12
一匹の竜が空から落ちてきただけで、ミスタンテという街は機能不全となった。
街に住むほとんどの人間は突然やってきた災厄に恐れおののき、逃げ惑った。
かろうじて命をかけて街を守ろうとする役人や冒険者たちが竜に立ち向かっていったが、彼らの持っていたいかなる攻撃手段も竜に致命傷を与えることはなく、事態を好転させるには至らなかった。
それでも、街の人間すべてが死に絶える、という状況になっていないのは奇跡と表現してよかったのかもしれないが。それは決して、彼ら・彼女らのささやかな抵抗によって得られた成果ではなかった。
――あれは腹を慣らしているだけだ。
竜の正体は、ミスタンテの街に土着する伝説に記された化け物のひとつである。
遠い昔に退治されたと伝わっていたものの、どうやら封印するのがやっとだった、というのが真相だったらしい。
では、その竜は封印されている間に何かを口にすることは出来ただろうか?
出来たはずがない。
ヒトの記憶や認識において、竜の脅威が現実から物語の空想に落ちるまでには、本当に長い時間がかかったことだろう。
竜も生き物だ。
何も食べない時間がそれほど長く続けば、よっぽど腹を空かせていたに違いない。
ただ、竜は賢い生き物だった。
何も食べない時間が長く続いた直後に食いたいだけ食い散らかすと身体に悪い、ということがよくわかっていたのだ。
だから、その竜は食糧を少しずつ腹に入れていた。
――自分の命を脅かすようなものが周囲にいないのだから、ゆっくりと身体を慣らせばいい。
その竜が本当にそう考えているのかどうかは、ミスタンテの住人にはわからなかったけれど。
事実として。
竜がその身を動かす度に犠牲者の数は増えていき。
次に動き出すまでの時間は少しずつ短くなっていた。
――時間切れはもうすぐそこだ。
ミスタンテの住人の誰もがそう認識できる状況証拠としては、それで十分だった。
●
再び竜が動き出す様子を目の前にして、ビオは思う。
――あれが現れてから何日が経ったのだろうか、と。
ビオの頭を過ぎった疑問符には、優秀な記憶力が答えを寄越してきた。
――まだ二日も経っていないだろう、と。
だから、ビオは心底からこう思った。
……こんなに時間が経つのが長く感じるのは初めてよ。
昼も夜もなく、竜の気まぐれに付き合わされる形で働き続けているのだから、ビオでなくとも時間が経つのが遅いと感じていたことに違いない。
なにせ、この現場では命がとてつもなく軽いのだ。
竜の力は圧倒的で。
ビオを含めた人員全てが攻撃を仕掛けても鬱陶しがられるだけで歯が立たず。
相手の攻撃は複数人が全力で防いだって死ぬ人間が必ず出る。
――自分はまだ死んでいないが、いつ死ぬのかもわからない。
そんな状況で正気を保って動いていられるだけ、ビオは優秀なほうだろう。
この抵抗に意味はあるのかと諦めて、自棄になって死ぬ者も多かったからだ。
ビオにも自ら命を投げ出すような選択をした彼ら・彼女らの気持ちはよく理解できた。
しかし、ビオは決して後を追うようなことはしなかった。
なぜならば、
……抵抗するだけの価値はある。意味はある。
ビオは強くそう信じていたからだ。
ただ、その確信は耐えていれば助けが来るだろうという予想や期待によるものではなかった。
……いやまぁ、そう思っていないわけではないけれどね。
ビオを含めて現場にいる人間が、命をなげうってまでささやかな抵抗を続けているのにはいくつかの理由があって。
その理由のうち、最も大きなものは、竜が出現した後からすぐによその街に助けを求めていて、その結果が返ってくるまでの時間を稼ぐ必要があったからに違いなかったけれど。
……それだけじゃないのよ。
誰かが注意をひきつければ、その分だけ犠牲になったかもしれない誰かを救える。
……死にたくはないし、死ぬつもりもないけれど。
どうせ死ぬなら、胸を張って誇れる何かが欲しいものだ。
……それが誰かを守るためだったというのなら。
地獄の沙汰だって多少はマシな結果になることだろうと、そう信じている。
ゆえに。
「あいつの腹ごなしはもう終わったらしい」
「短い休憩時間だったなぁ。そうは思わねえか?」
「休めただけマシだろうが。早く次に備えろ!」
「わかってるよ。
――おいお前ら、死ぬつもりでいるやつはいないよなぁ!?」
次々に周囲からあがる声に、
「当然でしょうが!」
ビオも声をはりあげてそう応じ、動き始めた竜に向かって走り出した。




