18話
馬車でルディに送ってもらい、『アデレード』に到着した。ジュリアが馬車を降りるとルディが声をかけた。
「今日は早めに王宮から帰ってこれると思います。良かったら迎えにまいりましょう。お母様、今日一日がんばってください」
「ありがとう、ルディ。行ってらっしゃい」
ルディの馬車を見送ると、ジュリアはため息をついた。屋敷にいるのも息が詰まるが、今から新しいことを勉強するのもあまり気が向かない。ボランティアも、『貴族の義務として社会奉仕をするように』とローゼン伯爵夫人に言われてやり始めたことだったが、ジュリアが一生懸命奉仕活動をすると他の貴族から疎んじられ、結局は同調圧力に負けて、ありきたりなことしかできなかった。
「ここで勉強したからといって、どうせ私の力だけでは何もできないのよ……」
そんな独り言をつぶやいて、ルディが迎えに来るまでがんばろうと店に入った。
「いらっしゃいませ」
「ごきげんよう。オーナーはいらっしゃるかしら?」
「ジュリア・ローゼン様でございますね、こちらへどうぞ」
店の奥に案内され、スタッフルームよりさらに奥の部屋へ入った。
「よくいらっしゃいました、ジュリア・ローゼン様。私はオーナーのジェルベルガ・ベッソンと申します。ローゼン伯爵夫人からご事情をお伺いいたしております」
「急なお願いですが、対応していただき感謝いたします」
ジェルベルガ・ベッソンという女性は見た目は60歳くらいだろうか、白髪をおしゃれな髪型にセットしている。ふくよかで背は低め、威厳よりも可愛らしい印象を受けた。高級店のオーナーと聞いて少し緊張していたジュリアだが、優しそうな人で良かったと思い、ホッとした。
「では、ジュリア・ローゼン様、当店はお客様の守秘義務の遵守を徹底していますので、ただの見学としてであればお客様と会話はご遠慮していただきたいのです。もし店員と間違われて話しかけられれば、すぐに当店の従業員が対応させていただきますのでご安心を。そして会話の聞こえないところで、その立ち振る舞いなどをご覧いただき、時々私どもがジュリア・ローゼン様のそばでご説明などさせていただきます。しばらくはこのようなご見学でいかがでしょう?」
「充分です。お仕事の邪魔をしないように勉強させていただきます」
「ジュリア・ローゼン様のお知り合いがお客様として来店される可能性もありますが、その場合は見学されていることをお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、結構です。話しかけていただいても大丈夫です。社交性も高めるように言われておりますので……」
オーナーは従業員を呼んで、ジュリアに店を案内するよう伝えた。部屋をあとにしたジュリアは、従業員からどんな商品を扱っているのかなどの説明を受けていた。その様子を見ていたオーナーは、今日のジュリアの服装に華美なところが無いことや、学ぶ姿勢も貴族としての威厳は保ちつつ傲慢な態度ではないことを評価した。
店が開店すると多くのお客様が来店した。平民でも裕福な者は買いに来た。しかし、店内では平民も貴族も、王族でさえ平等に『お客様』として丁寧な接客を受けている。奥の特別室に通される者も、店内を見るだけ見て買わずに帰る者も、等しく『お客様』としてもてなされている。
「すごいわね……何と言えばいいか……歓迎されているのが伝わってくるわ。買い物したくなる感じ……」ジュリアは感心してつぶやいた。
「ジュリア・ローゼン様、私どもはお客様へ最初のご挨拶である『いらっしゃいませ』を、本当に心を込めて申しております。『ようこそ当店へお越しくださいました。ありがとうございます』という思いが伝わるように。そしてお客様が店を出たときには、『また来たい』と思っていただけるように。これはどんなお仕事にも共通することだと思います」
ジュリアは心に響く何かを感じた。自分が今まで子育て以外に感じることがなかったものだった。生きがい、やりがい、充実感。そういった感覚を持って働いている従業員はとてもキラキラして見えた。
店内の商品を見学していると、少女が1人で来店してきた。
「いらっしゃいませ、セシル様」
「こんにちは。今日は洋服とバッグを買うわ。だから、またお化粧の仕方を教えてくれないかしら?」
「もちろんでございます。新色の口紅も入荷しておりますので、よろしければ是非お試しになられてみてください」
店員がどんな洋服を勧めるのか気になって、ジュリアは少し近づいた。そのときセシルはジュリアに気がつく。
「あっ!」セシルは驚いて思わず声をあげてしまった。
まだセシルがカミーユと名乗り、首都の端の区域で少年として過ごしていた頃、何度かボランティアで来ていたジュリアからパンやスープを配ってもらった。そして、「みんなには内緒よ」と言って、特別にお菓子や果物も手渡されたこともあり、セシルはジュリアのことを良い人だと覚えていた。
セシルはジュリアに会えて嬉しかったが、もうあの頃の少年ではない。身元がバレてはならないと気を引き締めた。
「どうかされましたか? セシル様」
「いえ、何でもないわ。ちょっと知っている方かと思ったけれど、全然違ったの」
入れ違いに今度はジュリアがセシルの顔を見た。どこか見覚えのある顔だと思った。しかし思い出せない。もし知り合いの貴族の娘であればご挨拶しておいたほうがいいと考え、自分から声をかけようと近づいた。
「ごきげんよう。失礼ながらどちらかでお会いしたかしら?」
「いいえ、会ったことはないわ」
「そう……勘違いだったのね……どうぞ引き続きお買い物をお楽しみになってね」
ニコリと微笑んでジュリアは離れていった。セシルは内心焦っていたが、だからと言って何も買わずに帰るのは、逆に変だと思われる。いつも通りに振る舞って、服やバッグを買った。そして奥の部屋で化粧も教えてもらい、口紅も買って帰ろうとした。
しかし、結構な時間が過ぎたにもかかわらず、まだジュリアが店内にいることに気がついた。
「あの方は……こちらで働いているの?」
セシルが聞くと、店員は信じられない答えを返してきた。
「いえ、ジュリア・ローゼン様は接客を学ばれたいと仰られ、しばらく当店へ通って見学されるそうです」
「ジュリア・ローゼン……ローゼン伯爵の……」
「さようでございます」
セシルは目の前が一瞬真っ暗になり、その場に座りこんでしまった。驚いた店員は急いでソファまでセシルを連れていき、グラスに水を注いで渡した。セシルは震えながら少しだけ水を飲んだ。
「大丈夫ですか? 医師を呼びましょうか? セシル様」
「大丈夫よ、少し立ちくらみがしただけ……馬車を呼んでいただけるかしら?」
「かしこまりました。馬車を手配してまいりますので、少しこのままお待ちください」
ソファで1人になったセシルは、今までのことを思い返して大きなショックを受けた。あの人はシモンの妻だった人だ。あんなに優しくしてくれた人は自分の敵の家族だった。早くシモンに伝えなければと気持ちがはやったが、怪しまれないように帰らなければならない。落ち着こうとゆっくり水を飲んだ。
その頃、外にはルディが馬車で迎えに来ていた。ジュリアは「ちょっと外で待っててね。帰り支度をしてくるわ」と言い、オーナーに挨拶するため、店の奥へと入っていった。彼は店の入り口で母親が出てくるのを待っている。
店員がセシルのもとにやってきて、「セシル様、馬車が到着しました。荷物を馬車までお持ちしますが、お1人で歩けますか? 私でよろしければお屋敷まで付き添いましょうか?」と心配そうに手を添えてくれた。
「心配しなくても、もう何ともないわ。いつも通り1人で帰れるから大丈夫」
馬車へ向かうため店員と一緒に店を出ると、騎士見習いのルディが立っていた。セシルは騎士の制服姿を見て、父親のことを思い出し、少しの間ルディを見つめてしまった。
「あの……レディ、僕に何か?」
「あ……いいえ、何でもないわ。ごきげんよう」
店員が馬車に荷物を積み終え、次にセシルが乗ろうとしたとき、ジュリアの声が聞こえた。
「ルディ、お待たせしたわ。では屋敷へ帰りましょう」
「はい、お母様」
セシルを乗せた馬車は動き出したが、ジュリアとルディが笑顔で会話している様子を、見えなくなるまでセシルはずっと目で追っていた。
ルディの馬車に乗り込んだジュリアは、自分でも少し雰囲気が明るくなったような気がして、足どりが軽かった。
「お母様、今日はどうでしたか?」
「ルディのおかげだわ、今日は本当に来て良かった。しばらくがんばってみようと思うの」
「そうですか! それは良かった。ではこれからも一緒に通いましょうか?」
「まあ! 嬉しいわ。行き帰りもルディと一緒なんて、これから毎日が楽しくなりそうね」
ルディは珍しく明るく笑う母親を見て、心から嬉しく思った。それと同時に、先ほどのレディのことがなぜか目に焼きついて離れなかった。また母を迎えに来るとき、あのミントグリーンの髪のレディに会えるかもしれない、とほのかな期待を寄せた。




