30話
アランの妻はあの日の夕方、村にいる自分の両親が高熱を出したと連絡を受けた。小雨で道がぬかるんでいたので、馬車ではなく馬に乗って急いで向かったと言う。
「そのときに母に言われたわ。雨がひどくなるまえに家畜に餌をやろうと、いつもより早く家を出たら、道端に黒ずくめの怪しい男と、他にも数人の男が何か言い合いをしているのを見たって。こんな朝早くに家畜泥棒かと思って隠れて様子を見ていたら、泥棒にしては立派な馬車に乗り込んで、そのまま走り去ったらしいのよ。だから、私に『泥棒がうろついているかもしれないから、気をつけなさい』って言ってたのを思い出したの」
「もう少し何か思い出していただけるとありがたいのですが……奥様に『気をつけて』もらいたいなら、その男の特徴などを言っていたのではありませんか?」
シモンは微笑みながらも真剣に聞いた。
「それがね、痩せてるのに背が高くて、黒いロングのコートに黒くてツバの広い帽子、そこから長い金髪が見えてたって言うのよ。だから『そんな動きにくい姿で家畜泥棒する人なんかいないわよ』って言って笑ったの。そのあとはしばらく高熱が続いて苦しんでたから、私も心配でそんな話をしたことすら忘れていたけど……」
充分な情報を得た。これはシモンの予想以上だった。ここまで特徴的な男でローゼン伯爵やキャトリー子爵とも繋がりがある人物を探し出すのは難しくないだろう。
「奥様、大変参考になりました。ありがとうございます」
「あらっ?! こんな話で良かったのかしら? 『お使い』さんのお役に立てたなら嬉しいわ」
するとアランが急にひらめいた表情をしてシモンへ顔を向けた。
「そうだ! 思いついた! 君のことはこれから『アル』と呼ぶよ。ニックネームだ。弟の『アルフレッド』の名前から借りたんだ。呼びやすいし、君が嫌でなければ……どうかな?」
シモンは思わずぎくりとして、すぐに返答できなかった。首筋の後ろ髪をさわりながら、気まずい空気をごまかしているとアランの子供たちが寄ってきた。
「ねえ、アル! アルでいいんでしょ? 僕たちも何て呼んだらいいのかなって困ってたんだ。今度僕たちが育てた野菜のスープをごちそうするよ。アルのところで作ってるパンを浸して食べるとうまいんだ!」
「……そうですか、それは楽しみにしています。次に来るときはパンを持参しましょう」
子供たちは喜んで、どんなパンが欲しいかをリクエストしながら、『アル』と自然に呼んでいた。
この空間の居心地の良さに胸を打たれ、シモンは苦しくなった。『元』家族だったが、今は『他人』を演じなければならない。頭の中はわかっているが、『アル』と呼ばれたことで懐かしさがこみ上げてきて、余裕がなくなってしまった。
シモンが「そろそろお暇します」と告げると、アランたち家族も一緒に帰り支度を始めた。空は夕暮れのオレンジ色がだんだんと夜の色に侵食されようとしていた。
馬車まで両親が見送りに来た。みんなが馬車に乗り、最後にシモンが乗ろうとすると、母親が一歩前に出た。それに気付いたシモンは振り返る。
「『アル』……でいいのかしら? ごめんなさい、良かったら手を握らせてほしいの」
シモンはゆっくりと手を差し出した。母親はその手を両手で優しく握った。
「あなたは、困ると首筋の後ろ髪をさわる癖があるのね……とっても懐かしいわ。またいつでも……本当にいつでもここに来てちょうだい。待っているわ、アル……」
夕闇の中にまぎれていたが、母親の目には涙が浮かんでいるように見えた。父親に目をやると、母親の肩に手を置きながら、シモンに向かってうなずいた。
「……はい、また伺います。では……」
スッと手を離すと、シモンは馬車に乗った。馬車が走り出すとシモンの膝の上にどちらが座るかで兄弟ゲンカが始まった。
「さっきはすまんな、アル。歳を取ると寂しがり屋になるんだよ。母さんには手を握られて、馬車に乗れば息子たちがうるさいし、今日は気疲れしたんじゃないか? ははは」
馬車の運転席からアランが話しかけてきた。シモンは子供の1人は片方の膝に、もう1人は片腕で抱えながら「いいや、問題ないよ」と笑顔で答えた。その姿を見たアランは楽しそうに笑った。
「いいねえ、それがいい。アルって呼び始めたら言葉遣いも堅苦しさが取れたみたいだな。君は『シモンの使用人』かもしれないが、俺たちに敬語じゃなくていいからな。シモンには黙っとくからさ」
空には満点の星がまたたいていた。気がつくとさっきまでケンカしていた兄弟はシモンにもたれて眠っていた。
いつのまにか、リーリーもポケットから外に出てきて、肩に座って星を見たり、兄弟たちの頬をつついたりしている。
「ここは川も空気もきれいだねー」とリーリーが言う。みんなには聞こえない程度に小声で「そうだろう、俺の故郷だ」とシモンは答えた。
ガラガラと馬車に揺られ、この兄弟の温かみを肌に感じながら帰る間だけは、『アルフレッド』に戻っていたような気がしていた。
ジョフリーが『ファルファデ』に予約を入れた日の昼過ぎ、言われた通りにシモンはローゼン伯爵邸まで迎えに来た。さすがの豪邸だ。王族が住んでいてもおかしくないほどに思えた。
「おー、ご苦労ご苦労。お前、そんな顔だったのか。思ったより男前だな。まあ、入れよ」
広間には来客を圧倒させるのが目的のように、これでもかと高級品が置かれている。だが、決して明るい雰囲気はない。ただ展示してあるだけの、冷ややかな印象だった。
2階へ上がり、奥の執務室へ執事に案内された。ジョフリーの後ろからシモンが付いていく。
「お父様、この前話した者を連れてきました」
「……初めてお目にかかります。シモン・イザードと申します」
「貴様か! うちの領地の麦を安く買い叩いたのは……まあいい、あれはどこでも似たような値しか付かなかったからな。一気に買い取ると言うから安くしてやったんだ。まったく……貴族でもない庶民のくせに……」
そうだった、思い出した、とシモンは思った。初めから見下したような口調、人を値踏みするような視線、これがローゼン伯爵だ。今までのことを振り返って、そしてこの状況。怒りを通り越して笑ってしまいそうになる。
しかし、表情には一切出さず、予想通りのセリフに対する回答をした。
「その節はどうもありがとうございました。直接ではないにしろ、ローゼン伯爵から庶民にパンを与えるという『慈善活動』の一環だったと受け止めております。ご協力に感謝します」
「まあ、そう言えなくもないが……貴族がボランティアや寄付をするのは当たり前だからな。お前を通さずとも、こっちは普段からやっておる」
「ローゼン伯爵だけでなく、他の貴族の方々からも麦を買い取っておりますので、どうぞご了承ください」
特に返事は返ってこなかったが、どうやら理解を示してはもらえたようだった。
「それで、ジョフリーから聞いているが、輸入業の手ほどきを受けたいと言っておるようだな」
「はい。ローゼン伯爵が取引していない国からの輸入品もございますので、今後は相互利益の関係を築いていけたら、と考えております」
手持ちのアタッシュケースから、用意してきた資料を取り出してローゼン伯爵へ渡した。それには自分の貿易内容や取引のある国のリスト、今後の輸入予定品などを書き出してあった。
その資料には、ローゼン伯爵が取引をしていない国も含まれており、なかなか魅力的な提案だった。損は無さそうだ。それに今は麦のダメージをなんとかしなければならない。しかし、このジョフリーが連れてきた男はどこか怪しい。
資料とシモンを交互に見ながら、もう少し様子を見るほうがいいかもしれない、と考えたローゼン伯爵は、シモンが自分へどれだけ貢献するのか試すことにした。
「正式な取引をする前に、まず君の仕入れる物を見てみよう。君と手を組むかどうかは、それからだ」
「それはありがたく存じます。来週到着する商品がありますので、お持ちしましょう」
「首都に私の経営するショップがあるから、そこに運んでくれ。そこで君の商品を扱って、売れ筋になるかどうか検証する。良い品だったら今後の提携へ前向きに検討して、君に輸入雑貨店のノウハウを教えてやってもいい」
「光栄です。ご期待に添えるよう尽力いたします」
そう言って微笑んだシモンは、一瞬するどく人を射すくめるような目をした。
シモンは一礼して部屋を出ていった。ジョフリーも出ようと扉に手をかけたとき、ローゼン伯爵から呼び止められた。
「ジョフリー、あの男はお前に何と言って近づいて来たんだ? 私と商売したいと言ってきたのか?」
「いや、違うよお父様。あいつは俺に従順でね、俺から手を差し伸べてやったんだ。身体ばかりデカイが中身は普通だよ。最近、ちょっと話題の中心になってるから、調子に乗って商売を広げたいらしいんだ。まあ、力になってやってよ」
ジョフリーは機嫌良さそうに笑い、シモンを追いかけるように部屋を出ていった。
しかしローゼン伯爵は、シモンに対して何とも言いようのない不気味さを感じていた。




