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妖精は片翼で飛ぶ  作者: Nica Ido
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22話

「往診だ」


 医者のモリス・ハモンドはキャトリー子爵の屋敷に近い、今まで使用人が使っていた空き小屋へ馬車でやってきた。ローゼン伯爵領の町医者で、往診するには離れた場所に住んでいるのだが、フェルナンドのため月に2度ほど訪れている。


「ああ、先生。こんにちは」


 フェルナンドを見張っているキャトリー子爵の使用人が、にこやかに挨拶した。


「今日も少しマッサージを施して帰るから、その間ならしばらく家に戻って休憩してきていいぞ」


「いやー、助かります。旦那様の言いつけでこうして毎日、みんなで昼も夜も交代して見張りしてますけど、特に何も起きないし退屈で……見張り番ってのも結構しんどいんですよ。じゃあ、お言葉に甘えてちょっと休んできます」


 使用人はそそくさと自分の家に向かって帰っていった。


「おーい、フェルナンド。入るぞ」


 モリスは小屋の中に入ってベッドの隣の椅子に座り、診察の準備を始めた。小屋の中はシンプルすぎるほど何もなく、生活感がまったくなかった。中央にベッドが置かれ、そのベッドのクッションにもたれかかりボーッと座っているフェルナンドがいる。


「見張りは帰したから大丈夫だ」


 そう小声でモリスが言った。


「なんだよ、モリス! それならそうと早く言ってくれよ」


 フェルナンドは笑いながら、照れ隠しで豪快にモリスの肩を叩いた。意識が戻って以来、モリスはフェルナンドから事件の真相を聞いて、協力者となってくれていた。


 診察を済ませると、モリスはマッサージをしながら現在の状況を話し始めた。


 まずはセシルやラスロの情報。ラスロがモンタニエ子爵領からセシルを連れて出て以降、モリスは新しい情報をつかんでいなかった。


 しかし、最近新しい動きとして、差出人不明の手紙が届くようになった。それについてはすでにフェルナンドとも相談しながら返事を出していた。


「フェルナンドが教えていいって言うから、お前の居場所と、本当の状況を書いて送ったんだが、あれからまだ返事はないんだ」


「そうか……」


「どうなってるんだ……ローゼン伯爵やキャトリー子爵が12年経った今頃になって、こんな手の込んだことを仕掛けてくるとは思えないが……手紙の主を信用して良かったのか? 色々バラして大丈夫な相手かわからんぞ! お前の意識が混濁していると信じさせているからこそ、この境遇なんだ。そうでなきゃ、もっと監視が厳しかっただろうからな」


「まったくだ。重症のフリを続けようなんて作戦を思いついてくれたモリス先生のおかげだよ!」


 フェルナンドは大きな声で笑ったが、すぐにモリスから「こら!静かにせんか」と注意された。


 いつもの見張りはキャトリー子爵の使用人だ。騎士をしていた頃のフェルナンドなら、そんな貧弱な見張りなど何人いても相手にならないが、今は痩せてしまってあの頃の体つきではない。しかし、いざというときには動けるように、見張りの目を盗みやすい夜中に腕立て伏せや腹筋運動など、できる限りの筋力回復に努めていた。


 足の痺れが残っているため走れはしないが、抵抗するだけの腕力は戻ってきている。いつかセシルに会うために、少しでも戦える身体が必要だ。


「俺もそろそろ病弱なお芝居に飽きてきたところだ。この手紙の主はセシルやラスロのことを知っているに違いない。そんな気がするんだ……待ってみよう。準備を整えて、その日が来るのを……」


「フェルナンド、申し訳ないが『その日』とやらが来ても、俺は協力できんぞ。町に戻れば俺を必要としてくれている患者が待っているからな。今までの手紙もすべて燃やした。俺は何も知らない。それでいいか?」


「充分だ、モリス。今までの礼は必ずするから待っててくれ!」


「よく12年間も我慢したもんだよ。お礼なんか気にするな。お前たちが幸せになってくれりゃあ、それでいいさ。礼の代わりにまたいつか診察をさせてくれ。お前も俺の患者だからな」


 マッサージを終えて、帰り支度をしていると、ドアをノックする音がした。見張り番の使用人が帰ってきて、小屋の中に入ってきた。


「戻りました、先生。変わりなかったですか?」


「ああ、変わりなかったよ」


 振り返ってフェルナンドを見ると、ベッドに置かれたクッションにもたれかかり、ボーッと座っている。


「じゃあ、また来る」


「はい、往診ご苦労様でした。お気をつけて」と見張り番が見送る。


 馬車に乗り込み、出発したモリスは窓から小屋を見て「そのうち『大変です! フェルナンドがいません!』なんて言われるかもしれないな」と想像し、胸がすく思いがして『ざまあみろだ!』と鼻で笑った。




ーーシモンが借りた5隻の船が帰港ーー


 輸入した積荷を確認していたシモンは、一緒に来ていたジスランと今後についての話をしていた。


「本当にパン屋を始めるなんて、失礼ながら半分は冗談かと……」


 ジスランは楽しそうに笑っていた。


「それはそうと、工場と回転石臼は準備できているのか?」と聞きながら、シモンは船員や肉体労働者に次々と運搬先の指示を出している。


「はい。お望み通り首都の端のほうに工場としての土地と建物を確保しています。そちらに回転石臼も10台セットしております」


「よし、では始めよう。これから忙しくなるな」




 シモンは5隻の船のうち、4隻分はライ麦を輸入した。小麦よりライ麦やオート麦のほうが痩せた土地でも収穫がされやすいため、どの領地でも栽培されていた。小麦は高級品だが、ライ麦やオート麦は庶民が安く食べられるパンの材料となり、収穫すれば貨幣の代わりに税金として収めることができる重要な役割を果たしていた。


 今年は去年に続いての不作で、収穫量が少ないため値が上がるだろうと誰もが予想していた。そこでシモンは大量に輸入した麦でパンを作り、安価で提供する計画を立てた。首都の端に自社工場を設立し、その近隣区域で暮らしていた貧しい人たちを雇って賃金を払った。仕事がなかった人たちは男女問わず喜んで働いてくれた。


 石臼は牛や馬に引かせ、製粉作業が終わると成型し、石窯で焼く。この作業を工場ですべて行い、できあがったパンはワゴンや荷車で首都の街角や近隣の町や村で販売された。


 このパンはすぐさま話題になり、飛ぶように売れた。


 その理由は、家庭で麦を粉にしたり焼いたりする手間がかからず、パンの種類も豊富で、何より値段が安かったからだ。庶民にとって良いこと尽くめでしかなく、工場へ直接買いに来る客も多かった。


 ロベルト商会の執務室でジスランは今回のシモンのパン事業について考えていた。この事業が成功を収めているにもかかわらず、あまり腑に落ちていなかった。


 庶民用の麦を大量に輸入までしてパン事業を始めた理由がわからない。工場まで作り、機材の購入、大人数の雇用、そして価格を抑えての販売。ここまで大々的に商売しても、それに見合った収入が得られるとは考えにくい。


 おそらくこれは利益を追求しての事業ではない。何かシモンにとっての個人的な得があるのだろう。


「しばらく静観するとしよう。そのうちシモンとお茶でもしながら今回の狙いを聞いてみるか……もし私の考えが合っているならば……そのときには私の秘密も話す必要があるかもしれないな……」


 だんだんと沈んでいく夕日を窓から見ながら、ジスランは視線を街頭に移した。そこにはシモンのパンを売るワゴンに群がる客たちの姿があった。

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