姉川の戦い
もうすぐ夏を予感させる季節なれども、朝はまだ少し肌寒い。霧は深く、遥か前方に流れる姉川の景色も、背後にそびえ立つ横山城の悠然とした姿も、全て覆い隠してしまっている。
「たつのこくのしょうこく」に戦闘開始ということで、朝早くに六助に起こされた俺は天幕の中で寝転がっていた。けど開戦までは少し余裕があるらしく、周りの武将や足軽たちはあちこち歩き回ったりして微妙に慌ただしい。
皆布陣しているので側には誰もおらず、特にやることもないので一人でぼけっとしていると、突然目の前に光の塊が現れた。それは徐々に妖精の形を成していき……というお決まりのアレだ。
「おはようございます、武さん!」
「キュン(おっす)」
正直タイミングとしては微妙だけど、かなり暇だったのでソフィアが遊びに来てくれたのはありがたい。
「別に遊びに来てるわけじゃありません!」
「キュ、キュン? (えっ、違うの?)」
ソフィアは腰に手を当てて頬を膨らませるという、かなりあざとい怒り方をしている。可愛いけど年齢を考えた方がい……。
「えいっ」
「キュンキュン(あひゃひゃひゃ)」
くすぐりの刑に処せられてしまい、しばらく笑い転げる羽目になる。
どうやってるのかは知らないけど、そろそろ思考を読むのはやめて欲しい。えっちな妄想とかしてたらどうすんだよ。
「武さんくらいの歳の男の子なんて皆そんなものですよ?」
「キュキュン、キュンキュウンキュキュ(そりゃそうかもしれないけど、恥ずかしいものは恥ずかしいだろうが)」
「むしろ皆さんが美少女に対してどんなことをしたいのか、見せてもらうのはとても参考になります!」
「キュウンキュ(何のだよ)」
一段落したところで、今ここに来たばかりのソフィアは現状を尋ねて来た。
「で、今は何をなさっているところなんですか?」
「キュウンキュンキュンキュキュン(もうちょっとで織田と浅井朝倉の合戦が始まるところだ)」
「ああ、姉川の戦いですか」
「キュ、キュン? (え、知ってんの?)」
「はい。私、たまに大河ドラマなんかも観ますので」
「キュウン(テレビっ子かよ)」
そこは「女神だから何でも知っている」とかじゃないのか。
しかし国民的バラエティ番組に国民的アニメ、そして大河ドラマと。色んな種類の番組を観ているようにみえて、実はかなりご年配の方寄り……。
「ていっ」
「キュキュキュキュ(おひょひょひょ)」
「もう、武さんったら。そんなデリカシーのないことばかり言っていたら帰蝶ちゃんに嫌われちゃいますよ?」
「キュキュンキュンキュウン。キュンキュン(帰蝶はもう妻だからいいもんね。あとくすぐるのはやめろ)」
「このままだと愛想を尽かされて離婚ですね」
「キュウン(まじか)」
ソフィアは真剣な表情で腕を組み、うんうんとうなずいている。
「デリカシーのない人は嫌いです」と捨て置きながら城を出ていく帰蝶を想像してへこんでしまう。あれ、でもこの世界にデリカシーなんて言葉はないよな。デリカシーって日本語ではなんて言うんだろう。
ぽつりとこぼすように、謝罪の言葉を口にする。
「キュウン(ごめんなさい)」
「仕方ないですね、プニプニ一回で許してあげましょう」
横になっている俺の前足を勝手に取って肉球を触り出すソフィアは、明るく微笑みながら「いとプニプニです!」とか言ってやがる。
相変わらず無駄に元気なやつだな、と思いながら、ごろごろしたままフンスとため息をつくと、ソフィアは今一度こちらに近寄り、口の横に片手を添えながら囁いて来た。
「ここで、暇そうな武さんに朗報です」
「キュ? (ん?)」
「姉川の戦い、その目で観てみたくないですか?」
「キュキュン、キュンキュンキュウン(それはそうだけど、前線には行けないし行きたくない)」
俺は基本的に、士気を高める為に軍に帯同しているだけであって、前線に行こうとすれば家臣たちに止められてしまう。それにもし行けたとしても、普通に危ないから行きたくないというのが本音だ。
怖いし、帰蝶ともう会えなくなっちゃうかもしれないからね!
そんな考えすらも見透かしているのか、ソフィアは「ですよね!」と言いながら何か先に五芒星のついた杖のようなものを取り出した。そしてきょろきょろと周囲を確認してからそれを振りかぶる。
「えいっ」
すると、突然目の前に西洋風の鏡のようなものが現れた。普通の人間ほどじゃないけど、俺やソフィアよりは大きい。宙に浮いているそれを、俺の横に並んで覗き込みながら、ソフィアが語り始めた。
「これで前線の様子を観ることが出来ますよ!」
「キュキュンキュン(ありがたいしすごいけど世界観はぶち壊しだな)」
「細かいことは気にしないでください!」
鏡にはたしかに武士たちの姿が映し出されている。たった今秀吉隊が映ったところや周りの風景から判断して、姉川で間違いはなさそうだ。
秀吉はひどく暇そうで、自分の隊の足軽たちに囲まれながら懸命に鼻毛を抜こうとしていた。その前には槍や弓、鉄砲を持った人々が横に並んで、いくつもの列を作っている。
ソフィアがこちらを振り向いて聞いて来た。
「合戦の開始はいつなんですか?」
「キュ。キュンキュンキュキュウン(さあ。『たつのこくのしょうこく』って聞いてはいるけど)」
「むむっ。天界に戻るか日本に行けばすぐにでも調べられるんですけどねえ」
ソフィアにも「たつのこくのしょうこく」がいつかはわからないらしい。顎に手を当て、難しい顔で悩む素振りを見せている。
「キュキュン、キュンキュン(どちらにしろもうすぐっぽいし、関係ないだろ)」
「ですね!」
さっきの秀吉隊もそうだけど、鏡に映る隊はどれもきちんと整列して完全武装している。素人の俺から見ても「戦の準備万端」という感じだ。ただ若干時間があるのか、どの隊も隣の人と談笑したりなど、空気は弛緩している。
「ほんほうに戦という感じでふねぇ」
いつの間にかソフィアは俺の隣に座布団を用意し、その上に正座しながらせんべいとお茶をたしなんでいた。何故かせんべいだけが通常サイズで、座布団と茶飲みは妖精サイズだ。
まるで模型のように小さいそれらを見て、某ドールハウスを思い出した。
その後も二人(一匹と一羽?)で適当に会話をしながら開戦を待つ。
「たつのこく」ってのは朝五時とか六時くらいなんだと思われる。あくまで体感だけど、現在は高校のSHRがあった九時前よりは明け方、早朝という感じで、道端で近所のおっさんがランニングや犬の散歩をしていそうな雰囲気だ。
依然として霧は晴れず、ひんやりとした空気の中で、朝露に濡れた草花が陽光を反射して輝いていた。
「キュ? (ん?)」
ていうかそれとは話が違うけど、この鏡を使って浅井家の陣地を覗けば団結力の正体を暴けるんじゃあ……。
思い立ったが吉日、すぐにお願いしてみようと隣の庶民派女神の方を振り向いた瞬間だった。
ぶおお~ぶおお~。
どこぞで聞いたことのある法螺貝の音が遠くから響き、天幕を取り囲む空気が一気にざわつき始める。鏡を覗くと、織田家の兵士たちは一様に「え?」「もう始まるの?」みたいな顔をしていて、武器を手にとってはいても構えることが出来ていないようだ。
恐らく、この「ぶおお~」による合図のようなものは、少なくとも織田軍にとっては想定外の出来事なのだろう。
その時、一人の足軽が大慌てで天幕の中に入り込んで来た。彼はソフィアや鏡を見て一瞬動きを止めたものの、すぐさま片膝をついて報せを届ける。
「も、申し上げますっ! 浅井朝倉軍が約束していた戦闘開始時刻を待たずして攻めて来た模様!」
「キュ、キュンキュン? (ちなみに現在の時刻は?)」
「現在の時刻を聞いておられます!」
「辰の刻の初刻、正刻よりも少し前です!」
向こうから時間を提案して来たくせにめちゃめちゃ卑怯なやつらだな。六助といいこの世界にはろくな奴がいないのかもしれない。
「いかが致しますか!」
「キュンキュン(ひとまず様子を見よう)」
「様子を見るそうです!」
「かしこまりました!」
自分の持ち場に戻っていくのであろう足軽の背中を見送った。
ああは言ったものの、戦術や兵法なんかを全く知らない俺には様子を見るしか出来ることがないのが正直なところ。鏡を見て、いざとなれば全軍撤退の合図を出すくらいじゃないんだろうか。
天幕の中で、戦の行方を固唾を呑んで見守ることにした。




