5話
キャトリー子爵は屋敷に帰ってきたとき、足がもつれるほど酔っ払っていた。
「あなた、どうしたのこんなに酔って……」
キャトリー子爵夫人が心配して肩を貸そうとしたが、アルフレッドが「俺が運びます」と横から入ってきて支えようとした。しかし、キャトリー子爵はそれをはねのけた。
「いい、大丈夫だ。今日はもう休む」
そう言って寝室へ自力で歩いていった。
「お父様、どうしたのかしら?」とジュリアが心配そうに父親の部屋を見つめている。
キャトリー子爵夫人は『ローゼン伯爵のところで何かあったんだわ』と思ったが、口には出さなかった。
キャトリー子爵は寝室で上着を脱いだ。そしてポケットから小瓶を出す。小瓶をじっと見つめたあと、それを思いっきり振りかぶり叩き割ろうとした。だが小瓶を割る勇気もなく、ため息をついてまた小瓶を見つめた。
「たいしたことはない。ただ数滴入れるだけだ。誰も死なないし、モンタニエ子爵家は裕福だ。これくらい何てことない、大丈夫……」
呪文のように何度も何度も繰り返しつぶやいて、また小瓶をポケットにしまった。
翌朝、といってもまだ夜中だったが、家族が寝ている間にキャトリー子爵は使用人も連れず、馬で静かに1人で出かけた。使用人にさえバレてはならない。自分以外はこの小瓶のことを知られてはならない。途中の草むらで使用人の服に着替えて変装した。
モンタニエ子爵の領地の村に到着すると小雨が降ってきた。帽子を深々と被る。今なら村人もまだ農作業を始めていない。日が昇る前にやってしまおうと井戸まで行き、震える手で小瓶を取り出した。
「もう引き返せない……家族のためだ、大丈夫だ……」
キャトリー子爵は自分に暗示をかけるようにぶつぶつとつぶやきながら、数滴垂らした。
それから先は仕事のように同じ作業を繰り返した。農業用水にも数滴、ため池にも数滴。2つの村を回り終えたところで精神的に耐えられなくなった。懐中時計を開けると、間もなく夜が明ける時間だった。もう1つ村が残っているが、2つの村をやっただけで充分だろうと投げやりになり屋敷に帰ることにした。木陰で服を着替えていたとき、後ろから声をかけられる。
「やあ、こんなところで奇遇ですなあ! キャトリー子爵」
背筋が凍った。今、『キャトリー子爵』と言ったこの男の声に聞き覚えがある。もう正体がバレているが、このまま振り向かずに逃げようか迷っていると、正面にもガラの悪い男たちが立ちはだかった。
観念してゆっくり振り向くと、そこにはキャトリー子爵が金を借りている高利貸しの男が立っていた。黒いハットに黒いスーツ、細身で長身、ロングの金髪。いつも同じ格好で現れるこの高利貸しの男を見るたびに、キャトリー子爵は死神を連想して寒気がしていたが、今日は特に『死神の大鎌』まで見えた気がした。
「これは……どういうことなんだ……どうしてお前がここに……」
「ごきげんよう、キャトリー子爵。これはもしかしてマズいところでお会いしたのでしょうか? ははは……とりあえず目立ってはいけない。私どもの馬車までどうぞ」
馬車まで連行され、キャトリー子爵はうなだれて座った。
「いつ私だと気付いたんだ」と高利貸しの男に問う。
「いつから……初めからですよ。あなたが自分の屋敷を出発したところからね」
「何だと……」
キャトリー子爵は混乱したが、すぐにある人物の顔が浮かぶ。ローゼン伯爵だ。
「ローゼン伯爵と共謀していたんだな! なぜ私にこんなことを……」
「そんな人聞きの悪いことを言わないでください。共謀……そうですね、高利貸しを営む者のほとんどはローゼン伯爵と手を組んでるんですよ。彼は大きな後ろ盾ですからね。私はただ、『キャトリー子爵が毒を撒き散らしているところを見て、証人になれ』と言われただけです」
そう言ってニヤニヤする高利貸しの男。キャトリー子爵は絶望した。ローゼン伯爵に弱みを握られた。
苦し紛れに「毒は伯爵から渡された物だ! 彼も共犯ではないか!」と叫んだが、一蹴された。
「ローゼン伯爵は力のあるお方だ。それが判明したところで『毒を渡しただけ』と言えば、金の力で揉み消すこともできる。結局『キャトリー子爵が、自身の手で毒を撒き散らした』という事実は変わらないのですよ」
それからキャトリー子爵はどうやって自分の屋敷に帰り着いたのか記憶がない。服が濡れていることに気付いた夫人から「どこに行っていたんですか? 何かあったの?」と聞かれたが、「何でもない」としか答えなかった。その日から食事もほとんど取らず、頭から布団をかぶってベッドから起きてこなくなった。まるで現実から逃げているかのように。
ある日の午後、家族で昼食を取っていると、ドアをノックする音が響いた。使用人が入ってきて「旦那様を訪ねて、騎士団の方々が来られていますが……いかが致しましょうか?」とキャトリー子爵夫人へ尋ねた。
「どうしましょう……主人はまだ具合が悪くて寝ているし……」
「俺が代わりに聞いておきます」
そう言うとアルフレッドは騎士団の待つ玄関まで行った。そしてキャトリー子爵は病気で伏せっているため、代理で話を聞くと言うと、「大事なことだからしっかり聞くように」と前置きして騎士団員は話し始めた。
「今、近くの村で流行病が蔓延しているようなので、立ち入らないように。今日から国王の許しが出るまで、その村は隔離されることになった。また、その村で収穫された農作物などがあったら、すぐに燃やして捨てるように。念のため、モンタニエ子爵のすべての領地の物は仕入れたり口にしたりしないように、とのお達しである」
「今、何て……モンタニエ子爵と仰られましたか?」
「そうだ。モンタニエ子爵の領地だ」
アルフレッドは目の前が真っ暗になった。そんなはずはない。今までそんな流行病など起きたことはなかった。キャトリー子爵の村にはそんな報告も兆しもない。それなのにどうして急に自分の両親の村だけがそんなことになったのか、と信じられなかった。
後ろでその話を聞いていたジュリアは、そっとアルフレッドを抱きしめてくれた。しかし、何も言葉は出てこなかった。
2人で昼食の席に戻り、騎士団からの知らせを伝えた。夫人は使用人たち全員へこのことを伝え、領地の村にも通達を出した。すぐに農作物などのチェックをさせ、病人や枯れた農作物があれば早急に報告するように伝えたが、特に異変は無かった。
キャトリー子爵夫人は自分たちの農地には流行病が無かったことに胸をなでおろしたが、アルフレッドは自分の両親や兄夫婦のことが気にかかって落ち着かず、後ろ髪をさわりながら思いを巡らせていた。
アルフレッドの髪をさわる癖を見たジュリアは、夜になって彼に耳打ちした。
「お母様に気付かれないように私が何とかするから、ご両親のところへ様子を見に行ってきたらいいわ。でもあなたに何かあってはいけないから、長居はせずにすぐ帰ってきてね」
流行病なら、自分がうつればジュリアやキャトリー子爵の領地にも蔓延してしまう恐れがある。迷ったが、今晩だけ様子を見に行くことにした。
「ジュリア、ありがとう。でも俺は……原因は流行病ではないと思っているんだ。何かおかしい……他の理由があるなら、両親や兄さんに協力できることがあるかもしれない。ごめん、今晩だけ何とかキャトリー子爵夫人をごまかしておいてくれ」
ジュリアにキスをすると、すぐに準備をして出発した。