23話
ーーローゼン伯爵邸ーー
今日はボランティアで病院施設などへの慰問を予定していたジュリアは、朝から準備で忙しく、バタバタとメイドたちに指示を出していた。するとローゼン伯爵夫人から珍しく声をかけられた。
「ジュリア、今日のボランティアはどちらへ行きますか?」
「はい、他の貴族のご婦人方と集まって、首都の病院施設や孤児院にパンやお菓子を持参して慰問する予定です」
「そうですか……では、そのパンとお菓子は首都で売っているワゴンのパンを買い求めて、それを持っていってもらえるかしら?」
「噂になっていますね、ワゴンのパン。でも、今メイドたちに厨房で準備させていますけれど……」
ローゼン伯爵夫人は少し困った顔をして、小さくため息をついた。
「あなたはまだ何もわかっていないのね。私たちの伯爵領の農地が不作で損失がかなり出ているの。他の事業でカバーしているけれど、国へ納める税金が今年は厳しいわ。パンは今、買った方が安いのよ。ボランティア用にわざわざ焼かずに、節約してもらえるかしら?」
「……はい、そうします」
結婚前は両親と一緒に領地経営も手伝っていたが、ローゼン伯爵領については何も知らず、去年から不作が続いているという話を使用人から聞く程度だった。しかし、ローゼン伯爵夫人から『節約』なんて言葉が出るほどとは思っていなかった。夫人もローゼン伯爵から厳しく言われているのだろう。金持ちほどこういうときには過敏になるものだ。
たまにローゼン伯爵の執務室から不機嫌そうな怒鳴り声が聞こえるのも、そのせいだろう。
首都に出て、ジュリアがワゴンを探すのは簡単だった。広場や路上に人だかりができている。ワゴンをのぞいてみたが、もうほとんど残っていなかった。
「ジュリア様、直接工場へお買い求めになられてはいかがでしょう?首都の端に工場があると聞いております」
「そうなの? 最近はブティック『アデレード』に見学で通ってばかりで、首都の端の区域のボランティアにも行ってなかったから、そんな工場ができていたなんて全然知らなかったわ」
「工場とはいえ、テントのような、オープンキッチンのような感じです。簡素ですが清潔感があって、何だかおしゃれに思えました」
「あら! それは楽しみね。行ってみましょう!」
ジュリアは工場に到着すると、何となく『小さな町』のようだと思った。牛や馬に引かせている石臼は隔離された場所で行われ、製粉作業が終わるとサイロの区域に移動させる。成型する人たちの区画があり、石窯がずらりと並んでいる区画がある。焼き立てが見えるようになっており、パンを作ったり買ったりする人であふれてお祭りのように見えた。
工場で働いている者がジュリアに声をかけてきた。ボランティアのときに出会った男性だ。ジュリアがパンやスープを配っていたことを覚えていてお礼を言いに寄ってきた。
その男性の話だと、ここで働くようになって生活が良くなったという。清潔にしなくてはならないということもあり、風呂も用意され、作業用の服や昼食も無料でもらえ、そのうえ日給が出る。思った以上に重労働だが、客が喜んでパンを買っていくのを見てやりがいを感じる。今では首都の端の区域全体に不衛生感もなくなり、生活が整ってきていると言う。
あの暗いイメージの不穏な区域に住む人々は、働こうにも仕事がなく、家もなく、食べる物もボランティア頼りで心がすさんでしまった者が多かった。
その中の1人だったこの男性は、今ジュリアの目の前で「ありがとうございます」と笑顔で言っている。
この工場の持ち主はきっと素晴らしい方なのだろう、とジュリアは思った。
「ここはどなたが経営していらっしゃるの?」と男性に聞いてみた。
「俺もよく知らないんですけど、『ファルファデ』っていうカフェのオーナーらしいです」
「『ファルファデ』……シモン・イザード様……」
ジュリアは心臓をつかまれたかのような感覚になった。恋、愛、一目惚れ、そのいずれでもないような……しかしその気持ちを深掘りしてはならない。『私はジョフリー・ローゼンの妻で、ルディ・ローゼンの母なのだから』と自分を律した。
ジュリアはメイドと一緒にパンとお菓子を買って馬車に積み込み、ボランティアに向かった。
「焼き立てで美味しそうね」
馬車の中がパンの香りで満ちていた。
「ジュリア様、この工場のパンは庶民用の黒パンですので、普段ジュリア様がお召し上がりの小麦で作られた白パンに比べれば、お口には合わないかもしれませんけれど……ここのパンは美味しいです」
「わかるわ……幸せの香りがするもの。他にもたくさん種類があったわね。また来ましょう」
「はい! そのときは是非またお供させてください」
ローゼン伯爵家のメイドと微笑み合って会話したのは初めてかもしれない、とジュリアは思った。ジョフリーと結婚して以来、人として、心の通った会話をルディ以外としたことがなかった。
「今度ルディも一緒に来てみようかしら? あの子もきっと美味しそうだと言うわ」
「はい、ジュリア様。ルディ様はお優しい方ですから……」
ルディがメイドたちから評判が良いことを改めて知ったジュリアは、いつもより気分良くボランティアへ向かった。
ーーキャトリー子爵家の屋敷ーー
キャトリー子爵は頭をかかえていた。元々土地が痩せていてライ麦やオート麦でないと収穫が見込めないのに、去年と今年は不作だ。来年も期待できないかもしれない。
ローゼン伯爵より管理を任されているモンタニエ子爵領のライ麦やオート麦を買い叩いて、それに利益を上乗せしてローゼン伯爵に売り、利益を出したり税を納めたりしているが、それでも厳しい状況が続いている。
通常、不作のときは価格が上がる。豊作のときは価格が下がる。それで釣り合いが取れるはずなのだが、今年はどういう訳か、全然値段が上がらない。豊作のときの取引金額だった。
すでに不作の計算でモンタニエ子爵領の麦は買い叩いた。しかしそれすら高いらしく、ローゼン伯爵はまったく買ってくれない。
不作なのに値段を下げたら食べていけない。また高利貸しから援助を受けなければならないのか、と頭をかきむしってイライラしていた。
「くそっ! 安く買い叩いたが、不良在庫で抱えるよりモンタニエ子爵に丸ごと返して金を戻してもらうか……高く売れないならそうするしかないな」
居間で不機嫌な態度の夫を横目で見ながら、夫人がコーヒーを用意していた。何を言っても聞かない夫にあきらめてはいるものの、それでも夫人は心配して意見した。
「でも、あなた……そんなことしたらモンタニエ子爵も困るでしょう? ローゼン伯爵から管理を任されているのに収穫した麦を受け取らないだなんて……」
「こっちも困っているんだ! 管理して得られる利益を渡さなければどちらにせよ権利を奪われる。それでなくても経営が下手だの考えが浅いだの、ローゼン伯爵に文句を言われながら利益を渡しているんだ。さらに高利貸しに借りねば払えないんだからしょうがないだろ!」
そう怒鳴られた夫人は、やはり言っても無駄だったと思いながら、夫のコーヒーを運んできてテーブルに置いた。
娘のジュリアがローゼン伯爵家へ嫁いでから、夫は人格が変わってしまった。謎の男を屋敷の近くで10年以上監視しているが、それについて尋ねても何も教えてくれない。仲の良かったモンタニエ子爵家から平気で利益をしぼり取っている。夫人は「そのうち夫には大きな天罰が下るのではないか」といつも恐れて生活し、この不作すら天罰だと考えていた。
「アルフレッドに顔向けできないわ……」と夫人は手を合わせて神に祈った。




