも涙は止まるどころか、どんどんとあふれてくる。まずい、声を出してはいけない! 父さんに聞かれたら、また心配させてしまう! 悲しませてしまう!


「そう、だ! あれ!」


 なみだのくすり。そうだ、あれがあった! 自分のじゃないけど、そんなの知ったことか! 涙を止める薬なら、今が使うときだろう! 声が漏れぬように左手で口を押え、白く四角い箱に右手を伸ばす。箱を手に取り、歯を食いしばって息を止め、箱を開け、瓶を取り出し、フタを開けて、淡い青色の錠剤を一粒取り出し、口の中に放り込む。これでもうすぐ、涙は止まるはず――


「――うわぁぁぁぁーーーーーーっっ!!!」


 健大の思惑を大きく裏切り、涙は堰を切ったように流れ、声はもはや隠しようもない叫びとなって口をつく。部屋の扉に背を預け、ずるずると崩れるように座り込んで、健大は泣き続けた。




 晴れた日は少し気分がいい。洗濯物を気にする必要がないから。足取りも軽くスーパーまでの道を歩く健大は、見覚えのある人影を見つけて思わず声を掛けた。


「おじさん!」


 呼びかけられた青年は健大を振り返ると、「おや、ぼっちゃん」と言って軽く会釈をした。健大は不満そうな顔で男をにらむ。


「この間の、あれ、何なんだよ」


 チューリップハットに着物姿で足にはブーツという、現れる時代を間違えたような格好のその青年は小さく首を傾げる。


「あれ、とは?」

「なみだのくすりのこと! ぜんぜん効果ないじゃん!」


 おや、と青年は真剣な表情を浮かべる。


「効果、ありませんでしたか?」

「飲んだけどぜんぜん涙止まらなかった!」


 健大の怒りを受け、しかし青年は「ああ」と納得したような顔になった。諭すように青年は告げる。


「ぼっちゃん、誤解ですよ。あの薬は涙を止める薬じゃなくて、涙を流す薬です」


 えっ? と健大は口を開けた。涙を、流す薬? そんなの何に使うの? 青年は言葉を続ける。


「あの薬はね、ぼっちゃん。泣けない人を泣かせるための薬なんです。この世には苦い涙を飲み込んで笑うひとがたくさんいましてね。苦い涙は心を殺す毒だ。毒が心に回る前に、ちゃあんと外に流さないといけないんですよ」


 ふぅん、と分かったような分からないような顔で健大はうなずいた。そして「あっ」と声を上げ、気まずそうに眼を逸らせる。


「……ごめんなさい。勝手に、飲んじゃった」


 青年は安心させるように笑った。


「落とし物だと言ったでしょう? あれはあなたのもので間違いありませんよ。『なみだのくすり』は、ずっとあなたが飲み込んできた涙から作った薬ですから」

「ぼくが、飲み込んできた?」


 いまいちピンとこない様子で健大は青年の言葉を繰り返した。青年はそのつぶやきに答えず、優しく微笑む。


「泣いてよかったでしょう?」


 健大は不機嫌な顔を作る。泣いてよかったか、と聞かれれば、たぶん、よかったのだろう。健大が大声で泣いて、その声を聞きつけた父さんは濡れ髪のまま走って部屋に入ってきて、「どうした! どこか痛いのか!?」なんて的外れなことを言って、おろおろして、健大が泣き止むまでずっと一緒にいてくれた。そのときはじめて健大は知ったのだ。


 父さんはぼくのことをどうでもいいと思ってるわけじゃないんだ――


「それじゃ、あたしはこれで」


 帽子に手を当て、小さく会釈をして、その不思議な青年は去っていった。健大は青年に何か言おうとして口を開き、何を言っていいかわからず、何も言わないままその後姿を見送った。

 青年の姿が見えなくなり、健大は再び歩き始めた。スーパーに寄って特売品を買い、帰って洗濯物を取り込み、お風呂を沸かす。何も変わらない日だ。でも、今度の日曜日はきっとアウトレットモールに行くことができるだろう。何でも買ってくれるって話だから、乾燥機を買ってもらおうか。買ってって言ったら父さんはどんな顔をするだろう。小さく笑って、健大は晴れた空を見上げた。

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[一言] ハンバーグは水分を抜いてよくこねこね、小さめにまとめると崩壊しないのですよー とドヤ顔する割に、私もよく崩しています。 忙しいとつい、大きめでまとめてしまいがちなんですよね…… お父さんドン…
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