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そうそう、こういうのだよ

「いやあ、いい湯ですなあ」


 六助が湯に浸かったままこちらを振り向き、笑顔で言う。

 俺はと言えば、ようやく丁度いい温度になった桶湯に入ってその中に座り込んでいた。六助の着物は桶の前に放り投げてある。だって、たたむなんて高度な動きが出来ないんだもの……。


 しかし、桶湯というのが少し残念ではあるものの、やはり温泉というのはいいものだなあと思う。

 実際にこの湯の効能でリラックス出来ているとか、そういうのもあるかもしれないけど、それに加えて外でお風呂に浸かるという解放感とか、夜空に浮かぶ下弦の月や星々が綺麗だとか、様々な要因が心身に作用している気がする。


「そろそろお湯が冷めてくる頃ですかな」


 そう言って小さな桶で湯をすくった六助が、湯から出てこちらにひたひたと近付いて来た。確かにちょっとぬるくなってきたところだったのでありがたい。


「熱くなったら仰ってくださいね」


 小さな桶から大きな桶へ、ゆっくりと少しずつお湯が注がれる。

 新しい熱は、身体の前方から左右へと分かれ、包み込む様にじわりと染み込んでくる。首元、両前足、そして横腹へ……。そこまで広がったところで、俺は右前足を持ち上げた。

 ぱしゃりという音と共に湯面に波紋が生まれ、俺の尊い右前足が顔を出す。


「これくらいでよろしいのですね? かしこまりました」


 まるで邪気の無い爽やかな笑みを見せ、六助は去っていった。

 別人ではないか、いや本当に違う人やんこれ、と思わされてしまうほどの、普段とは全く異なる雰囲気を漂わせていて、こちらが戸惑ってしまう。

 ううむ、普段は邪念や煩悩だらけの六助をあんなにまでさせてしまうとは、温泉効果恐るべしだな。

 人間の身体みたいに腕を使って湯をかき混ぜるということが出来ないので、桶の中をくるくると歩き回って熱さを撹拌させる。そろそろいいかな、という頃合いでまた座り込んで身を沈めると、程よい熱が全身を巡っていった。


 気分も上々にふう、と短く吐息を漏らすと、仕切り板を隔てた向こう側から何やら黄色い声が響いてきた。


「わ~、広~い!」

「はしゃぐお市ちゃん、いと尊しです!」

「でも、本当に広くて綺麗なところですね」


 どんな表情で言っているのか、瞼の裏に浮かんで来るような帰蝶の言葉と共に、ひたひた、ちゃぽんという音が同時に複数聞こえてくる。

 そうそう、こういうのだよこういうの。板一枚を挟んだ向こう側に広がる夢の楽園へと、音や声を聞きながら、ここから想いを馳せるというのが一番健全な楽しみ方だと思うんだ。

 ちょっと気持ち悪いとは思うけど、別に覗きをするわけでもなし、犬の身体なのをいいことに女湯に侵入するわけでもなし。それくらいは許して欲しい。


「ふい~、極楽極楽」

「ふふっ、ソフィア様、殿方みたいですね」

「ていうか、随分と器用な入り方するわね……どうやってんの、それ? 肘とかすごい疲れそうだけど」

「ほとんど羽根で浮いてるので、肘に体重はほとんどかかってな…………あ、いえ何だか急に疲れて来ましたねえ」

「は?」

「帰蝶ちゃん、胸をお借りします!」


 ざばん、びゅん! という音がしたかと思えば、すぐにばしゃん! という着水音が耳に届く。


「きゃっ! もう、ソフィア様ったら」

「ふひひ。これぞ正に楽園ですねえ。えへへ」

「うわ……何こいつ……義姉上、剥がしなよ」

「プニ長様との間を取り持ってくださる大切な妖精様なんだから、そんな風に言っちゃだめよ?」

「いやいや、それでもこれはだめでしょ」


 帰蝶にどうにかする気がないのか、そこからは男湯も女湯も、静謐なままの空間が、ただただ流れていった。

 ……ん、男湯も? そういえば六助は……。

 ふと湯の方に視線をやれば、六助は俺に背を向けたまま固まっている。まさかこいつも、楽園に想いを馳せてやがるのか?

 まあいい。男の夢だ。今回ばかりは許してやろう……と、一体何様なのか自分でもよくわからないコメントを頭の中で発していたら、楽園からの音声が届いた。


「お姉ちゃんおっきいから、こういう時に便利よね」

「こういう時って、今回ぐらいしかない気もするけど」


 苦笑していそうな雰囲気の帰蝶の言葉に、からかうような響きを持ったお市の言葉が返していく。


「兄上にもやってあげたらいいじゃん。オスだし喜ぶでしょ」

「お犬様だし、どうだろ」


 散々帰蝶にしたためられたためか、お市が俺のことを「兄上」と呼んでくれている。このまま「お兄ちゃん」と呼んでくれるのも時間の問題かもしれない。


「いえいえ、絶対喜びますよ! 妖精の私が言うんだから間違いなしです!」

「いや、義姉上の胸に腰かけたまま言われても……本当に酷い絵面ね」


 何やってんだあいつ……うらやまけしからん。ていうか「胸に腰かける」ってなんだよ。小説でも見ないくらいレアな表現だぞ。


「じゃあ、次はお市ちゃんの方にお邪魔しま~す!」

「そういう問題じゃ……きゃっ!」


 ざばんびゅん、ばちゃん! とまたも騒がしくなった後、今度はお市が悲鳴のように声を荒げた。


「ちょっと! 離れなさいって……えっ、ちょっ何これ、びくとも……しないんだけど……っ!?」

「妖精ですから!」


 くっついたソフィアを引き剥がそうとしている、といったところか。よくわからんけど神の力か何かだろう。完全に使い方を間違っているけど、ソフィアのやることだからむしろ納得だ。


「お姉ちゃんに比べれば控えめとはいえ、このしっかりとした存在感! ん~、星三つです!」

利光としみつって誰よ! ていうか何よ!」

「お市ちゃん落ち着いて。星三つ、だと思うよ」

「何それ」

「私もわかんない。でも、ソフィア様が指を三本立てていらっしゃるから」


 やがてお市も諦めたらしく、落ち着いた空気が流れ始める。


「そういえばお市ちゃんは、モフ政様を洗って差し上げなくてもいいの?」

「あいつお風呂嫌いなのよ。初めて洗う時も大分嫌がってたし、その次からはお風呂の気配を察して逃げるようになっちゃった」

「そうなんだ。聡明なお方なんだね」

「犬にしては賢いって言えばいいじゃん」


 相変わらずのつんけんした物言いに、帰蝶は応じる気配がない。穏やかに微笑んで義妹を見守る姿が容易に想像出来てしまった。


「義姉上こそ、兄上を洗わなくてもいいの?」

「プニ長様は男女別々で入りたいらしいの」

「え、何で?」

「何でって……殿方だからじゃない?」

「ふ~ん。犬のくせにそんなこと気にするのね」

「プニ長様は優しいお方だから」


 そこで会話は一旦途切れた。ていうかさっきから地味に盗み聞きしてるけど、俺もいい加減のぼせそうだ。六助はいつの間にやら湯からあがってちょんまげをほどき、髪の毛の整備をしていた。


「ていうかさ」

「ん?」

「それって兄上の言葉をソフィア様に通訳してもらったんでしょ?」

「そうだよ」

「今まで気にしたことなかったけど、モフ政の言葉は通訳してもらえないの?」

「あっ……」


 確かにそうだと、帰蝶の心の中を吐露したような息が漏れる。でも、俺はその質問の答えが否だということを知っていた。

 だって、あいつただの犬なんだもの……。

 とはいっても、その回答は二人にとって納得のいくものじゃないだろう。そもそもプニ長の中身が元人間だということを知らない彼女らからすれば、ソフィアは人間同士の意思疎通を円滑にする通訳ではなく、犬の言葉を人間の言葉に置き換えてくれる翻訳機のような存在に近いはずだからだ。


「ソフィア様、それに関してはどう……」

「わっ!」


 質問をしようとした帰蝶の声に、お市の驚愕が重なる。


「ふへへ、雲の上の楽園、瑞々しい果実」

「のぼせてる!」

「大変、お市ちゃん、早く運んで差し上げて!」

「全く迷惑な妖精ね……!」


 何やってんだあいつ、と思ったけど俺も人の事は言えないか。さて、そろそろ上がるかと、桶から出て全身をブルブルっとやり、水気を取ってから背後を振り返ると。


「ワウ」

「キュン(何で?)」


 そこには何故かモフ政がいた。

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