前編
この話はフィクションであり、実在する科学、団体などを説明するものではありません。
真実はあなたの目で確かめて下さい。
【現象】
カツーン。
明瞭な音が車内に響き渡った。佐藤遥は特段、それを不快なものとも思わなかったが、本能的に恐怖を覚えた。
カツーン、カツーン。
音は響き渡る。それが自分の口から零れ落ちたものだと気づくには幾分の時間もかからなかった。小さくて球状の物体(以下、「小玉」)。しかし、歪な形をしたそれが遥の口から零れ落ちていた。周囲の視線が身体に突き刺さる。次の停車駅に到着する時間までがもどかしい。止まれ、止まれ。いよいよ電車が停車すると、遥は一目散にトイレに駆け込んだ。吐いた。込み上げてくる液体が酸っぱい。しかし小玉はもう落ちてこなかった。一体どうなってるの?
遥は帰宅すると、制服を脱ぎ、通販サイトのセールで買った黒のワンピースに身を包んだ。上から白のコートを着た。姉から借りたものだ。椎名智也とのデートまで後一時間。化粧を丁寧に終えると鏡を入念に確認し、再び家を後にする。男性とのデートはこれが始めてではない。しかし、椎名智也は武蔵高校のアイドルだった。そんな智也は遥の一つ上の先輩であり、受験生であった。センター試験をまもなく控えた一月の上旬にデートをしてくれるのは彼の優しさなのか、怠慢なのか遥には分からない。告白したのも半年も前のことだ。どこからか遥のLINEの連絡先を聞いた智也は、昨夜、明日うちに来ないかと誘ってきた。全身の毛も剃ってある。いつそういうことになってもおかしくないように準備はしてきた。ただ、気になるのは先ほどの列車での不可解な現象。あれは一体なんだったのであろうか?遥は指定された住所を元に智也の家を突きとめた。一瞬の逡巡の後、インターホンを押す。ごくり。遥は生唾を飲む。
「どうぞ」
くぐもった声で短い返答があった。学校で聞きなじみのある爽やかで明るい声と同一人物であることを疑わらわしく思わせるものであったが、遥には分からない。舞い上がっているのである。
学園のアイドル。ルックスがそれほど良いわけではない。ジャニーズ系でもEXⅠLE系でもなくどこか中性的な印象を与える彼は、剣道の全国大会で優勝するほどの腕前であり、文化祭実行委員会委員長である。彼が話をする空間はどこか華があり、輪の中心にはいつも彼がいた。そんな彼が遥に声を掛けてくれたのである。令和始まって最大のイベントである。一方で、遥は成績こそ悪くはなかったが、これといった特技もなく、趣味もネットサーフィン程度、つまり魅力とは何なのかということすら考えを巡らせることがなかった。そんな遥と智也のデートを遥はどう受け止めていいのかわからない。
灰色の無機質な壁に黒の扉。その扉をあけると、二階から声がする。
「こっちだよ」
少し恐怖を感じるものの、遥は近づいていく。階段をみしりみしりと一段一段上がっていくと、彼の部屋から微かな香りが鼻腔をくすぐる。これはラベンダーか。
「こっちへおいで」
彼の囁きが遥の首筋をくすぐる。そんなつもりじゃなかったのにとかまととぶる暇もなく、遥は智也の元に吸い込まれていく。その時だった。
カツーン。
どこかで聞いた明瞭な音が響き渡る。と思ったのも束の間。
カラカラカラン。
大量の小玉が智也の膝の上に落ちる。声にならない悲鳴を上げた智也は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「ト、トイレどこですか?」
遥は思わず詰問するかのように聞き出し、その場を後にした。嘔吐いた末、出てくるものはもう何もなかった。それからどうやって帰宅したのかは覚えていない。気づいたときにはもう自室にいた。冷や汗が脇を伝う。まただ。また出てきた。どこから?どうやって?自分の身体に何か異変がある、そう強く自覚した最初の瞬間だった。智也とのデートは闇に押しつぶされた。いや、もっと大きなものを失うかも知れない。漠然とした感覚が、遥の未来を予兆していた。
◆
インターネットの検索から閲覧できる情報は、インターネットに含まれている情報のほんの一部である。これをサーフェスウェブと言う。検索できないが通常のブラウザで閲覧できるものをディープウェブと言い、機密性の高い情報が扱われている。そして、専用のツールでないと閲覧さえできない情報をダークウェブと呼び、犯罪の温床にもなっている。もっともその匿名性の高さから、内部告発に使われることもあり、一概にその是非を断じることはできない。ただ、一般市民が手を出そうものなら個人情報の流出やウィルス感染などの被害に襲われる危険性があるため、関わらないに越したことはない。たとえあなたの個人情報が既に売買されていたとしても。
そんなダークウェブを毎日ザッピングしているものがここ、週間Xのデスクにいた。記者歴10年の御手洗霊司である。艶のある七三分けの髪型に何の変哲もない黒のスーツを身にまとっているため、堅実な印象だ。元々は大手新聞社に勤務していたが、他社と代わり映えのない情報の取材レースに辟易して、マイナーな週刊誌である株式会社Xに転職した。この雑誌不況の中、もちろん売上は芳しくない。しかし、出版社というのは表の顔であった。その内情はアンケートと業務斡旋であった。
街角やショッピングモール、レストランなどでアンケートを行われているのを目にすることは多い。ただ目にするだけであって、それを実際に行うものはほんのひと握りである。しかし、マイクとカメラを向けられるとどうであろう。もちろん、それでも逃げ出す人間はいる。しかし、自分が脚光を浴びるんだと勘違いをして浮かれ気分になるものは今も昔も変わっていない。それは現在のYoutubeなどの配信サイトの多様化、ユーザー数の増加を考えると議論の余地がない。皆、自己承認欲求を満たしたいのである。
そこで、記者はインタビューの中で雑談を交えながら、記事になったら連絡すると言って、個人情報を聞き出す。そして、ここしか使いませんよ、と言いながらも実態はここ以外を使うのである。そこで得た情報をメーカー等に還元してマーケティングに活かす。もっと言えば、モニターのバイトを募集している旨のメールが送られてくる。割が良い仕事としては、ホスト・モデル・水商売・風俗業の斡旋である。株式会社Xがその窓口となり、収益の一部が還元される。そう言うビジネスモデルである。なお、Xがセックスの隠語であることは関係者にとっては周知の事実である。
霊司はそういったこと全て分かった上でXに入社した。ジャーナリストとしてのプライドを捨てたかと思われるかもしれない。しかし、ここには何のしがらみもない。広告ばかりの週刊誌は売れる必要がないのだから。それにXは副業が認められていた。それは水商売や美容業界などで働くことが成果につながるためである。だから、成果さえ上げていればフリー記者御手洗霊司として、大手に情報を流すことができる。もちろん、前職の同僚を頼ることも可能だ。
そんな霊司がひっかかったのはダークウェブではなく、Twitterの写真だった。女子高生(もっとも顔は隠されているが)が石ころを吐き出してると言う。このぐらいの加工は簡単だ。Twitterは一部ではデマッターと呼ばれるほど信頼性が低い情報源だ。震災時などに毎回デマが飛び交う。ただ、なんの面白みもなく、バズってもいない画像が複数件投稿されていることに霊司は違和感を覚えるのだった。
【邂逅】
口から小玉。そして智也とのデート、正確にはしていないが。その日からすぐにGoogleで手がかりを探し始めたが、既に一週間が経過した。国立図書館でも医学書を斜め読みしたが、そもそも専門知識のない遥にはうんともすんとも分からない。こんなこと誰にも―親にも友達にも相談できない。いや、したくない。私自身が何か人でないものに変わりつつあるのではないかという、疎外感と恐怖感をないまぜにした混沌から遥は抜け出すことができない。そんな遥がとあるインターネット掲示板に辿り着いた。
「超能力研究会」どこにでもあるようでどこでも関わったことのない世界について記載がある。貼られてあるリンク。神にも祈る気持ちでリンクをクリックした。開いたページには数多くのリンクが貼られていた。念動力、サイコメトリー、テレパス……。ためしに念動力をクリックしてみる。「念動力」…「物体を精神の力で動かす能力。一部ではポルターガイスト現象として知られている。思春期の女子がいる家庭でよく確認されているが、関連は不明。そもそもの経緯としては……」文章は続く。ここに私の期待する答はあるのだろうか。サイトの末尾にcontactと記載がある。超能力研究会会長K。メールアドレスも併載されている。藁にもすがる思いで遥はメールを書いた。自分の口から歪な小玉がでること、原因が不明であること、頼れる情報源がないこと。思いの丈をぶつけた。すぐに返信があった。
「あなたが孤独に押しつぶされる前に連絡を頂き、ありがとうございます。よろしければ一度直接お会いしてお話し伺えればと思います。都内在住K」
遥は新宿区に住んでいる。都内であればどこでも一時間ほどで行ける距離感だ。その旨を伝えると、
「では一週間後に新宿駅で待ち合わせしましょう」
と回答が来た。本当にこの男、いや女かもしれない、に会ってもよいものなのだろうか。溺れる者は藁をもつかむ。藁の頼りなさに今一度気づかされる今日であった。
期日はやってきた。この一週間何にも手がつかなかった。もちろん、智也に連絡などできるはずもない。智也が遥のことを化物のように吹聴しているのではないかという被害妄想さえも膨らむ。しかし、クラスでの遥の扱いは変わらず、居ても居なくても変わらない影のような存在だった。なにかいじめでも始まるのではないかと恐れていた遥が唯一安堵できる点だった。
目印は黒のニット帽に黒のコート、黒のサングラス。体形は中肉中背、どうやら同伴者がいるらしい。新宿の東口を出るとまもなくして喫煙所がある。そこでの待ち合わせだ。ほどなくしてある光景が目に飛び込んできた。レースの襟にピンク色と黒色のワンピース。細部には白色で刺繍が施されている。これはリス?いわゆるゴスロリという部類なのだろうか。無意識的に距離を取っていると、その男はいた。黒のサングラスに黒のニット帽、黒のコート。まさかこの男がKなのか、そして同伴者はゴスロリ女?疑問が頭を過ぎる、とその瞬間、男に声をかけられた。
「あなたですね。こんにちは。Kと申します」
黒の影が丁寧にお辞儀をした。咄嗟に言葉が出ずしどろもどろになる。
「あ、こんにちは。なんで……私だと分かったんですか」
「分かりますよ。あなたは特殊な人間だ。こちら側の人間ですよ、ね?」
Kの眼力が強くなった、ような気がした。眼光とはこういうことを言うのだろうか。
「はい、はる……Hと申します。よろしくお願いします」
「では、行きましょうか」
「どこへですか」
「ついてきてください、来ていただければ分かります」
Kは歩き出した。ゴスロリ女は口を開かない。遥は言われるままについていく、しかなかったと言っていい。他に手がかりはないのだ。姉だったら、何か分かったかも知れない。あるいは一緒について来てくれるだけでも良かったかもしれない。しかし……。遥は一人顔を横に振る。きっと姉はいつもどおり遥に同情の目を向けるだろう。遥はそれが耐え切れなかった。
Kは歌舞伎町の方面に歩いていく。遥がそれについていき、何故かゴスロリ女がその後ろをついてくる形だ。見張られているのだろうか。遥は歌舞伎町には詳しくない。大通りを三回曲がり小道に入る。そのビルは喧噪が静寂に変わるその一角に位置していた。空きビルなのかテナント募集中と書かれている。
「どうぞ」
Kは短く促す。ゴスロリ女が遥を追い越してビルに走りこむ。不信感が高まる中、不思議とここなら得体のしれない何かが自分をなんとかしてくれるのではないかという怪しげな期待感も沸いてきた。
ビルの二階の一室。表記は超能力研究会とある。扉を開けると、ヒーリングミュージックが聞こえてきた。部屋の中には一脚のパイプ椅子、ただそれのみが置いてある。
「は~い、座って座って~!」
ゴスロリ女が突如口を開いた。
「あ~しんどかった。今日寒いよね~。ヒートテック着てるんだけど、カイロ持ってくれば良かった~あ~最悪~」
突然のことに遥は閉口した。
「くるみちゃんはこの部屋でしか喋れないのです」
白髪の男、Kは説明する。ニット帽を脱いだKは、白髪が美しくなびく。
「それが彼女が決めた『ルール』なんです」
「あたしの能力は人にときめきを与える能力。疲れたサラリーマンにやる気を与えたり、恋愛に臆病な女の子を後押ししたりする能力。その代償として、あたしはこの部屋でしか会話ができない。文字を書いたり、メールはできたりするけどね」
「代償?」
「そう、能力をコントロールするには代償が必要になります。それがこの宇宙の法則なのです」
白髪のKが続ける。
「宇宙の法則……」
遥の耳には言葉が入ってくるが、頭には入ってこない。
「どうやらあなたは何も知らないようですね。能力をコントロールできていないようです。こんな風に」
というと白髪のKは遥の胸をいきなり掴んだ。咄嗟の反応が出る前にその現象は起きた。
カツカツカツーン。
小玉だ。また例の歪な形をした小玉がでてきたのだ。
「大切なのは平常心」
白髪のKは更に続ける。
「このように」
音楽の音量が大きくなる。しかし煩くはない。どこか心地よい。胎動のような感覚を覚える。すると、小玉が落ちるのが止んだ。
「僕の能力は人の才能を見抜く能力。Hさん、あなたの能力は二酸化炭素を固定化させる力のようだ」
「なになに?理系なの?なんか地味な力だな~」
ゴスロリ女が絡んでくる。
「人の呼気に含まれる二酸化炭素は約一%。一日で排出する量は約一㎏。あなたはそれを固定化する能力を持っている」
白髪のKは続ける。
「でも、代償がないとコントロールできないよ」
ゴスロリ女は本来お喋りなようだ。
「オイラみたいにね」
どこからか声がする。気づくと部屋の隅に灰色のパーカーを着た小さなシルエットが浮かび上がる。フードを被っていて男か女かは分からない。
「彼の能力は人の心を安定化させる能力。代償は……」
「透明になることだよ」
灰色のパーカーが消える。と同時に今度は川のせせらぎのような環境音が流れ出す。
「ってね」
再び灰色のパーカーが現れる。音が止む。服まで消えるのはどういう原理なのか。
「正確には他者に存在を認識されないってことさ、あ、オイラてんって言うんだよろしくな。存在を認識されないから精神科医にはなれないんだよね笑」
「あたしは占い師やってるよ。占えないんだけど、後押しができるからね笑」
ここの人間は皆良く喋る。
「能力の暴走は感情の起伏によって生じます。てんの能力はHさんのような扉を開けたばかりの人には必要な力なのです」
白髪のKがまとめる。
「状況は理解できましたか」
遥は考える。
「ちょっといいですか」
パアン。遥はKを平手打ちした。
「おっぱい……さわらないで」
「ひゃっはっはっ」
ゴスロリが下品に笑う。
「え~と、私は病気じゃないの?」
「ギフト。あなたの才能です」
白髪のKがフォローする。
「代償はどうやって決めるの?」
「代償は自由に決められるけど、程度によってコントロールの度合が変わってきます」
「結局自由なの?制限されるの?」
「あなたの選択次第です。どれくらいの能力を発揮したいかによります」
「そんなこと言われても分からないよ……」
遥は突然の情報量に困惑する。
「そこであたしの出番ってわけ」
ゴスロリが口を出す。
「あたしのときめきを与える力であんたは能力に対して前向きになれる。準備はいい?」
「やめて!」
遥は叫ぶ。
「人の心を勝手に安定化?したり、ときめかせたり、何だと思ってるの?もう私に干渉しないで」
「あなたは答を求めにきたのでしょう。私達は知っています。あなたの能力は大きな可能性を……」
「なに。やめて。重い。私は普通でいたいの。こんな能力いらない!」
カツーン、カツーン。
再び遥の口から小玉が零れる。零れる。零れる。
「あなたは能力を制御できていません。これは私の電話番号です。いつでも連絡してきて下さい」
遥はそれを受け取ると逃げるように部屋を出ていった。紙はくしゃくしゃにポケットにしまい込んだ。遥は泣いた。涙がぽろぽろと落ちる。
カツーン、カツーン。
それにシンクロするように小玉も落ち続ける。それは遥が自室に籠るまで続いた。
◆
電車内で謎の石を撒き散らした女子高生A。彼女を写した投稿は5つ。床に落ちた石を写した投稿は二〇を超えた。投稿した5人にメッセージを送る。彼女はどこの駅で降りたのか。どんな様子だったのか。
5人とも揃って、石を撒き散らした後、すぐ次の駅で降りたと回答してくる。だがどこの駅かは分からないようだった。ただ、分かったことは一つある。京王線の上り列車だったと。制服の特徴はなんとなく分かる。そして京王線を使う。アイツに聞いてみよう。
若い女性が身に付けるものは何でも売れる。言わずもがな若い女性は買うし、ませた幼い女児も、若作りしたい妙齢の女性も買い求める。そして、男性も買うのだ。それは女性へのプレゼントということもあれば、女装癖のある男性、ニューハーフなど市場は大きい。
そしてもっと注目されているのが、中古市場である。女性の使用済み商品は市場を選べば通常の商品より高い価格で販売できる。想像に難くないのが下着である。付加価値をつけるやり方はいくつかあるが、通常通り使用して捨てる時に販売するだけで定価以上の価格がつく。また、意外なものは赤本と呼ばれる大学の過去問である。これは女子高生か男子校生が使った可能性が高いため、簡単にJKの中古品を手に入れることができる。使い捨て下着はアラフォーが販売している可能性があるのだ。もちろん、そっちはそっちで需要があるのだが。そして、王道中の王道は女子高生の制服である。
「もしもし、ネズミか。いま、写真を5通送ったが、どこの制服か分かるか」
「オーソドックスなネイビーの制服だニャー。絞るのが難しいニャー」
「あと、京王線の上り電車で帰宅している」
「京王線……そうすると、昌華高校、如月高校、武蔵高校、いくつかあるニャー」
「そうか、じゃぁ、リストにまとめて送っておいてくれ」
霊司は電話を切ると、別のところにかける。
「1月7日の京王線の車内に石のようなものが不法投棄されていたようですが、その後どうされましたか」
電話口のものはやはり把握しておらず、しばし待たされる。
「お待たせしました。そのようなものは当社としては確認できておりませんが」
「こちらは証拠写真があるんで、虚偽の説明を行ったという記事を書く方針でいいですかね?」
「なんですか?証拠写真って?勝手に我々の車両を撮影されても困るんですが」
「撮ったのは俺じゃねぇし、撮り鉄を敵に回すのか?で、どうしたんですか?」
「記事にはしないで頂きたいのですが」
「鉄道会社については伏せますよ」
「でしたら―」
霊司は石の処理先を聞くと、黒のトレンチコートを着て会社を後にした。
【覚醒】
チョコレートが溶ける温度までお湯を温める。沸騰したお湯を使ってはいけないとどこかのウェブサイトで読んだ。確か五十度強の温度だ。湯煎でチョコレートが少しずつ溶けてくる。
遥の小玉はあれから出ていない。あれは白昼夢だったのではないかと、思いを巡らす。チョコレートがどろどろ溶けていく。遥の心は既に何かをされてしまったのか被害妄想が膨らんでいく。チョコレートの焦げた香りが漂う。どうやら熱を加えすぎたようだ。ハート形の型に流し込んで形状を整えていく。
明日は女子が男子に思いを伝えるであろうと、製菓会社が決めた日である。遥はこれまで姉が作るのを見てきただけで、バレンタインを意識するのは今回が初めてだ。智也にチョコレートをあげたい、というわけではない。智也に会う口実が欲しいのだ。智也はセンター試験を終え、二次試験に向けて勉強しているはずだ。そんな彼を癒してあげたい。遥の母性がそう訴える。智也と会う約束をしているわけでもない。智也が明日学校に来るかどうかさえ分からない。しかし、LINEがある。ただそれで聞けばいいだけなのに遥は聞くことができない。固まってきたチョコレートを眺めながらも、遥の心は固まらない。運を天に任せる。もしも赤い糸があったならば、智也と会うことができるのではないか。遥はあり得る現実から目をそらし、他力本願な気持ちになる。突然訪れたら彼はどんな反応をするか、そんな重い女であることを遥は自覚していなかった。
チョコレートを冷蔵庫で一時間冷やした後、遥は智也の家を目指した。ラッピングはデパートで買った小花柄のものにピンクのリボンをつけている。遥の好きなドラマで演出されていたものだ。黒のトートバッグにそれを入れると、遥は智也の家に向かいだした。
歩道橋を登り、通路を渡っていると突風が吹いた。トートバッグが風に煽られ、小花柄の包みが道路に落ちた。と、一台のトラックが通過した、小包の上を。
ぐしゃり。
遥の顔から血の気がひいた。遥と智也の唯一のつながり、それが壊れた。あっという間に。その瞬間、巨大な塊がトラックの後ろに現れた。後続車が寸でのところで反対車線に迂回する。そのため、ちょうどこちらに直進していた対向車に衝突した。あたりが騒然とする。遥はその場にぺたんと座り込んだ。歩道橋の上から見下ろすと、事故の様子が良くわかる。右に迂回した軽自動車が対向車のトラックに潰されている。運転席が凹んでいる。運転手は無事だろうか。遥は今おかれている状況を直視できない。遥の無意識が訴える。
「ワタシノセイナノカ」
「ワタシノノウリョクノセイナノカ」
逃げ出したい。ここから逃げ出したい。本来なら手元のスマートフォンに一一〇番や一一九番を入れなければいけないのに思考が及ばない。次第に人が集まっていく。遠くからサイレンが聞こえる。
「ココカラタチサラナケレバ」
本能が訴える。震える足を抱えながら、一歩一歩道を戻る。もはや智也の家に行く気はさらさら起きなかった。今の現実に耐えることができない。気づいたら遥は自室にいた。誰かに伝えたい。でも、誰に?
遥の引き出しに収まっているくしゃくしゃの紙。Kの電話番号が書かれた紙。遥はそれを意識せずにはいられなかった。手に取ると、遥は書かれた番号をスマートフォンに入力していた。ワンコールで相手が出る。
「こんにちはHさん。Kです。その後いかがですか?」
「あの……こんにちは。その……能力がおかしいんです。大きな塊が……突然……」
「能力が暴走したのですね。いまどちらですか?」
「自宅です」
「いまからこちらに来られますか?」
遥は頷くより他なかった。前回の朧げな記憶を頼りに新宿駅まで行き、例の古びた建物に辿り着く。もうテナント募集の広告は取り外されている。ドアをノックする。
「失礼します」
ドアを開けると白髪のKしかいなかった。
「お待ちしていました、Hさん。
いまからあなたに能力のコントロールの仕方をお伝えします。何らかの形で感情が高ぶるとき能力は発動します。つまり、ポイントは感情のコントロールなのです。例えるなら意図的に涙を流すような行為です。女優になったと思って、今まで一番嬉しかったこと、または辛かったことを思い出してください」
遥は瞬間的に先ほどの事故を思い出した。あの運転手は無事だったろうか。そう思うと、遥の目から自然に涙が零れた。
カツーン、カツーン。
中くらいの玉が口から零れた。
「ほう、君は才能があるね」
「大切なことは認識だ。その玉が自分の体の延長であると、頭ではなく身体で理解する必要がある。自転車に乗るようなものだ。学校の授業で自転車の乗り方を習ったことがあるかい。習うより慣れろが大切だ。もっと感情を深く掘り起こすのだ」
また、ヒーリングミュージックが流れ出す。気持ちが安らいでいく。遥は遠い昔を思い出し始めた。
◆
廃棄物の種類は大きく2種類に分かれている。一般廃棄物と産業廃棄物である。最も簡単な説明をすると、個人が出すゴミは一般廃棄物であり、事業活動の結果出るゴミは産業廃棄物である。つまり、たとえば火曜日と金曜日に燃えるゴミを出した場合それは一般廃棄物となる。但し、正確にはこの説明は間違っている。実際は法律で産業廃棄物が20種類定義されており、それ以外が全て一般廃棄物となっている。そして、一般廃棄物は自治体が処理を行い、産業廃棄物は民間が処理を行う。
つまり、列車内に残されたゴミは一般廃棄物であり、自治体が許可を出した収集運搬会社によって、自治体が管轄している処理場に送られる。東京都では、東京二十三区清掃一部事務組合が処理を行っている。霊司は、豊島清掃工場に訪れていた。
「すみません、ライターの御手洗と申しますが、こちらの写真に映ったゴミはこちらに来ていないでしょうか」
工場長の戸田が答える。
「ん~なんだろな~これは、石材か?金属か?どっちにしろ?うちじゃ扱わねぇんじゃねぇかな。あ、ちょっと田中を呼んでくれ」
受付の女性が呼びに行く。
「しかし、なんでまたこれを調査してるんだ?なにか有害なものなのか?」
「そこも含めて調査しています」
「そうか、そうなると、都にも報告しねぇといけねぇな。何か分かったら連絡をください」
「はい、分かりました」
若い男性が大きく身体を揺らしながら、近づいてくる。
「こんにちはぁぁぁ!!」
近い距離で大声を出されて、御手洗は驚く。
「おぉ、今日も元気だな。いいぞ、いいぞ。田中、こいつに見覚えあるか」
田中と呼ばれた男が何度も首を縦に振る。
「それ、すごくめずらしい。とってもかたい。おぼえてる。きんぞくとおなじぐるーぷにした」
「さすが、記憶力がいいな。よし戻っていいぞ」
「しつれいしますぅぅ!!」
帰りも大きな声で帰っていく。
「驚いたかい。こういう清掃工場では、ゴミの分別をああいった知的障害者が行っている。逆にそうじゃないとこんな仕事はできねぇ、ずっと流れてくるだけのゴミを分ける仕事だ。誰もやりたがらない。でもな、こんな仕事にだってつけねぇ、障害者もいるんだ。そういう意味では、あいつらは障害者のエリートなんだ」
「なるほど、勉強になります。それで、この物体の行く先は?」
「ああ、そうだったな。鹿島金属だ。住所はここに書いてある。連絡は俺からも入れておくよ」
「助かります。ありがとうございました」
今まで気にしてこなかったが、ゴミの行方というのは思ったより壮大な冒険だった。たった1つのゴミを処理するだけで、これだけの人の労力がかかっているのか。霊司は鹿島金属で何が待ち受けているのか、少し楽しみになった。
【回顧】
たったったっ。少女が公園を走っている。ブランコも滑り台もない質素な公園である。少年達がその後を追いかける。少女は凧をあげていた。ふわりふわり。風に乗って気持ちよさそうに凧が泳ぐ。少女と少年達の光景はまるで鬼を追いかけている鬼ごっこのようだ。少女のスカートもひらりひらりと風になびく。そんな光景を遠くから見ている別の少女がいた。五才の遥である。
姉の光はいつも集団の中心であったが、遥はそこに交じることなく自分の時間を過ごしていた。自分の時間は、自分だけのものであるという喜びはなく、遥は孤独と戦っていた。姉の光は活動的で社交性があり、運動も得意で頭も良かった。なにより遥が嫉妬、まだそう呼ぶことを知らない年齢であったが、感じたのは光の類まれなる容姿であった。男の子たちが夢中になるのが良くわかる。光と遥の年齢差は五才。光は遥の面倒を見る立場であったが、こうして公園に連れてくるものの積極的に仲間に入れることはしなかった。初潮を迎えうる年齢であろう光には男の子と遊ぶことは自尊心を満たし、また刺激的なものであった。五才下の妹のことは可愛がっていたが、それは家の中だけのことであった。
遥はこうして、姉の影を追いながら幼少期を過ごす。それはどこか抑圧された屈折した精神を育んだ。遥は自分の才覚に気づくことなく、成長という名の無為な時間を過ごし、身体だけが丸みを帯びた柔らかな存在になっていく。自分は姉の影でただ存在しているだけの存在という自己肯定感の低さが養成された。遥が自分を出せるのは家で姉と人形ごっこなどをしている時であり、外では大人しくしていなければならないものだと無意識に刷り込まれていた。
遥がふと気づくと中くらいの玉が一つ増えていた。Kが喋る。
「感情の起伏が能力を発動させるキーだ。ここでしばらく訓練するといい。彼が手伝ってくれるだろう」
てんがペコリと挨拶する。今日はフードを外している。ピンク色のモヒカンヘア。柔らかい物腰の彼だが、過激な髪型だ。透明になるから気にしないのだろうか。そう言うとKはその場を立ち去った。
「オイラの能力でHさんの心を子供時代に戻した。過去の回顧はどうだったかい。楽しめたかい」
遥の目からは一筋の涙が流れた。なぜ泣いているかは分からない。
「私に干渉しないでって言ったでしょ」
「君の心には閉ざされたドアがいくつもある。それを一つずつ開けていく。そのうえで自分自身を見つめることが能力の開花につながる」
遥はまだぼーとした頭で考える。自分自身を振り返る。遥は今までそんなことをしてこなかったかもしれない。
閉ざされた扉。それは遥のこれまでの人生の足跡、知らないふりをしてきた過去との対面を意味する。姉に対する劣等感。第一の扉はそれだった。てんの能力で第二、第三の扉が開く。
第二の扉は友達との確執であった。この言葉は不正確かも知れない。何故なら、遥には友達と呼べる存在はいなかったし、確執と呼べる意見の主張がなかったのだから、そう彼女は沈黙という名の主張に固執したのである。小学校も高学年となると、異性を意識し始める。化粧や服装、恋人の有無、性に関するあれこれ、女子は秘密という名のグルーピングを行ない、排他性と匿名性の名のもとに攻撃を始める。それはいつ自分が標的になってもおかしくないデス・ゲームだった。大抵の女子はここで女性社会を生き抜いていくための処世術を学ぶ。しかし、遥は誰に対する悪口も同調したくなかった上、場を調停する能力も無かった。その結果、遥の味方もまた誰ひとりとしていなくなった。それは同学区内の中学校でも続き、高校に至っては遥は友人を作ることを諦めていた。
第三の扉は両親の離婚だった。遥の父親は物書きだった。若い時に新人賞を受賞し、大手出版社から本を出していた。その書籍のファンだった母は父にファンレターを送り続け、父と瞬く間にゴールインした。しかし、そこからが問題だった。父の本は一向に売れず、遂には筆を取ることができず、アルコールに溺れる日々となってしまった。母の父に対する愛情は変わらなかった。しかし、光と遥という思春期の娘達を育てるには環境が不適切だった。母は父と離婚するものの、今も援助は続けている。再び筆を取れるようになることを信じて。
遥がこれまで対面してきた暗い過去。それらが遥の心から解放されるたびに中くらいの玉が現れる。そして黒い靄のようなものが遥の口から湧いて出てきた。遥の心の最深部。最も重い扉の前に遥とてんが佇む。扉の前に一つの羽が落ちている。
「この扉は……ダメ、開けられない」
遥が悲痛の声を絞り出す。
「Hさん、君の足に嵌められている重い枷をほどくにはこの扉を開ける必要がある。何があったかオイラに聞かせてくれる?」
ぱさぱさぱさ。
漆黒の闇に羽ばたく音が響き渡る。その猛禽類は闇夜に溶け込み、その光る目で遠くを見据える。
ぱさぱさぱさ。
遥かな高みに向けて飛び立って行く。高く、高く。
遥は目が覚めた。目から涙が零れ落ちる。七年前のある喪失を思い出したからだ。その白色の死体は血に染まり、住宅のゴミ収集場に生ごみと共に放置されていた。気づいたのは昼過ぎのことだ。多くの目に触れているはずなのにその死体は放置されていた。蟻などの虫がたかっている。その目は灰色に濁り、虚空を見つめている。
幸喜と名付けられたその白い梟は遥の十才の誕生日の両親からの贈り物であった。まだ離婚する前のことである。福を呼ぶ鳥として可哀そうな妹に両親がプレゼントしたものである。
両親としても姉と妹の間に幸福の差があることを認識していた。分け隔てなく育てたつもりであったが、持ち前の性質はどうにもならない。なんでもできる姉との比較にコンプレックスを幼心にこじらせた遥は既に闇を抱えているように見えた。その闇を少しでも払拭したいと思い、贈られたその鳥は皮肉にも一年と経たずに遥の前から姿を消すこととなった。
その一年間、遥は毎日幸喜に話しかけた。他に話しかける相手がいなかったのである。言わずもがな、梟は返事をすることがない。しかし、彼女のイマジナリーフレンドとして遥と幸喜のコミュニケーションは「おはよう」から「おやすみ」まで続いた。決して外に出すことはなかった。これはもしかしたら解離性同一性障害の一端だったのかもしれない。
同時に遥は幸喜の絵を描き続けた。それは最初こそ稚拙なものだったが、徐々に巧く写実的なものになってきた。遥と幸喜が様々なところへおでかけする絵。絵の中では、遥も幸喜も自由だった。
しかし、ある日ケージを開けたとき、たまたま窓が開いていた。外のお散歩の経験のない幸喜はそのまま帰ってくることはなかった。発見されるまでの僅かの間、彼は少しでも自然を満喫することができたのだろうか。それとも都会の喧騒に苛まれたのだろうか。
福を象徴する鳥、梟。彼の喪失は遥の不幸を運命づける象徴だったのかもしれない。友達との確執、両親の離婚はそれからほどなくしてのことであり、母親に引き取られたのち、光と遥の生活はますます異なるものとなる。母親の期待を一身に受けて、賛辞の言葉をもらう機会の多い光に対して、とりたてて目立たない遥はその内なる思いを燻ぶらせていた。光と影。そのコントラストは周囲の者も当然気づいており、遥は腫れもののように扱われていた。
距離感。それは人間関係を円滑にする上で大切なものであるが、時として残酷だ。遥は光の影であるかのように、どこかの誰かの影のようにひっそりと、しかし着実に成長していく。そして迎えた高二の冬にこの一連の事件が起きた。
黒い靄が球状になり、四つ目の玉として現れる。どの玉よりも大きく、黒光りしたそれは遥の顔をほのかに映し出す。自分の顔が歪んで見えた。
「これでHさんの心の扉はすべて開かれた。オイラにできるのはここまでだ。あとはくるみちゃんに頼むといい」
「はるか……」
「ん?」
「私の名前は遥。覚えておいて……」
「遥ちゃん、よろしくな。ちょっと待ってくるみちゃんを今呼ぶから」
そういうとてんはどこかに電話を掛け始めた。ほどなくしてくるみちゃんがやってきた。今日は紫の無地の着物である。コスプレイヤーさんなのだろうか。Kも一緒に来た。数㎝程度の厚さの四角い箱とスーパーの袋を持っている。袋からは黒い液体の入ったペットボトルが透けて見える。
「さぁ、一杯やろうか」
Kはそう言うと、コンクリートの地べたにピザとコーラを広げ始めた。紙皿と紙コップはない。箸もお手拭きもない。
「私たちは家族だ。この世界に能力を持った人間は約〇.〇一%いるが、能力を自覚して活用しているのは一握りだ。マイノリティの私たちはつながり助け合う必要がある。そう思わないか遥ちゃん」
「どうして私の名前を?」
「てんによって心の扉が開かれた今、私には心の中が見えるのだよ、コウキちゃんのこともね」
「幸喜……」
幸喜を失ったとき遥はその半身を失ったような気がした。遥の自己肯定感の低さが成長とともに改善されなかった原因がここにもあるのかもしれない。
「さあ、みんな食べよう」
宴が始まる。
◆
鹿島金属に辿り着いた。写真を見せると、職員はすぐ倉庫の裏に連れて行ってくれた。そこには砂場の山のように石が積み上げられていた。
「どうしようか考えておったんですわ。返送するにも埋立地に送るのも金がかかりますからな。もう其の辺に埋めたくなりましたわ。もちろん法律違反なんで、あれ有価物やったら違反にならないのか。これってそもそも廃棄物なのか分からんのですわ」
「一つ貰ってもいいですか?」
「一つと言わず、全部持って行ってくださいよ。記事の役に立ちますよ」
霊司は丁重にお断りするものの予備も考えて5つほど貰うと、その場を後にした。
物質の正体を明らかにするためにはどうすれば良いだろうか?専門機関に依頼すれば結果は出してくれるだろう。しかし、大物だった場合、手柄を取られる危険性がある。まずは、有機物か無機物かを調べるところからか。有機物だった場合、炭素が含まれているということだ。無機物だった場合は、イオン化傾向を調べるために電池でも作ってみるか。何はともあれ、燃やしてみてからだ。有機物であれば燃えて二酸化炭素を生成するはずだ。二酸化炭素であることを確かめるために石灰水も用意した。マッチで火をつける。さぁ、どうだ。
物体は変化しなかった。石灰水にも変化がない。では、無機物か。霊司は様々な電池を作って実験してみた。しかし、電気は流れなかった。燃えることも電気が流れることもない。安定している。「とってもかたい」田中の言葉を思い出した。
「ダイアモンド……」
霊司はそれしか思い浮かばなかった。しかし、ダイアモンドのように輝いてはいない。ダイアモンドの亜種か。霊司はスマホを取り出すとどこかへ電話をかけた。
「もしもし松井か?助教授になったそうじゃないか。おめでとう。そこでなんだが、いい話があるんだ」
【始動】
まだまだ冷たい空気が肌をなでる中、梅の花がぽつぽつと咲き始めている。黒のダッフルコートに身を包んだ少女が古びた工場の前に佇む。工場の入り口は土砂で汚れており、それは車道にまで続いている。煙突からは黒い煙がもくもくと出ており、目には見えないもののこちらまで不快な空気が漂ってくるのを感じる。少女はいつも通り念じた。幸喜のことを思い出す。すると煙突の上に巨大な玉が浮遊する。少女は一呼吸置くと、身を翻す。目からは一筋の涙がこぼれている。ドンッと音がなり煙突がへし折れる。どこからか警報がなり始める。ぽつりぽつりと野次馬が集まりだすが、少女の姿はもうそこにはなかった。
遥の「仕事」はこれで十件目だった。いつものように匿名掲示板を覗き込むと、また数件の申し込みがあった。認知度が少しずつ上がっているような気がする。約束のノルマは達成した。今日は、Kからフェーズ三に移行する旨が発表されるはずだった。自分の呼気からでるCO2を自由に固体化する段階がフェーズ一、車や工場などの外部のCO2を自由に固体化する段階がフェーズ二、そしてフェーズ三は……。そのタイミングで電話がなる。Kだ。
「これから事務所に来て下さい。大事な話があります」
事務所に着くと、くるみちゃん、てん、そしてKがいた。Kが口火を切る。
「遥ちゃん以外にはかねてから話していた通り、地球温暖化、いや気候変動は人類が直面している最重要課題となっている。私達は遥ちゃんの能力を最大限に活かすためにこれまで調査してきた。IPCCの第四次評価報告書の段階では、気候変動に対する懐疑論者もメディアを賑わせていたが、AR5つまり第五次評価報告書が出ると彼等も息をひそめた。二〇二一年から二〇二二年にかけてAR6が公表される手筈となっているが、今や一刻の猶予も許されないことは、一.五度の特別報告書からも明らかである。私達が行うことは粛清、ただそれだけである。駒はそろった。私達が期待していた救世主。改めて迎え入れよう。遥ちゃん。いよいよ君の出番が来たよ」
IPCC、AR5、この人達は何を言っているのだろうか。遥に分かったのは唯一粛清という言葉。遥は粛清という言葉の名のもとに、悪徳企業に対して復讐の肩代わりをしてきた。ニュースになっているものも少なくなく、突如現れた落下物に世間はざわついていた。宇宙人からのコンタクトだの審判の日が近いだの、各々が各々の主張を展開している。しかし、その実態を知っているのはここにいる四人だけである。
「オイラから説明するよ」
てんが切り出した。
「まず気候変動と地球温暖化の違いは分かるかな。地球温暖化は地球の気温が上がることだね。もちろん、上がり方は場所によって異なる。極地、緯度が高いところの方が大きな上昇をすると言われている。気候変動は、地球温暖化のことももちろん指すけれど、もっと広い意味を持つんだ。たとえば、局所的な集中豪雨の増加、規模の大きい台風の増加、海洋酸性化なんかも指摘されているね。これらが温室効果ガスつまりCO2の影響、しかもそれが人為的であるということを科学的に説明しているのがIPCCなんだ。これは国際機関でね、世界中の科学者から査読付き論文を集めて客観的に気候変動についての原理、影響、対策について考察しているんだ」
地球温暖化。ニュースでは聞いたことがある。学校の授業でも習ったかもしれない。しかし、問題になるのはまだ先の話ではなかったか。
「人為的な活動による世界全体の平均気温の上昇は産業革命以前と比べて二〇一七年時点で約一.〇度となっており、現在の度合いで温暖化が進行すれば、二〇三〇~五二年の間に一.五度に達する可能性が高いとされている。これが二〇一八年一〇月に発表された一.五度特別報告書の内容なんだ。一.五度の気温上昇が起きると、脆弱な国、つまり島国や発展途上国に影響が出始める。これは不公平な問題だということは分かるかな?」
一.五度の気温上昇。それがどの程度のものかは分からない。遥は暖房の設定温度も寒いときは平気で二、三度上げる。これはやはり環境に悪いことなのだろうか。公平、不公平。遥はケンカ別れした友人、姉の光を思い出す。遥は公平に扱われていただろうか。遥のクラスメイトはみんな口が達者で明るく可愛い友人の味方をした。両親は光と遥を分け隔てなく育ててくれたように見えたが、離婚時の親権の争いではどちらが光を引き取るかで揉めた。しかしながら、遥の時はそうでなかったことを遥は知ってしまった。友情も愛情も誰しにも得難いものであることを遥は自分事として体験した。他人の不公平などにどうして興味を見出せようか。
「世の中に不公平でないことなんてないわ」
遥は悪態をついた。
「そうだね。この気候変動もまた衡平性の問題なんだ。『こう』はぎょうにんべんの漢字ね」
「衡平?公平じゃなくて?」
「リンゴジャムを作るためにリンゴが十個必要だとする。オイラが五個、遥ちゃんが五個用意するのが公平。でも、オイラは一二五円でリンゴが買えるのに遥ちゃんは八三円で買えたとする。その場合、オイラは四個、遥ちゃんは六個買うとコストが等分になる。これが衡平。つまりステークホルダー、利害関係者の事情を考慮した上でバランスを取るという意味だね」
算数の問題のようだ。遥は算数も数学も得意ではない。だが、安く買える人間が多く買うべきだということは分かった。
「この衡平性には大きく二つあるよ。各国間の衡平性と世代間の衡平性があるんだ。先進国は産業発展してきたので、温室効果ガスを歴史的に排出してきた背景があるね。だけど、気候変動の影響は発展途上国がより受けるんだ。つまり、全員が加害者であり、被害者であるという前提はあるものの、先進国がもたらした状況で発展途上国が被害を受けている現状なんだ。また、気候変動の影響は時間が経過すると共に深刻化する。つまり、親の世代がもたらした状況で子の世代が被害を受ける。これらを『共通だが差異ある責任』があるというんだ」
共通だが差異ある責任。みんながCO2を出し、みんながその影響を受ける。そして責任はステークホルダーによって違う。遥はてんの授業を追いかける。
「どの国が温室効果ガス、CO2を一番排出していると思う?」
「経済が発展している国だと思うので、アメリカと中国ですか、日本も?」
「そうだね、アメリカと中国で世界の温室効果ガスの約四割を排出している。日本は二〇一六年のデータだと三.五%しか出していない」
「日本はあまり出してないんですね」
「それでも二〇一六年のデータによると、日本は五番目に多くの温室効果ガスを排出している。約二〇〇弱の国々の中でだ」
「そんなに違うならアメリカと中国だけで対策を取ればいいんじゃないですか?」
「しかし、アメリカは二○三○年の目標を含む国際枠組みであるパリ協定から離脱した。中国はCO2を大量に排出する石炭を世界の半分も使っている。もちろん双方とも一枚岩ではない。カリフォルニア州などは気候変動対策に積極的だし、中国でも経済を回す観点で環境対策する企業に投資が行われている」
「それでも足りないんですか?」
「パリ協定が目標とする二〇三〇年の世界全体の温室効果ガス排出量は、協定で約束した各国の排出削減目標の合計を考慮しても、二一〇〇年の世界平均気温温度を二度に抑制するために必要な排出量を一二〇~一四〇トン上回ると予想されている」
「ちなみに二〇一七年度の日本の温室効果ガス排出量は年間約一三億トン。つまりアメリカと中国がこの世からなくなれば二度目標は達成できる」
戦争がなければこの世界は平和になる。そう聞こえた。
「そんなもしもボックスみたいなことできるわけが」
遥は現実感を伴わずにそうつぶやく。
「できるのだよ、遥ちゃんの力があれば」
Kが会話に入ってくる。
「温室効果ガスで最も削減が難しいものがCO2、二酸化炭素だ。なぜなら二酸化炭素は産業活動の副産物であり、それを抑制することは経済の圧迫につながるからだ。それを遥ちゃんは固体化することができる。遥ちゃんの創りあげた固体は、ダイヤモンドに匹敵する固さを持っている。ここでダイヤモンドの価値について少し説明しよう。ダイヤモンドの色や輝きは主に『光の分散』、つまりダイヤの中で太陽光が屈折して様々な色に分離されることで生まれる。今では人工石の中にも、天然ダイヤよりも高い分散率を誇るものが存在する。最も有名なものはキュービックジルコニアだ。本来の定義では天然のものより『美しい』ことになるはずだが、こうした宝石は『色が多すぎる』としてあまり評判が良くない。なぜダイヤモンドよりも美しい宝石に需要がないのだろうか?最も一般的な理由は、キュービックジルコニアが安価なことだ。キュービックジルコニアの婚約指輪では、愛のために大枚をはたく意欲を示せない。ダイヤモンドの価値は、その価格にある。つまり遥ちゃんの作った固体は資源価値のない廃棄物になるはずだ。そして、これが国中に現れたらどうなると思う?各国政府はこの廃棄物を処理するコストと二酸化炭素を削減するコストを天秤にかけるはずだ。そうすると、二酸化炭素を削減するインセンティブが生まれる。加えて二酸化炭素を固体化することで温室効果も抑制できる。一石二鳥なのだ」
これまで個人、法人規模で遥は二酸化炭素を固定化してきた。国規模で行うことなど想像がつかない。
「もちろん、現在の遥ちゃんの代償では足りない。見直す必要がある」
遥の代償は長期記憶の喪失であった。短期記憶に含まれる情報の多くは忘却され、その一部が長期記憶として保持される。この保持情報が長期記憶として安定化する過程は記憶の固定化と呼ばれる。長期記憶は保持時間が長く、数分から一生にわたって保持される記憶である。短期記憶とは異なり、容量の大きさに制限はないことが特徴とされる。総理大臣の名前、自転車の乗り方、大好きだったお菓子の名前、そしてこれまでの十件の仕事に相当する記憶を遥は失っていた。もちろん、情報は再認識することができる。技術は再習得することができる。しかし、そのエピソードに伴う感情は戻らない。もし、智也のことを忘れてしまえば、智也に対する恋心はもう永遠に失われてしまう。惚れ直さない限り。
「遥ちゃんは代償を設定するにあたり、無意識にスクリーニングしていたはずだ。忘れても良い記憶を取捨選択していた。その壁を取り払う必要がある。君にとって大事な記憶が失われる。その代わり君は世界の救世主となる。誰も知ることはないが、名もなき英雄として歴史に刻まれるのだ」
遥は思う、重要な記憶などあるのだろうか、むしろ消したいトラウマさえある。これまでの十件の仕事は遥の自尊心、それには今まで気づくことはなかったものだが、それをくすぐるものであった。ここにいていいんだ。自分の存在を肯定してくれる初めての経験だった。
「救世主とか英雄とかそんなのは分からない。でも、私は何をすればいいの?」
◆
東京大学助教授の松井から分析結果の報告が届いた。物質はカーボンナイドライドと呼ばれるものだった。つまり、炭素と窒素の合成化合物だ。既にいくつかの構造が発見されちいるが、今回の構造は新発見の可能性があるという。実験のためにもっと材料が欲しいと言われたので、鹿島金属の連絡先を教えておいた。
一方で、ここ最近企業が巨大固形物により破壊される事件が相次いでいた。どれも都内で起きており、人為的なものであれば都内在住であることが分かる。この固形物の正体については、警視庁は調査中であるという回答を出している。この一連の事件の被害者は知名度は決して高くない。しかし、悪い噂というのはぽつりぽつりと見つかっている。騒音・振動・悪臭など地域への悪影響をもたらす工場は、法律や条例で規制値が決まっている。しかし、24時間記録しているわけではない。検査や監査の際に稼働率を調整することもできるかもしれない。いずれにしても人は法律では納得できない。地域に嫌われる会社というのはどこの地域にもいるのだろう。
今回の事件は、零和のネズミ小僧と言わんばかりのものだ。実際、ダークウェブどころか匿名掲示板で事件の依頼の投稿が見つかっている。器物損壊罪または傷害罪の教唆か。こんなものIPアドレスからすぐ特定できるはずだ。もちろん、秋葉原などで外国人が販売しているスマホを契約せずに使い捨てたり、スターバックスなどの登録不要のフリーWifiなどで作業を行えば特定されないかもしれない。それでも既に容疑者として捕まっている者もいた。
問題は実行犯である。こんなリスクを背負いながら一連の犯行を成し遂げてみせた。どれもIPアドレスは違うようだが、肝心の金銭の授受の形跡が見当たらない。これがあれば有力な手掛かりにもなるし、動機もはっきりする。快楽犯なのかサイコパスなのかそれとも自分自身を正義と盲信しているのであろうか。
理由も分からず、謎の巨大物質を落とし続ける謎の人物あるいは団体X。そして、未発見物質を撒き散らした女子高生Y。さて、何か関係があるのか。簡単のため、YがXに加入したとしよう。謎の物質はカーボンナイトライドの亜種だ。それが大きな質量で何度も生成されているということは、再現可能な生成システムがあるということになる。そうなると、論文や特許の問題が出てくる。カーボンナイトライドの保管場所が襲撃される恐れもある。そうなると、都の方針としては沈黙にならざるを得ない。ここまでは、仮設に穴はない。だが、ピースが足りない。そのテクノロジーをどうやって手に入れたのか、運用しているのか?
霊司は巨大な闇に片足を突っ込んでいるような気がした。しかし、深淵を覗く者はまた深淵に覗かれているのだということには気づいてはいなかった。
【革命】
灰色のフードを被った男が紺色の制服に身を包んだ女性に声をかける。タイトなミニスカートから覗く生脚が官能的だ。
「トマトジュースを」
男が注文する。飛行機が到着するまで残り一時間。男は一人で前祝いをする。くるみちゃんの方はどうなっているだろうか?
その前日、一人の女性がパステルカラーのフリフリのワンピースを翻し、赤いヒールをカツカツと鳴らす。くるみちゃんはタイムズスクエアに足を踏み入れた。アメリカが世界に誇る劇場が立ち並ぶ。「キャッツ」、「マンマミーア」、「レミゼラブル」。くるみちゃんはどの作品を観るか迷う。一通り観てはいるが、本場のブロードウェイで観るのは初めてだ。翌日のことを思うと、高揚感は増し、気持ちが弾む。明日世界が変わる。その前日を祝う宴として、一つの劇場に入る。「ジーザス・クライスト・スーパースター」 は、聖書を題材にイエス・キリストの最後の七日間を描いたロックミュージカルである。聖書に対する冒涜ともも言われるそのアレンジは、くるみちゃん達の挑戦を示唆しているかのようだ。くるみちゃん達が干渉しようとしている世界のルールにそれはどう反映されるのだろうか。
そのさらに一週間前、Kと遥はSkypeでビデオ通話をしていた。Kはレクサスで首都高を走っていた。スマホの画面が運転席から窓の方を向いている。
カツーン、カツーン。
雹のように小玉が降っている。Kと遥の距離はいま十㎞程度である。先週から初めて徐々に距離が伸びている。遥の力は画面を通じても届くことが確認できたのだ。首都高から東名高速に移動した。距離は百㎞になった。遥の力はまだ機能している。
つい一週間前までは遥の能力の範囲は数十メートル程度であった。遥の能力は加速度的に伸びている。中国までは約三千㎞、アメリカまでは約一万㎞、まだまだ目標は遠い。でも、能力が着実に伸びていることは感じる。この勢いだと一週間後には目標を達成できるかもしれない。
外には桜の花が咲き誇っている。桜の花が落ちるころには世の中に小玉が降るのだろうか。最近、Twitterでは小玉が局所的に降ることが一部のコミュニティで拡散されていた。フェイクだという人もいれば、単に雹やあられだという人もいる。しかし、遥の雹は残り続ける。Kのレクサスは東海道に入り、距離はどんどん伸びている。遥は強く願う、いや祈る。姉との思い出がどんどん希薄になる。もう覚えていることはほとんどない、名前だけだ。代償として記憶を失う。その抵抗感は当初こそあったものの遥は既に喪失に慣れていた。遥がもともと持っていたものなどたかがしれていて、それはこの能力以外に誇れるものがないということだった。キリスト教の最後の審判、天国か地獄か、どちらに行くかが決められるとき。もしその時が来たら、遥は天国に行きたかった。現世は辛いことだらけで遥は助けを求めていた。その徳を積むうえでこの能力は都合がよかった。天国に行く前に記憶を失うことに何の問題があろうか。
飛行機が北京首都国際空港に到着する。世界で三番目に大きいこの空港は、二〇一八年の空港利用客数は一億百万人。日本の人口に匹敵する数だ。その群衆の中に埋もれるように溶け込んでいるてんはスマホの画面を滑走路が見える大きなガラスに向ける。
「準備OKだよ」
Skypeのチャットに打ち込む。すぐにくるみちゃんから返事が返ってくる。
「こっちもOK」
あとはK待ちだ。
北京国際空港とタイムズスクエアを遥の小玉の雹にさらす。それが今回の作戦フェーズ三であった。中国とアメリカをこの世からなくすというのはあくまでも比喩であり、目的は国家機能の一部停止であった。主要機能は残すことで現在の政策の修正を促すことが狙いだ。Kと遥がいるスカイツリーの展望台からは北京国際空港の距離は二〇八七㎞であり、タイムズスクエアまでは一〇八三八㎞である。中国における作戦は成功するだろう。しかし、アメリカまでその思念が届くかどうかは不確実だった。
スカイツリーのエレベーターは春夏秋冬の四種類である。それぞれ趣があり、リピートしたいと思わせるうまい工夫だ。しかし、そんな日本が誇る四季も気候変動で失われつつある。亜熱帯に近い環境になり、春と秋が短くなる。遥は四季が好きだった。変わらない自分に対し、四季は時間とともに変化していく。その様を観るのが、聴くのが好きだった。
使命感。そんなものは遥にはなかった。しかし、姉と違って期待もされず友人にも恵まれなかった遥が何かを成し遂げることができるということのみが大切なことに思えた。存在を肯定されている気がした。歴史の授業で習う数々の偉人たち、彼らは同じことを感じたのだろうか。ゴッホなどの生前評価されなかった偉人もいる、死後再評価されたアインシュタインもいる。遥は歴史の教科書に載ることはない。これらの現象から遥の存在に辿り着くことは不可能だろう。神と崇められることもなく、牢屋で罪を償うこともなく、名もなき女としてこの世の生をまっとうする記憶喪失の女。遥の未来は既に見えていた。
「ねぇ、K。どうせ忘れちゃうと思うんだけど、聞いてもいいかな」
「忘れることと聞くことはあくまで独立した事象だ」
Kは答える。
「君の名は?」
「その映画は観たよ」
「いや、そういうことじゃない」
「遥ちゃんはペットを買ったことがあるかい?」
「以前言ったでしょ。白い梟を飼ってたわ」
「その梟はマウスは食べるけど、ウズラやヒヨコは食べなかったね」
「どうして……」
「同じ種族を食べたくなかったのだ。人が人を食べないようにね」
Kは続ける。
「成長して初めてマウスを食べたとき、食べるのに慣れてなくてその純白の羽を鮮血に染めていたね。君はそれを見たとき泣いていた。でも、同時に命の尊さも学んだはずだ」
「あなたは一体……」
エレベーターが最上階に到着した。昼の一二時を迎え、展望台は閑散としている。ランチタイムだからであろう。KはSkypeでビデオコールする。ニューヨークで二二時を迎えるくるみちゃんと北京で一一時を迎えるてんがワンコールで電話に出る。
「ショータイムだ!」
北京国際空港に数多の小玉が降り注ぐ。突然のことにすべてのフライトが離着陸を中断する。一方、タイムズスクエアでは何も起こらない。やはり一万㎞の距離を超える思念波を出すことはできないのだろうか。
「ようやくこのくるみちゃん様の出番ってわけね。遥ちゃん、行くよ~!!」
遥の鼓動が高鳴る。くるみちゃんによってときめきを覚える。それは智也に対するものでも、この現状に対するものでもなかった。
ぱさぱさぱさ。
遥の脳裏に唯一の友人である白い猛禽類が掠める。
「K、あなたは……幸喜」
その瞬間タイムズスクエアの上空に暗雲が立ち込め、小玉の嵐が吹きすさぶ。いくつかの信号が故障し、渋滞が発生する。歩行者もただただ上空を見上げるばかりだ。ついに革命の日が訪れたのである。遥の最後の七日間が始まった。崇められることも裏切られることも磔にされることもないが、遥は名もなき聖人としての道を歩み始めた。
◆
霊司は、首都高から東名高速にかけて降った謎の雹について調べていた。車がパンクし、渋滞になったことでメディアでも報道されていた。企業を狙った10件の事件は報道されていないが、この主要幹線道路以外でも雹は降っており、一般市民が手に入れられるようになってしまった。警視庁から、もしくは日本政府からの発表も近いところか。
かく言う霊司もまた、謎の雹を手に入れていた。松井からは同じ物質と考えられると回答が来ている。ということはだ。女子高生Yは1月から3月にかけてこの物質を撒き散らしているということになる。極めて危険な人物だ。高校への聞き込みも行っているが、成果はあがっていない。もちろん、JKビジネスへの流入が一定数行えているのはありがたいが。印だらけのマップを広げると、残った学校に丸をつける。それは遥が通う武蔵高校だった。
◆
二日目。中国とアメリカはもちろんのこと、主要各国では正体不明の気象現象について報道がなされていた。最後の審判の日が来たという者もいれば、UFOを見かけたという者もいる。もっとも信頼性の高いと思われる情報は、竜巻によって巻き上げられたい謎の物体がたまたま北京とニューヨークを襲ったという仮説である。ファフロツキーズと呼ばれるこの怪異現象は古くから知られている。一八七六年三月、アメリカ合衆国ケンタッキー州バス郡にて百×五十ヤード四方の範囲に赤身肉の断片が降り注いだ。また、二〇〇九年六月、日本石川県七尾市などにて多数のオタマジャクシが降った。しかしながら、これらの小玉は謎の物体とされており、中国とアメリカにて急遽検査体制が構築されている。
◆
霊司は武蔵高校の門前で帰宅する生徒に声をかけていた。
「ごめんね、忙しいところ、この子探してるんだけど、見覚えないかな。そうだよね。分かんないよね。じゃぁ、何か変わったことあったら、ここに連絡してくれる?謝礼は出すからさ」
こういった口説き文句を百人もかければどこかにひっかかるだろう。そのとき、一組のカップルが通り過ぎたので声をかける。
「え~誰か分かんないよ。顔隠れてるし、髪型も体型も普通だし。ともち~ん、早くお家行こう」
「何かあればご連絡ください。謝礼もありますんで」
そう言って霊司が名刺を差し出したところ、男子高校生は写真を食い入るように見ている。
「何かあったんですか?」
「いや、1月上旬に、女子高生がゴミを撒き散らしたようで、その女性を追ってるんですよ」
「謝礼はおいくらですか」
その回答に霊司は手応えを感じた。
◆
三日目。武蔵高校の二年生である渡辺琉衣は、タピオカミルクを片手に帰路に就いた。最近、同じクラスの佐藤遥が学校に来ていない。そのことに気づいていた数少ない生徒であった。家に帰ると、パソコンのスイッチを入れ、いつものようにYoutubeを流す。たいてい猫の動画か好きなアーティストの動画を垂れ流しにしているが、今日は気まぐれで急上昇の欄をクリックしてみた。その中に誰も座っていない椅子のサムネイルがある。タイトルは「To the goverments of America and China」である。過激な圧力団体の動画だろうか。それにしても静かな何の主張もないサムネイルが気になる。クリックしてみる。約三分の動画が始まった。
画面はサムネイルのまま変わらない。ただ、機械のような英語の音声だけが流れている。ここは漫喫だろうか。琉衣はあまり英語が得意ではないので、何と言っているのか分からない。CO2と言っていることだけは分かる。しかし、誰も映っていないのはどういうことだろうか。これでは警察当局も容疑者を絞れないだろう。再生回数は一億を超えている。米津玄師の「lemon」の再生回数は約五億回であるが、それに近い数字である。しかし、世界全体での数字なら大したことはないのだろうか。Justin Bieberの「Baby」は世界で二一億回の再生数である。それに比べたら訴求力は低いのだろうか。と、有名アーティストを無意識に基準においている自分に気づく。署名一億人と考えれば凄い数字なのだろうか。もちろん回数はのべであり、賛同もされているわけではない。しかし、バズっていることは確かだ。
二〇一五年十月に開始された児童扶養手当の増額の署名は約四万人となり、翌年八月に法改正された。一億の視聴数のうち一%でも賛同者がいたら百万人の賛同である。そう考えれば、かなりの効果のロビイング活動になるのだろうか。しかし、琉衣のような一介の女子高生には預かり知らぬことであった。
◆
椎名智也から情報を得た霊司は、佐藤遥の家に向かったが、留守であった。母子家庭で、母は勤務中、姉は卒業旅行で海外に渡航しているようだ。佐藤遥のLINEに友達申請したが、反応はなかった。クラスメートにインタビューしたところ、クラスでも目立たない存在で特に中の良い友達はいないという。帰宅部で母も姉もいなければ、相当な孤独だろう。考えられるのは2つ。インターネットの中に自分の世界を作っているか、男がいるかだ。後者の件は、椎名智也の供述からいないと考えたほうがいい。となると、彼女はインターネットを介して団体Xとつながった可能性が高い。
日本政府は、この米中を揺るがす脅迫動画を受けて、全力を挙げて動画配信者ならびに協力者を見つけること、既に日本でも複数のテロが行われており、その物質について同定したことを国際社会に向けて発信した。もちろん、佐藤遥が主犯格であることを知っているのは、超能力研究会と霊司だけであった。
◆
四日目。各メディアでアメリカ政府と中国政府に対する声明の動画がネットを賑わせていることが報道された。原文の英語は翻訳されており、日本語でその説明が記載されていた。
「これは警告である。我々が下した鉄槌の意味をアメリカ政府と中国政府に理解して頂きたい。先日、北京とニューヨークを襲った雹のような小玉の嵐は我々からのメッセージである。我々はいつでも二酸化炭素を固定化して降らせることができる。この物質はダイヤモンドのように固い。両政府が二酸化炭素を排出し続ける限り、この小玉は止むことはない。繰り返す。アメリカと中国が二酸化炭素を排出する経済活動を見直さない限り、この小玉は降り続ける。この廃棄物の処理コストと二酸化炭素の削減コストを天秤に載せて考えると良い。選択肢はひとつだ。明日から三日以内に両国首脳は二酸化炭素の排出削減目標の大幅な改善、つまり二〇五〇年に産業革命以前に比べて一.五度の世界平均気温の上昇を防げるだけの野心的な義務を負う声明を出すことを要求する。最後に、この現象はアメリカと中国に限る話ではない。以上」
◆
深夜にカツカツとハイヒールの音が近づいてくる。エレベーターが下からあがってくる。佐藤遥の家の扉に鍵を入れてドアを開けた瞬間、霊司は右足をドアの隙間にすべり込ませる。中に入った妙齢の女性は驚いて声が出ない。
「落ち着いてください、和美さん。こういう者です。遥さんを助けに来ました」
しばらくドアの境界で攻防があったが、遥がしばらく帰ってないだけでなく、学校にも行ってないことを指摘すると、ようやく家にあげてくれた。簡単に状況を説明する。
・遥は、カーボンナイトライドの新構造物を作り出せる
・インターネットを介して知り合った組織に命じられて国内外でテロを起こしてる
・この事実を知るのは霊司と和美、組織Xだけである
にわかには信じられないことであったが、列車内の写真を見せられると、和美はそれが自分の娘だと認めざるを得なかった。そして、東大からの分析結果を見せられてしまうと、最近報道されている事実と共通点があり、何も言えなくなってしまう。
「明日、有給休暇を取ります。警察と共に相談しましょう」
和美が話を終わらせようとすると、霊司が念を押した。
「どうやら勘違いをされているようだ、和美さん。いま、あなたの娘さんは指名手配犯になっているんです。私の話をそのまま伝えようものなら、いくら遥さんが悪くないからと言っても、警察に拘束されるでしょう。あるいは研究所で被検体とされてしまうかもしれない。でもね、和美さん。あなたの望みはそんなことじゃないはずだ。娘が戻ってきて、通常通りの生活をする、そして受験して良い大学に行く。そういうことじゃないんですか?」
霊司に言いくるめられ、和美はとりあえずホットコーヒーを煎れに行った。その間霊司は許可を貰って、遥の部屋に入り、パソコンで履歴を検索することになった。
遥の部屋はいたって普通の部屋だった。整然としているし、かわいい小物なども見られた。ただ、壁中にシロフクロウの絵が飾られていた。それは成長の証とでも言えるように、稚拙な絵から徐々に写実的な絵へと変わっていった。中には女児と共に描かれているものもある。おそらく、これが遥だろう。
パソコンはもちろんロックされているが、専用ソフトがあれば開けるのはそう難しいことではない。ただ、それを使うまでもないような気がした。霊司は画面にこう打ち込んだ。
「Kouki」
画面が開く。そして、霊司は辿り着く。超能力研究会の掲示板に。
◆
五日目。アメリカと中国、両国において国際研究チームが結成され、例の落下物質の解析がされていた。報告書の一節は以下の通りだ。
「ほどなくして落下物質は最近まで理論上の物質であったβ-C3N4によく似た炭素の同素体(以降、β2-C3N4)だということが分かった。これは日本で起きた一連のテロに用いられた物質と同一物質である。既に別の構造であるg-C3N4については光触媒の働きが知られており、有害物質の除去などの効果を持っている。β2-C3N4は既に発見されているg-C3N4より優れた物質であることが分かった。光触媒としてのg-C3N4は紫外線と可視光線しか使えないのに対し、β2-C3N4は赤外線でも利用することができる。その結果、水の分解による水素製造や有害物質の除去がより効率的に行われる。
処理については化学的な処理をすると二酸化炭素が生じてしまう上に、生物学的な処理では時間がかかってしまう。そうすると、燃えないゴミとして埋め立てるしかないが、近くに有機物があると光で反応して二酸化炭素がやはり生じてしまう。専用の埋め立て場を建設する必要があるが、そんなに簡単に埋め立て場を建設する合意形成と場所と費用を工面することはできない。そのため、仮置き場という一時的なゴミ保管スペースを公共の場に作る必要がある。しかし、それではスペースが足りない。そのため、税金を使って民間会社に場所を借りる必要がある」。
これは廃棄物ではなく資源として活用する必要性がますます生じた。中国では大気汚染や水質汚濁に活用された。アメリカでは水素の製造に活用された。触媒に使われたβ2-C3N4は廃棄物として埋め立てるのであっても、そのコストは商業利用によって得られた収入で賄うことができるという試算になった。
二酸化炭素を気体として地下や海中に貯留する技術の実用化が近年期待されているが、漏洩や海洋酸性化などの問題があり、実用的ではなかった。一方、固体化されたβ2-C3N4はそのリスクがないため、実質地球に二酸化炭素を固定化できることとなる。
◆
霊司は、超能力研究会の掲示板のURLをメモると、佐藤家を後にした。当然、鉄道は動いていない。駅近くのネットカフェで仮眠を取ることにしよう。そう思っていた最中、首筋に鋭い痛みが走った。途端に眠くなる。朧げな意識の中で最後に目にしたのは、白髪と黄色い目。後は闇そのものだった。
◆
六日目。アメリカ政府と中国政府では、首脳による声明文の草案が作成されていた。当初は、パリ協定の二〇二五年または二〇三〇年の排出削減目標を野心的にする代わりに、β2-C3N4の落下を止めてほしいという内容であった。EUでは、β2-C3N4の落下がないにも関わらず二〇三〇年の目標をさらに野心的にしてきた。米中への国際圧力である。しかし、β2-C3N4の資源的有効性が判明して、草案は差し替えられた。
「貴殿の環境問題に対する懸念、配慮は我々も感じるところである。貴殿が降らせた物質は資源利用が可能な貴重なものである。世界のエネルギーセキュリティならびに汚染浄化のためにも貴殿の協力を仰ぎたい」
企業や連盟、NGO、果ては学生団体まで同調する声明を出していった。行政や警察当局は動画の配信者を探したが、未だ見つかっていない。都内の漫喫で配信されたことは分かっているが、入場記録は残っていなかった。まるで透明人間かのように。Youtubeのアカウントはいわゆる捨てアドで作成されており、再生回数に応じた収入を受け取る契約もされていなかったので十分な個人情報は得られなかった。収入目的の犯行でもないようだ。しかし、β2-C3N4の落下と犯行声明の因果関係は証明できない。偶然の産物かもしれないし、仮にそんなことができたとしたら某国の科学技術の結晶かはたまた超能力によるテロなのか、そんなものがあればの話だが。単独犯なのか、複数犯なのかも分からない。今や世界中が注目していた。遥達の存在に。
七日目。遥、幸喜、てん、くるみちゃんが事務所に集まった。幸喜が口を開く。
「私達の目論見は、遥の能力で二酸化炭素を固定化して当該国内の廃棄物とすることで、気候変動による越境問題を内部化することであった。内部化とは、環境負荷に伴う費用を原因者に直接負担させることだ。しかしながら、遥が生成したβ2-C3N4は資源価値があり中国での汚染問題の解決やアメリカでの水素生産コストの低下は社会を変革するイノベーションである。ただし、この変革を維持するためには恒久的な供給が必要である。そして、考えてほしいのは遥のこの状況だ」
遥は虚ろな目をしている。焦点が定まっていない。
「遥、遥」
幸喜が語りかける。
「コ、コ、コウキ」
幸喜のことは覚えているようだ。それ以外のことはどれだけ覚えているのだろうか。
「これ以上続けると頭で覚える陳述的記憶だけでなく、身体で覚える手続き記憶にまで影響が及ぶだろう。せいぜい後一回しか能力は使えないだろう。遥が良ければだが」
幸喜の語りにくるみちゃんが反論する。
「あたしはもういいと思うな。十分、社会にインパクトは与えられたんじゃないかな。遥が可哀そうだよ。こんなに大きな代償を払って……」
てんも続く。
「オイラもそう思うかな」
「そうだな、このあたりで潮時か……」
幸喜も諦めたようだ。
「コウキ、コウキ、ワタシドウシタライイノ」
遥があらぬ方向を仰ぐ。
「遥、君はもうがんばったよ」
「ワタシ、アナタニズットアヤマリタカッタ。チミドロノアナタヲワスレタコトハナカッタ。コウキ、ワタシドウシタライイノ」
「遥はやりたいのかい」
「ワタシ……ツグナイタイ」
「能力を使えるとしたら後一か所が限度だ。どの国を救いたい。汚染浄化もできるし、資源として売却して経済を潤すこともできる。アフリカの最貧国のシエラレオネでも、アジア最貧国のバングラデシュでもいい。ただ一か国だけ援助することができる。君の好きな国を選ぶといい」
「私は……」
◆
「おい、起きろ」
霊司は気が付くと身体を何かに縛られていた。手は動かない。足をばたつかせるものの、宙を切るだけだった。
「目が覚めたか」
声だけが聞こえる。姿は見えない。周囲の様子からどこかの部屋に寝かされているようだ。
「御手洗霊司、37歳。株式会社Xで週刊誌の雑誌記者をしている。早稲田大学政治経済学部を出た後、青年海外協力隊でアフリカに赴任後、朝日新聞社に入社。政治部、経済部、国際部など回るが、周囲に惜しまれつつも退社。卒論は、『情報の非対称性と社会運用の関係について』。家族構成は……」
「分かった。お手上げだ。全部調べてあるんだろ。それよりなんなんだ、お前らは。何が目的なんだ」
「これから死ぬ人間に説明する必要はないな」
「この日本で殺人なんか犯して逃げられると思うなよ。検挙率はほぼ百%だぞ」
「遺体が見つからなければ、話は変わってくる。日本の行方不明者の数を知らないのか。毎年8万5千人前後の人間がいなくなっている。他殺が含まれてないとでも思ってるのか?」
こいつは何を考えているんだ?そもそも何故俺を活かしているんだ。霊司は思う。
「ここはどこだ。まだ暗いな。佐藤遥の家からはそう離れていないはずだ。悪臭が漂うな。新宿か?」
「お前の仲間はあと何人いる?」
あと何人?ということは誰かを認識されているのか?
「東大の松井は抑えてある。カーボンナイトライドの件を隠蔽していた件を秘密にする代わりに、女子高生の件は秘密にしてもらっている。カーボンナイトライドは没収した」
秘密の共有か。意外と平和主義者なのか。
「仲間を売ることはできないな。俺が連絡つかなくなったら、仲間は察して逃走するだろう」
「なるほど、しかし、いない仲間についてはこちらも分からない。お前だけでも殺した方が良さそうだ」
「分かった。仲間は2人いる。そいつらを教えるから、俺は解放してくれ。今回の件は誰にも話さない」
「そうか、じゃぁその仲間を2人教えてもらおうか」
霊司は会社の同僚の名前を2名出した。
「よし、じゃあそいつらの電話番号を教えろ」
ダメだ。このゲームは負ける。3人とも殺される。
「あ~嘘だ嘘だ。松井と俺だけだ。命欲しさに言ってみただけだ。守るほどの人間でもないけどな~」
「そうか。じゃぁ、お前を殺して終わりだな」
「最後にジャーナリストとして聞かせてくれ。目的はあのYoutubeの動画の脅迫文通りなのか??」
「そうだ」
「大きな正義を振りかざしているようだが、何の権限があってそんなことをしているんだ?あの雹で飛行機事故も死傷者も出てる。交通インフラが止まったことを考えると、経済的な影響は莫大だ。お前さん方はそこらへんの責任はどう考えているんだ」
「今の人類が背負っている二一〇〇年の人類に対する責任に比べればはるかに軽いと思うがな」
「世代間衡平性ってやつか」
「ほう、少しは知っているようだな」
「知らないことを形にするのが仕事なんでね」
「お前は私達を槍玉に挙げて衆目の目に晒すことが目的だったのか」
「ああ、誰もが知る当然の権利だ」
「しかし、お前の卒論『情報の非対称性と社会運用の関係について』には違うことが書いてあったぞ。『完全に論理的な人間に適切な情報を与えることで、集団は適切な回答を導き出し、それに沿って行動することができる。しかし、その適切さは社会構造の安定化に寄与するとは限らない。たとえば、ある国で不況になることが予め分かっていたら、その国から移住する者が増えるだろう。これは不況を加速化させ、最終的には国家破錠を招く。また、五〇年後に地球が滅びることが分かっていれば、年金システムは機能を停止し、出生率が下がり、犯罪が増加するであろう。このため、地球が滅びる前に社会が滅びる可能性がある』とあるな。つまり、なんでもかんでも真実を明らかにしない方がいいということだ。知らぬが仏というやつだな」
「今回の件は黙ってた方がいいってことか?」
「今回の件を明らかにしたところで私達は逃げおおせる。捕まるのは遥だけだ。この可哀想な女子高生に世界中の罪をなすりつけたところで何になるんだ。お前の自尊心を満たすだけじゃないのか」
「じゃあ誰の責任になるっていうんだ?」
「地球からのしっぺ返しだとでも思えばいい。脅迫声明とこの『天災』の因果関係は誰も立証できない」
「なぜそこまでしてあの子を守りたいんだ」
「お前には関係ないことだ。そろそろ死んでもらうか」
Kが再び注射器を取り出す。
「お前がボスのKってことでいいんだな?
「それをお前が知る必要もない」
「こうき」
Kが霊司の方を向く。
「反応したな?KはKoukiのKか?佐藤遥の部屋に、壁中にシロフクロウの絵が貼ってあった。母親に聞くと、遥が10歳のときの誕生日プレゼントだったそうだな。どうやって死んだか聞きたいか」
「構わん、続けろ」
「それなら、条件だ。
1.佐藤遥を解放しろ
2.世界に向けての謝罪会見をうちが独占でさせてもらう
3.そして俺を解放しろ
この3つが条件だ」
「強欲だな」
「勝負ってものは、勝てるときに畳み掛けるんだよ」
「遥の役目は終わった。もう彼女は何もできない。この仕事において何もできないんじゃない。あらゆることにおいて、何もできない。身体障害者一級だな。彼女は障害年金で生きていけるだろう。それにカーボンナイトライドの売却益もある。彼女はお金の面で言えば困ることはないだろう」
「じゃぁ、佐藤遥は解放するんだな?」
「もともと我々が強制したことでもない。彼女が自ら『衡平な選択』を行ったんだ。できる人がやる。ただそれだけのことだ。ホテルニューワンの三一〇号室に泊まっているから、勝手に連れて行け。本件については、他言無用だ。遥の母親にも伝えておけ」
「なに?謝罪会見は行わないのか?その前にこれを解け」
「謝罪は行わない。それこそ遥が行ったことが無意味になる。見えない力に脅かされながら、人類は生きていかなければならない。遥は世界の抑止力になったんだ。もう一歩で神になれるところだったな。この団体も解散する。もうお前が辿り着くことはない」
そう言うと、Kは持っていた注射器を霊司の首筋に射した。
【家族】
佐藤和美はシングルマザーである。大手損害保険会社で働いており、収入としては十分娘達を養っていける。長女の光は4月から同じ系列の大手の銀行に入社することになっている。親としては一安心である。問題なのは、次女の遥であった。勉強が決して苦手なわけではない。大学も選ばなければ進学できるであろうが、その後は一体彼女はどのような道を歩むのであろうか。大学と言えば、人生の夏休みとも言われる。授業の取り方は一定の裁量があり、長期休みもあるため、それぞれが自由に過ごせる時間が多い。ここで、一皮むけて欲しいと和美は考えていた。何かやりたいことを見つけて欲しい。打ち込めることを、熱中できることを。
和美の帰宅時間は遅い。夕食は子供達に任せてある。家族が一緒にいられるのはせいぜい土日だが、光は出かけていることが多く、遥は自室に篭っていることが多い。これではいけないと思いながらも、過干渉になるのもよくないかと自分の中でも揺らいでいた。
そんな最中である、遥がいなくなったのは。最近出歩くことが多くなったので、どこかに出かけているかとも思ったが、携帯の連絡もつかない。姉の光に聞いても首を振るだけだ。家出?そんな言葉が頭に浮かぶ。これが遥の反抗期というやつだろうか。学校の友人に聞いてみたくても、遥の交友関係は分からない。学校に問い合わせをするものの、登校はしていないとのことだった。これから受験も控えているというのに。朝になったら、警察に捜索願を出そう。そう思いながら帰宅すると、玄関の扉に突然何かが引っかかった。見ると、艶のある七三分けの髪型黒のトレンチコートに身を包み人差し指を口の前で立てている。
「落ち着いてください、和美さん。こういう者です。遥さんを助けに来ました」
ライターだと言う男の粘り強さに負け、いや実際のところは少しでも信憑性のある情報にすがりたく、男を家の中に通した。カーボンナイトライド?テロ?団体X?和美は所謂キャリアウーマンであったが、思考が追いつかない。仕事の疲れもあるのかもしれない。
「明日、有給休暇を取ります。警察と共に相談しましょう」
しかし、男に言い止められた。公にすることは娘にとって状況が悪くなることのようだ。
それから、一週間。ライターからは何の音沙汰もない。行方不明者の7割は一週間以内に発見される。これ以上待ってられない。その時、和美のスマホが鳴った。先日のライターの番号だ。すぐに出ると、遥を無事発見したから、すぐに病院に来るようにとの連絡だった。和美は安堵した。おそらくこの一週間の娘とのコミュニケーションは今までのものと大差なかったかもしれない。しかし、それが良くなかったのだろう。これからは、もっともっと娘との対話を考えなければならない。長女も自立したことだし、仕事の分量は減らす方向で考えていこう。和美は最初に娘にかけるべき言葉を考えながら、タクシーを呼んだ。
【舞台裏】
フェーズ3の粛清を行った一日目。Kはぐったりした遥を新宿のホテルニューワンの三一〇号室で寝かせた後、佐藤家の様子を見に行った。すると、佐藤家のあるフロアに怪しい人影がいる。恐らく以前から、K達の様子を調査している男に違いない。遥の母と初対面を狙っているのだろう。遠くから様子を伺うと、エレベーターで女性が上がってきて部屋に入ったところで、男もまた入り込んだ。しばらくの膠着の末、両名は家の中へと入っていった。Kはマンションの前で待ち構えることにした。
程なくして黒のトレンチコートを着た男が出てきた。背後から注射器を射して眠らせる。ホテルニューワンの遥が寝ている隣の部屋三〇九号室に男を寝かせて両手を紐でベッドに固定する。
「おい、起きろ」
トレンチコートの男としばし会話した後、Kは再び注射器を射した。
二日目。
「起きてくれ、ご飯だぞ」
トレンチコートの男は気怠そうに起きると、周囲を見回した。どこかで見た光景だ。目の前には、灰色のフードを被った小柄な男がいた。
「俺は……生きてるのか?」
「ああ、生きてる。今何したい?」
「水を……飲みたい。トイレにも……行きたい」
「これが水だ。トイレはそこ」
「俺は解放されたのか。遥さんはどこだ?」
「残念、監禁期間だよ。遥ちゃんは隣の部屋」
「ふ、君たちの組織は私を見くびりすぎじゃないのか?正々堂々と一対一で君のような小柄な子が相手だったら、勝敗は分からんぞ」
「正々堂々だったらね」
そう言うと癒しの音楽が流れ始めた。次の瞬間、トレンチコートの男の腹部を強い衝撃が襲った。
「ぐはっ」
トレンチコートの男は蹲る。
「めんどくさいから、もう歯向かわないでね。あとパンツは自分で洗ってね」
何も見えなかった。その時トレンチコートの男は思い出した。こいつらが超能力研究会だったということを。そう思いながら、パンツを洗った。
三日目。トレンチコートの男は流石にトレンチコートを脱ぎ、インナーと下着で過ごしていた。
「てんくん、そう言う記事じゃダメなんだよ。もっと読者目線に立って、これはお年寄り向けの記事なんだから、もっと大きな文字じゃないとダメなんだよ」
「だったら最初からそう言ってくれよな。オイラだって一生懸命やってるんだよ」
インナーの男が職場に怪しまれないために、てんは仕事を代行していた。さすがに捕虜に通信機器を触らせるわけにはいかない。
「さぁ、くるみちゃんさまのお帰りよ。あんたたち食料買ってきたわよ、ってなんでパンツなのよ!変態!変態なのね!ちょっとなんかあるでしょ。さっさと着てよね」
黒い長い髪が映える純白のモコモコダッフルコートを着た女の子が両手に袋を下げて現れた。
「てんくん!女の子来るならそう言ってよ」
「あ~まぁ、記者さんなら調べてくるもんじゃない?とにかく浴衣でも来てよ」
「じゃぁ、てん、バトンタッチね。いってらっしゃい」
バトンタッチ?インナーの男は冷静になった。これは好機か?
「見た?てん!いまこいつ、絶対ヤバイこと考えたわよ!私に何してくれようと考えてるのかしら?てん!しばって」
「変態さんはお断りだよ」
あぁ、またか。インナーの男は考えるのを辞めた。
四日目。てんは昨日ホテルニューワンを後にしてから、一時間ほどで帰ってきた。
「ただいま。ついでにこれ買ってきたよ」
それはノーブランドのジャージだった。
「てんくん、ありがとう。信じてたよ」
インナーの男は咽び泣く。そしてジャージの男となった。
そして、てん、くるみちゃん、ジャージの男は仲良くテレビを見ていた。
「てんの動画の報道、日本でもやるようになったわね。てか、あんた英語の発音もっと良くした方がいいわよ」
「しょうがないじゃないか、オイラもともと英語苦手なんだから。くるみちゃんがやってよ。インフルエンサーなんだから」
「や~よ、私がやったら経歴に傷がつくじゃない。クリエイターは政治的な発言は注意しないと」
くるみちゃんも何か作ってるのだろうかとジャージの男は思った。
五日目。パシャリ。パシャリ。室内の中をカメラの音が響く。
「いいよ~くるみちゃん、その笑顔最高!はい、もう1個別のアングルから。はいポーズ変えてみようか」
ジャージの男が今までになく活き活きしている。彼は、くるみちゃんがコスプレイヤーだと知ると、荷物から一眼レフを取り出したのだ。
「そろそろこのダッフル脱ぎたいんだけど、いいかな」
「もちろん、どんどん脱いじゃって!」
ジャージの男が囃す。
「くるみちゃん、脱ぐのはコートだけでいいからね」
てんが慌てて付け足す。
「てん、分かってないわね。こういうのはギリギリを攻めるのが良いのよ!一番売れるのよ!」
「そんなオイラ見てらんないよ!」
てんが両目を手で覆う。ん?女を人質に取れば勝ちか?とジャージの男は考えを巡らす。
「てん、こいつ、ヤバイこと考えてる!やっておしまい!」
「アイアイサー」
ジャージの男は再度考えるのを辞めた。
六日目。
「ん~私はどの写真も綺麗ね~。ね~てん。どの写真がいい」
「うん、くるみちゃんの写真はどれも綺麗だと思うよ」
「バカね。どれも綺麗だったら選べないじゃない!」
「そんな、オイラくるみちゃんと同じことを言ったのに」
「もうこれじゃ堂々巡りよ!次元を上げるのよ!アウフヘーベンよ!」
そう言うと、くるみちゃんは服を脱ぎ始めた。
「えっ?ちょっとこんなとこで?!ジャージの男もいるのに!」
「ほら、下着と言ってもこれよ」
そこには白のレースのワンピースのようなものを着たくるみちゃんがいた。と言ってもほとんどが透けている。生憎、いや幸いにも股間には別の下着を身につけている。
「ベビードールと言うのよ、こっちの方が覆われてる面積が多いのに、なんだかエロティックでしょ?ほら、こうやって髪をアップにしてうなじを見せるとまた雰囲気変わるでしょ?」
「くるみちゃん、オイラっオイラっ」
「お取り込み中すいませ~ん。トイレ行きたいんですけど」
ジャージの男が空気を読まずに割り込んできた。
「あっじゃぁ、解かないと、くるみちゃんも防御力が下がってるから服着て」
「何?そのドラクエ的な設定?いいわよこのままで」
「いいから着て!あと、ジャージ!この状況がチャンスだと思ったら思い上がりも甚だしいからな」
てんの語調がありとあらゆる方向に強くなった。
「は~い、早めに解いて下さ~い」
ジャージは鼻白んだ顔をしている。とうとう男ですらなくなった。
7日目。ジャージは放置されていた。こんなに放置されるのは久しぶりだ。これは何かことが動いたということか。しばらくして全員が入室してきた。全員というのは、てんとくるみちゃんと遥を抱き抱えたKだった。まるで葬儀が行われた後のような顔を皆している。
「遥を病院に連れて行ってくれ。てんとくるみちゃんは例の場所に向かってくれ。これをもって超能力研究会を解散とする」
Kはその場を後にした。
◆
解散か。聞いていた通りのシナリオだ。この後、遥さんを病院に連れて行き、母親に説明したら仕事終了だな。想定外のことも多かったが、なんとかなったな。
「ジャージ、遥ちゃんのこと頼んだよ」
「レディなんだから、丁重に扱ってよね」
「はい、報告はKさんの方にしておきます」
ジャージはにこやかに返事した。
「Kから個人的なこと聞くなって言われてたんだけど、ジャージ。お前なんて名前なんだ?」
「スズキですよ、今日はね。また何かあればご連絡ください」
【余波】
都内某所にある施設にどこからかヒーリングミュージックが流れる。
「きゃっ、誰?いま私のお尻触ったの?」
職員の一人が悲鳴を上げる。誰かが通ったかのように空気が揺れ動く。しかし、その姿は誰にも捉えることはできない。三〇三号室のドアをガラッと開ける。車椅子に乗った少女が顔だけこちらを一瞥すると、再び窓の外を見やる。その視線は遥か遠くを見据えているようだ。
「やぁ遥ちゃん、お花ここに置いとくよ」
てんは向日葵の花を片手に持ち、少し萎れた向日葵と交換する。
「今日も見えているのかい?」
遥には窓の外に広がる庭園を気持ちよさそうに飛び回る幸喜が見えていた。遥は手続き記憶も一部失い。歩くこともままならない身体になっていた。病室には遥の部屋と同じように幼い遥と幸喜の写真が飾られていた。
アメリカと中国の声明のあと、両国に再びβ2-C3N4の雹が降ることはなかった。アメリカにおける水素社会の到来は本件にて数年早まったと言う専門家もいるが、抜本的な改革にはならなかった。中国における汚染浄化は一時的なものであり、むしろβ2-C3N4により低コストでできる汚染浄化が認知されたことで、投資の動きが鈍る作用も働いた。未だ人類はβ2-C3N4を創り出すことに成功していない。
米中にβ2-C3N4の雹が降ってから七日目、日本の福島原発の近くにβ2-C3N4の雹が降った。汚染水の放射性物質の吸着が期待されたが、残念ながらその効果はなかった。日本に降った量は少量であったため、企業を破壊した大きな塊郡と共に全部を米中に売却し、貿易黒字を増やす結果となった。国会ではこの経緯から歳入のプラス部分は気候変動対策にのみ用いることが決定された。たった七日間の出来事であったが、この一連の社会の動きは歴史に刻まれることとなった。その背景に名もなきヒロインがいたことは一部を除いて誰も知る由もなかった。
新宿の一角のとあるバー。ピンク色のモヒカン頭と白髪の頭が揃って酒を傾けている。
「一週間早かったな、オイラ今までの中で一番短い祭りだったと思うよ」
「そうだな、遥の体力が限界だったからな」
「K、本当はどこまで知ってたんだい?」
「何がだい?」
「Kの能力は相手の能力を見抜く力。ダイヤモンドに相当する固さがあれば十分資源価値があるんじゃないか?確かに遥ちゃんが作るβ2-C3N4は色も綺麗じゃないしし、認知されていない。装飾品としての価値はないかもしれない。しかしながら、ダイヤモンドの八割は工業用ダイヤモンドつまり研磨剤などに使われる。廃棄物である要素なんかなかったんじゃないかい?」
「てんは物知りだね。しかしながら、仮の話だけど資源が落下するだけじゃ世界は大きく変わらないだろ、廃棄物を落とすという脅迫が必要だったのだよ」
「でも、それは国の要人からすればすぐに見抜ける。結局は遥ちゃんを騙すための詭弁だったんだろ。彼女に限界まで力を使わすための説得材料だったんだ」
「しかしながら、世界は少し良くなった」
「遥ちゃんへの復讐だったのかい?自分をきちんと管理してくれたらあんなことにならなかったのに、代償として輪廻転生もできなくなって……」
「てん、もう終わったことだ。遥は他の人にはできないことをした。ノブリスオブリージュだ。遥の生活はβ2-C3N4の売却益で保障できるよう手筈は売ってある。より大きな正義のための尊い犠牲だ」
「オイラはくるみちゃんと一緒に商売するよ。福島で回収したβ2-C3N4の売却益は軍資金としてありがたく使わせてもらう。だから、透明になれるオイラが代表してお見舞いも毎日行くよ」
「今日でお別れだな。今まで世話になった」
「ああ、こちらこそ。そう言えばあの記者は余計なことをしないかな?」
「その点については、こちらで預かろう」
二人は話題の少女の名を冠したお酒で再度乾杯をし、それぞれの思いを抱えながら静寂な夜が過ぎていく。
◆
霊司ははっと目を覚ました。時間と場所の感覚がない。手が何かに固定されているようだ。足は動くようだが宙を切る。これはどうやら寝かされているようだ。しばらくすると、黒のニット帽に黒のコート、黒のサングラスの男が入ってきた。
「起きたか?」
「ああ、どういうつもりだ?」
「しばらくここに監禁させてもらう。テレビでも見て待っていてくれ」
そう言うとKは、テレビの画面にNHKを映した。
「お前らは何をしているんだ?」
「私は遥と残り少ない時間を楽しんでいるよ。他のメンバーは君のダミーを見張るようにいってある?」
「何故そんなことを、お前は仲間を信用していないのか?」
「私は誰のことも信じない。信じるという不確実な行為を好むのは人間の弱さだ。徳を積んだら神に愛されるんじゃない。他者に愛されるんだ。だから人は徳を積むんだ。それを履き違えているから新興宗教団体は敬遠されるんだ」
「何をそんなに恐れたんだ?」
「君のジャーナリズムだよ。君は誰よりも情報の有益性を考えている。その君に他のメンバーを説得する期間を数日でも与えることはリスクだった。君が勝算を持った時点でおそらく我々は負ける。私達は公開処刑されることになる。私達だけじゃない。魔女狩りが始まるんだ。能力者は全員公財となる。君に目をつけられた段階で、私達は半分死んでいる状態だったんだ」
「シュレーディンガーの猫か」
「世界は関係性が多角化され続けている。より複雑でより多くの情報が飛び交っている。とある喧嘩が一歩間違えれば格ミサイルの発射につながるかもしれない。とある会社の倒産が不況を招くかもしれない。未来のシナリオのグラデーションはモノクロに近づいている。いま地球は半分生きていて半分死んでいる状態へと推移している」
「俺の行動が地球を殺しにかかっているという言い方だな。素直に認めたらどうだ。K。遥さんに自信をつけさせてあげたかったんだろ?こんな私でも凄いことできちゃうんだって。お母さんにもお姉ちゃんにもできないことでしょって。でも、遥ちゃんの器には有り余る能力だった。これは人を殺せる能力だ。その状態で彼女を社会に放つのは危険だった。学校でかっとなったら同級生を簡単に殺せる。それに多感な時期だ。承認欲求が暴走して誰彼構わず話してしまううかも知れない。いや、ネットに一言呟くだけでも十分だ。俺でも遥ちゃんをすぐ見つけられる。警察に捕まるのは時間の問題だって分かってたんだろ?だからあんたは決めたんだ。この可哀想な少女に太く短い人生を与えてあげようと。警察もまさか犯人が障害者になってるとは思わない。能力どころか何もできやしないんだから。あんた仲間を信用できないと言ったな。他のメンバーを俺に晒さないことで守ってるんじゃないのか?俺は他のメンバーのことは分からなかった。基本的に仕事をあまり降ってないだろ?HPにもお前の名前とメールアドレスしか書いてない。あんたは最初から窮地に陥ったときのことを考えて他のメンバーのことを守ってきたんだ。何故なら自分のことですら信用してないからだ。自分が失敗したときのことを常に考えている。だからだろうな、能力者と非能力者が手と手をつなぐ未来を考えられなかったのは。想定される最大の損害が最小になるように決断してるんだ。そんな及び腰で理想を得られるのか?いや違うぞ、K。さっき自分で言ってたじゃないか。世界が白と黒の二極化しているのであれば、利得を最大化するリスクを処理することを考えなければいけないんじゃないか。遥さんの能力を科学に反映させて技術革新する方法もあったはずだ」
「詭弁だな。能力者を衡平に社会に還元するためには、同時に技術提供を各国に行う必要がある。しかし、各国とはどこまでだ。先進国か?中国は先進国に含まれるのか?それとも二〇〇弱の国全てに行うのか」
「だから、どうして独りで考えようとするんだ。この星には76億の人間がいるんだ。皆で考えればもっと良い回答が得られるはずだ」
「これはこれは。とんだ過大評価だったな。もはやジャーナリズムでも何でもない。とりあえず生かしといてやる。お前が俺についてくるなら、今後も生かしといてやる。しばらく考えるんだな」
「おまえこそ、俺が言ったことを何度も噛み締めながら遥さんといちゃついてくれよ」
がちゃりと扉が閉まる。
六日後。
「プロジェクトは終わった。答は出たか?」
「社会情勢の変移は予想通りだったな。遥さんに合わせてくれ」
「遥か。もう出発しているだろう」
「家か?病院か?」
「いや、都庁だ。最後にもうひと仕事ある」
「まだ、働かせるのか?愛情があるんじゃないのか?どうかしてる」
「遥が望んだことだ」
「……覚悟してるんだな?」
「ああ、それに日本に落としたほうが怪しまれずに済むしな」
新宿都庁に着くと展望台に上る。無料で新宿の夜景を楽しめるため、お財布に優しい。
「あの車椅子に乗っているのが遥だ」
「あらKさん、どうかされました?」
「あなたは私のダミーの方ですか?」
「ええ、スズキと申します。今日はね」
「コウキ……コウキ」
「遥、大丈夫だよ、いつも傍にいるよ」
Kがいつになく優しい声を出す。
「お前も人間らしいところあるんだな」
「人間ではないからそのとおりだな」
「で、いつまで待つんだ?」
「他のメンバーが福島に着いたらだ。まだ2時間以上あるな」
「じゃぁ、そこのレストランでも入っていよう」
「そうだな。私とRは遥と一緒にいるのがバレルと不味い。通路側の席で監視してよう」
「誰だRって?」
「霊司、お前のことだ」
「なに?KoukiのKに対して、ReiziのRってことなの?案外かわいいとこあるな、お前。いや、K」
「単に呼称は短い方が実利的だ。それにもう、『御手洗霊司』を名乗れる日が来ると思うなよ?」
「ああ、裏社会は得意分野だ。例の物質を売れば金は手に入るしな」
「悪いがうちは給料制だ」
「福利厚生はあるのか?」
「明日くたばるかもしれない、というリスクがある。リスクが好きなんだろ?」
「何も好きとは言ってね~だろうが。ほんと意地悪だね、こいつ」
「お二人共そろそろ行かれた方が」
ダミーの仕事は最後まで気を抜かない。
「じゃぁ、続きは中で話すとしますか?」
「端的にな」
KとRはレストランの中へと入っていった。都庁には西日が差込み、展望台から見える風景を朱く染め上げるのだった。




