17話
ーー現在のローゼン伯爵邸ーー
「ジュリア! 出かけてくるぞ!」
「あなた……今日はどちらへ?」
「うるさい! お前は俺に興味なんてないだろう! 俺が何をしようと、誰といようと!」
ジュリアはため息をついて「行ってらっしゃいませ」と見送った。
夫のジョフリー・ローゼンはローゼン伯爵の跡継ぎだ。再婚当初は周りの貴族たちから「あの資産家のローゼン伯爵の跡継ぎと結婚できたなんて、羨ましい限りですわ!」と褒め立てられた。
ジュリアは愛する最初の夫と死別した。悲しみに暮れているさなかにジョフリーから望まれ、避けようのない運命に流されて、ジョフリーと再婚した。
初めはジョフリーも根気よく紳士的に接してくれていた。ずっと欲しいと思い続け、やっと手に入ったジュリアに、ジョフリーは自分なりの愛を伝え続けた。
抜け殻の状態のジュリアはその愛を一方的に放り込まれ、どうしていいかわからず持て余し、人形のような日々を過ごしていた。
そしてジュリアは子供を産んだ。男の子だった。名前をルディと名付けた。ローゼン伯爵も、実家の父親であるキャトリー子爵も大喜びした。
見た目では仲の良い夫婦に見えただろう。ジュリアも子供のために、表面上ではジョフリーに尽くしていた。しかし、ジョフリーは繊細で臆病な男だった。ジュリアが本心とは違う愛の言葉をいくら伝えても響く訳がなく、「本当に俺を愛しているのか?」と疑い始めた。
愛してもらえない、愛されている実感が無いもどかしさは、徐々に苛立ちや腹立たしさという感情へ変化していった。
ルディが大きくなるにつれ、その矛先は息子にも向かうことになる。ルディに微笑むジュリアを見て、ルディに嫉妬してイライラするようになった。不満は暴言となってぶつけられていった。
ある日とうとう、ジョフリーの苛立ちは頂点に達した。
「ジュリア! お前の心のないセリフは聞き飽きた! どうすればお前は俺を愛するんだ! 俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ! 愛されないことがどれだけつらいか、お前にも思い知らせてやる!」
それからは、入れ替わり複数の女性と遊ぶようになった。最近はローゼン伯爵も自分の跡継ぎとして、ジョフリーに仕事を教えようとしているが、遊びまわっているジョフリーを見て、「お前がしっかり捕まえておかないからだ」とジュリアを責める。
しかし、ジュリアはそんなことくらいで悲しむことはなかった。愛していた夫が死んだとき、涙を流しすぎて枯れてしまったのだろう。ルディのために笑顔でいよう、と毎日耐えて生活していた。
再婚して12年経った。ルディも子供から大人へ成長しようとする年齢になった。
「お母様、一緒にお茶でもいかがですか?」ルディに誘われたジュリアは読んでいた本を閉じた。
「そうね、用意させるわ」
メイドにお茶とお菓子をテラスに用意させて、2人で外の席へ出てくつろいだ。
「お母様、僕はもうすぐ王宮へ騎士見習いに参ります。心も身体も鍛えるつもりです」
「ルディも12歳になったものね。早いわ、ついこの間まで『ママ』と呼んでくれていたのに……私も32歳になったのね……」
ルディは、今まで家庭教師を付けていたが、ローゼン伯爵の提案で王宮へ通うことになった。ローゼン伯爵としては、王族とも接点ができれば喜ばしいことだと考えていた。
「お母様は最近、ボランティアには行っているのですか?」
「ええ、先日も行ってきたわ。首都の端の区域にパンとスープを寄付したの。そこには明るい笑顔の可愛い銀髪の少年がいたのだけれど、もう姿を見せなくなってしまったわ。今、幸せに暮らしていればいいのだけれど……」
「他の貴族のご婦人たちは、ご自分でショップを経営されたり、商売されている方も多いとお祖母様から聞いたことがあります。僕はこれから騎士見習いとして王宮で過ごす時間が増えますし、ボランティアだけでなく、お祖母様のお仕事もお手伝いされてみてはいかがでしょう?」
ルディはおそらく、夫との関係を心配して言ってくれているのだろうとジュリアは思った。自分がいない間に、ジョフリーやローゼン伯爵に冷たい仕打ちを受けるのではないかと。優しい子に育ってくれた、それだけで充分だという気持ちを込めて、「そうね」と返事をして微笑んだ。
「外に出て、人と出会い、充実するような時間があればと……お母様は今でも充分美しいと思います。だからこそ、ただ時間が過ぎていくのはもったいないと思うのです」とルディはもどかしそうに言った。
ルディがいるから前を向いて歩いていられる、強くならねばならない。でも『ジュリア』という女性はもう12年前に置いてきてしまった。今、ここにいるのは『ルディの母親』だ。自分はどうなってもいいという思いで、ジュリアは今日まで生きてきた。
しかし、ルディに心配をかけられない。「考えてみるわ」と言うとルディの表情は明るくなった。
ルディが騎士見習いに通いだすと、急に屋敷が広く感じた。ローゼン伯爵も仕事で出かけるか執務室にこもっている。ローゼン伯爵夫人は夫の仕事の手伝いや、屋敷の女主人として仕切っているため忙しく、ジュリアとも普段は挨拶くらいしか言葉を交わさない。
ジョフリーは今日も女性のもとで遊んでいるのだろう。ジュリアにはいつもの変わりない日常だが、ルディがいないだけで孤独感に襲われ、耐えられないと思うようになっていった。
ルディの言う通り、まずローゼン伯爵夫人に相談してみることにした。部屋を訪ねると驚いた表情をされたが、「一緒にお茶でもしましょうか……」とローゼン伯爵夫人はメイドにコーヒーを2杯用意させた。ジュリアはそれを飲みながら、自分に手伝える仕事が何かないか聞いてみた。
「あなたから私へ相談なんて、珍しいわね。まあいいわ、ルディも立派に成長したし、ジョフリーはそのうち夫の仕事を継ぐのだから、あなたにも我が伯爵家の仕事を少し教えましょう。でも……あなた、キャトリー子爵家ではどんな手伝いを?」
「はい、農作業や経理を少し……」
ローゼン伯爵夫人は肩をすくめて、軽くため息をついた。
「そう……あなたはお茶会もまともに参加していないし、社交的なジョフリーとは正反対ですものね……」
家族愛は薄いものの交友関係が広いローゼン伯爵夫人は、輸入品の販売事業を夫の代理で運営している。
「私も夫も50歳を過ぎたわ。夫はまだ現役のつもりのようだけれど、私はそろそろ引退して貴族のご婦人方と演劇や音楽をゆっくり楽しみたいと思っているの。でも、今のあなたに任せるのはちょっと……」
「……やはり、やめておきます」とジュリアは諦めてソファを立とうとした。しかしローゼン伯爵夫人から呼び止められる。
「そういうところは良くないわね。『すぐに諦める』と仕事が長続きしないわ。まず、プロの仕事を見て勉強しなさい。それから自分に何ができるか考えて、もう一度相談に来てちょうだい。勉強するにはちょうどいい場所があるわ。私の行きつけのブティックで、『アデレード』という首都で一番の高級ショップがあるのだけれど、そのオーナーに話を通しておくから、店員の接客を見てきなさい」
そんなにやる気があった訳ではないが、屋敷でじっとしているよりはいいかもしれないと思い、その店へ行ってみることにした。
ルディにローゼン伯爵夫人へ相談した内容を話すと、とても喜んだ。そのブティックは王宮へ行く通り道にあるらしく、途中まで馬車で一緒に行くことにした。
ブティックへ行く日の朝、ジュリアは自分の髪のセットを清潔感のあるまとめ髪にするようにメイドへ伝え、シンプルなドレスを選んだ。ルディと和やかに朝食を食べ、一緒に屋敷を出た。天気が良く、風も気持ちがいい。馬車へ乗ろうとしていると、朝帰りしてきたジョフリーが向こうから歩いてくる。
彼は酔っ払っているようで、服の乱れも整えずに、フラフラと歩いてくる。微笑みあって歩く2人を見たジョフリーは、すれ違いざまに舌打ちし、つぶやいた。
「まったく……ルディは髪も赤茶色でちっとも俺に似てないな!」
ジュリアは聞こえなかったふりをして、「行きましょう、ルディ」と優しく微笑んだ。ルディは父親をチラッと見たが、意に介さずジュリアと一緒に馬車へ乗り、出発した。




