逃げて、逃げて、その先にあるもの
夜も遅く、深夜と言える時間。
静まりつつある町を、若い男がトボトボと歩いている。
その若い男は、その日の仕事を、途中で抜け出してきたところだった。
その若い男は正直者で、何かと苦労をさせられる性格をしていた。
若くして両親には先立たれ、
黙っていると、他人の仕事を肩代わりさせられる。
食事をしようと食堂に行けば、自分だけが順番を飛ばされる。
何か手続きをする時は、自分だけが手間取って待たされる。
何をやっても上手くいかない、損な性格、損な境遇。
今日も本当は休日だったのに、急に休んだ他人の代わりの夜勤だった。
しかし、そんな生活ももう限界。
とうとう耐えきれなくなって、仕事を途中で放り出して、
逃げ出してきてしまったのだった。
「他の人の代わりに休みを潰されて、しかも逃げて来てしまった。
これからどうしよう。」
その若い男が落ち込んでいると、雨まで降り出して。
雨はすぐに本降りになって、夜の町とその若い男を濡らしていった。
本降りの雨の下、その若い男が夜の街を歩いている。
どこにも行き場がない。
家に帰るでもなく、トボトボと歩いていると、
ふと、道路の向こうに、ずぶ濡れの子犬がいるのが目についた。
捨て犬なのか、子犬は全身を雨で濡らして寒さに震えていた。
その若い男と子犬の目が合う。
すると子犬は、仲間を見つけたとでも思ったのか、
その若い男の方へヨロヨロと歩き始めた。
ガードレールの下を潜り、車道を横切ろうとしたところで、
車道の遠くから音高くエンジン音が迫る。
猛スピードの車が車道を走り抜けようとしていた。
その車の行く手には、車道を横切ろうとする子犬の姿。
しかし、そんなことにはお構いなしに車は迫って来る。
「あぶない!」
哀れな捨て犬の姿が、自分の姿と重なって見えたのかも知れない。
その若い男は、子犬を庇おうと車道に飛び出て、
猛スピードの車に撥ね上げられてしまったのだった。
真っ暗な穴の中を、体が真っ逆さまに落ちていく感じがする。
ハッと、その若い男が目を覚ますと、
周囲の様子が一変していた。
真っ赤な空に、立ち枯れした木々が立ち並ぶ。
そばには空より赤い池があって、ボコボコと泡が浮いては消えていた。
まるで地獄のような光景。
それを証明するかのように、
角を生やした人影が、その若い男のところにやってきた。
人影は中肉中背の二人連れ。
鬼のような恐ろしい形相の仮面をしていて、
角もその仮面から生えているようだ。
その若い男が地面に倒れている視界で確認する。
すると、仮面の人影もその若い男の人相を確認したようで、
最初にギョッとして、次に厳かな声色で話し始めた。
「ほぅ、また人間が落ちてきたか。
よく来たな。
ここは、あの世。
死んだ人間が来るところだ。」
「・・・何だって?」
あの世、という言葉に怪訝そうにするその若い男に、
仮面のもう一人の人影も口を開いた。
「そう、ここはあの世。
正確には、地獄の入り口。
現世で死んだ人間は、まずここで閻魔大王様の審査を受けるのです。
現世で徳を積んでいれば、極楽浄土の天国へ。
悪事を働いていれば、この地獄での労働が待っています。
冗談のように聞こえるかもしれませんが、今言ったことは全て事実です。」
「とはいえ、閻魔大王様は多忙なお方。
死ぬ人間は後を絶たないし、審査を受けるまでに時間がかかる。
審査の順番待ちをしている間、この地獄で体験生活をするといい。
案内をしてやるから、ついて来なさい。」
「地獄の体験生活、だって?」
恐ろしいような親切なような話に、
その若い男は地面から起き上がって首を傾げた。
その若い男の前を、仮面の二人が先導して歩いている。
声の様子からして、二人は中年の男女のようだ。
その仮面の二人に、その若い男は疑問をぶつけた。
「じゃあ、ここは本当にあの世なんですか?
冗談ではなくて?」
「そうだ。
ここは本当にあの世、地獄の入り口だ。」
「あなたは現世で、何か命に関わることをしたのではなくて?」
「そういえば、子犬を助けようとして、車に撥ねられたかも・・・」
「では、その時に命を落としたのでしょう。
まだ若いのに、かわいそうに。」
「動物を助けようとして死んだのなら、お前は天国へ行けるかも知れないな。
いずれにせよ、閻魔大王様の審査を待つが良い。
その間、この地獄の入り口にある集落で、地獄の体験生活をしてもらう。」
「突然、地獄で労働しろと言われても、大抵の人は耐えられませんからね。
閻魔大王様の審査結果が出るまでに、練習をしてもらってるんです。
徐々に負担を大きくして、慣れていけるように。
まあ、天国に行くあなたには不要かもしれませんけどね。」
「俺たちは、地獄の体験生活をする人間を監督する、
いわば鬼の代わりみたいなものだ。
地獄の体験生活の間は、俺たちの指示に従うこと。
いくら天国に行ける人間でも、
地獄のルールを破れば天国行きは取り消し。
その上で、地獄よりも辛い地獄に落とされることになる。
心しておくんだな。」
「はぁ・・・」
「見えてきましたよ。
あれが、地獄の入り口の集落です。」
仮面の女が指し示す先、
地面に大きな穴が口を開け、その中程に、
木造の建物が寄り集まっているのが見えてきた。
その集落は、粗末な木造の建物がいくつか集められ、
そこに、粗末な布だけの衣服を着た人たちが生活していた。
その集落を取り囲むように、大きな穴が開いている。
あるいは、大きな穴の中程に小島があって、
そこに集落があると言う方が正しいかもしれない。
粗末な木で組んだ橋が、大穴の外と内を僅かに繋いでいた。
ここ地獄には昼も夜も無いようで、
人々は代わる代わる寝て起きては労働に勤しんでいる。
労働とは言うものの、その内容は、
大きな岩を素手で運んで積み上げる、といった単調なもので、
その単調さ故に心身に負担が大きく、修行の意味合いが大きそうだった。
地獄の集落に連れてこられたその若い男も、
早速その日から、労働に参加させられることになった。
自分の体ほどもありそうな大きな岩を素手で担いで運んでいく。
運び終わったら、今度はそこに転がっている岩を担いで戻る。
来る日も来る日もその繰り返し。
汗びっしょりになるまで働いても、何の成果もない。
ただ言われるがままに作業をするだけ。
まともな人間なら、すぐに音を上げてしまいそうなものだが、
仮面を付けた人影が何人も監督役として目を光らせているので、
そう手を抜くわけにもいかない。
それでも人間の不正を全て見抜くのは難しいもので、
ずる賢い人間は、運ぶ岩を砕いて軽くしたり、
他の人間が運んだ岩を奪ったりしていた。
もちろん、その若い男は正直者だから、
インチキすることもなく、黙々と大きな岩を運んでいた。
すると、正直者につけ込む人間に目をつけられることになる。
意地悪な人間たちがやってきて、岩を運ぶその若い男に言った。
「おい、俺の分も運んでおいてくれないか。
仮面の連中にバレないように、手前までで良いからさ。」
「あんたが運んだ岩、一個もらっておくよ。
いっぱいあるんだから、一つくらい良いだろう?」
相手は複数人で、断ろうにも断れない。
そうしてその若い男は、この世でもあの世でも、
他人に利用されて損をする生活をさせられることになった。
その若い男が、地獄の集落で過ごすようになって、
もう何日が経っただろう。
最初は日数を数えていたが、今ではもうそれも辞めてしまった。
毎日毎日、岩を運ぶ生活。
それだけならばまだいいのだが、
意地悪な人間たちに仕事を押し付けられ、成果を奪われる。
そのことは、その若い男の心身を疲弊させていった。
仮面の監督役たちに訴え出ても、のらりくらりとかわされてしまう。
そうして疲弊していくその若い男を、物陰から心配そうに見ていたのは、
最初に案内をした仮面の男女だった。
「あいつ、大丈夫かなぁ。」
「心配ですけれど、
この地獄のルールでは、
私たちは何も手出しできませんものね。」
「まだ閻魔大王様の審査までには時間がかかりそうだ。
それまで、あいつが我慢できるといいんだが。」
そんな二人の心配は、現実のものとなる。
それからしばらくしたある日のこと。
その若い男は、岩を運ぶ労働の最中に、逃げ出してしまったのだった。
地獄の集落、粗末な木造の建物の間を、その若い男が必死に駆けている。
「もう、まっぴらだ!
いくら岩を運んでも、何も残らない。
意地悪な連中に成果を奪われて、誰も助けてくれない。
こんなところ、もう嫌だ!」
そんな泣き言を溢しながら、その若い男が走って逃げている。
遠くから、その背中を追う仮面の人影たち。
その若い男を集落に案内した、仮面の男女だった。
「待て!どこへ行く。
この集落の周りは大穴で、穴の下は地獄よりも辛い地獄だ。
どこにも逃げ場は無いぞ。」
「閻魔大王様の審査を受ければ、天国に行けるかもしれないのよ。」
「そんなの待ってられない!もうこんなところは嫌なんだ。」
言っていることはただの泣き言のようだが、
しかしその若い男も、何の考えも無しに逃げ出したわけではない。
この集落に入ってくる時に通った橋があるはず。
それを目指していた。
もう間もなく、橋が見えてくるはず。
そう思ったがしかし、無常にも、そこに橋は無かった。
どうやら常設の橋では無かったらしい。
集落の外へ繋がるはずの橋は、遙か対岸に引き上げられていた。
呆然と立ち止まり、肩で息をするその若い男に、
遅れて追いついた仮面の男女が言った。
「もう観念しろ。
橋が無ければ、この集落から逃げる方法はない。」
「作業は辛いでしょうけど、もう少し我慢して。」
仮面の男女の説得に、しかしその若い男は耳を貸さない。
右に左に周囲を見渡して、何とかして逃げる方法を探している。
そして何を思ったのか、崖にしがみついて、
集落を囲う大穴を下り始めたのだった。
「僕は諦めないぞ。
橋が無ければ、素手で崖を越えてやる。
ここでの労働で体は鍛えられてるんだ。」
その若い男は鍛えられた足腰で器用に崖を下っていく。
こうなってはもう、仮面の男女も後を追うことはできなかった。
「無茶は止めろ!
・・・駄目だ。もう追いかけられない。
この大穴の先は、この地獄よりも辛い地獄だ。
あの子に耐えられるだろうか。」
「仕方がありませんよ。
またここに来ることになったら、その時は迎えてあげましょう。」
仮面の男女が覗き込む眼下の大穴。
その若い男の姿は小さくなって、やがて見えなくなってしまった。
真っ暗な穴の中に、その若い男がいる。
手足は痺れてしまって、
崖に掴まっているのか、穴を落ちているのか、
もうどちらなのかもわからない。
ふわふわと体が闇の中を漂っている。
すると、遠くの闇の先から、か細い光が。
それが段々と大きくなっていって、視界がぱっと開けた。
目に映るのは、いっぱいの夜空。
降りしきる雨が、顔を、体を叩く。
その若い男が目を覚ますと、雨降りの地面に横たわっていた。
体を起こそうとすると全身に激痛が走る。
しかし、骨に異常は感じず、大きな出血も見当たらず、
命に関わるほどの怪我ではないようだった。
首を動かして頭を起こすと、そこは車道。
ガードレールが取り囲み、ビルや住宅が立ち並ぶ。
久しぶりに目にする、いつもの光景だった。
ふと、柔らかくて温かい感触。
腕の中を見ると、ずぶ濡れの子犬が丸まっていた。
「・・・そうか、ここはあの日の夜か。
この世に戻ってきたんだ。」
しかし、その若い男が感慨に浸る余裕はなさそうだ。
腕の中の子犬は寒そうで、
このままでは今にも動かなくなってしまいそうだった。
「助けてやらないと。でも、僕にできるかな。」
不安になりそうになって、ふっとその若い男は笑った。
「できなければ、またあの世に逃げたら良いか。
あの世もこの世も、初めてじゃないから、何とかなるだろう。」
そうして、その若い男は、痛む体を引きずって立ち上がった。
目の前には、真っ暗で雨降りの、
地獄よりも辛い地獄が待ち受けている。
腕の中の子犬は雨に濡れてずっしりと重いけれど、
きっと耐えられるはず。
何故なら、地獄で運んだ岩よりは軽いはずなのだから。
終わり。
気分を変える。環境を変える。逃げる。
これらはどれも似ているのに、他人からの評価は大きく異なるものです。
できなければ、いっそ逃げてしまえばいい。
逃げて逃げて元に戻っても、今度はできるかもしれない。
そんなことがあって欲しいと思って、この話を書きました。
作中の若い男のように、損をして辛い思いをしている時も、
きっとどこかで誰かが見てくれていると、そう願っています。
お読み頂きありがとうございました。