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駿河の国での一幕

 六助は抜きかけた刀を納めながら応じる。


「これは、半蔵殿ではありませんか」

「ニンニン……」

「そうとは気付かず、ご無礼をお許しください」

「ニンニン……」


 半蔵は「構わないですよ」と言わんばかりに、頭を下げる六助を手で制す。すると、周りにいた馬廻衆や六助の部下たちから、ひそひそと声を潜めて会話をするのが聞こえてきた。


「いや、ここはもう徳川領だし、ある程度察しがついたのでは……」

「しかも最初、あっちの方向いてなかったか?」

「その上、名を名乗れ! とか叫んでたような」

「気配に気付いたところは普通に格好良かったのに、台無しだ」

「これは恥ずかしいな。私なら切腹するぞ」

「お前たち、聞こえているぞ」


 耳を赤くした六助が、部下たちの方を振り向いて言った。「これは失礼を致しました」と謝罪をして、おっさんたちは黙り込む。

 からかわれても本気で怒ってない辺り、彼らとの信頼関係が窺える。部下たちにとって六助は親しみやすい上司なのだろう。

 六助が誤魔化すように咳払いを一つした。


「わざわざ私たちのところまでいらしたということは、何か用件がおありで?」

「ニンニン……」

「えっと」


 さすがにこれは誰か通訳出来るやつを連れてくるべきだったのでは。でも、家康以外にこいつの言葉がわかるやつっているのかな。

 半蔵は直立したまま返事をして、特にアクションを起こさないので、肯定や否定の意思表示すらもない。六助が困惑するのも無理のないことだった。

 やがて半蔵は立ち去るような仕草を見せた後に一旦こちらを振り返って、「ついて来い」という雰囲気を出してくる。俺たちは一瞬顔を見合わせてから、首を傾げつつそれに続いた。


「家康殿のところまで案内してくださるのでしょうか?」

「そういうことでしょうな」


 帰蝶の問いを六助が肯定する。他の家臣たちも、似たような会話をしながら俺たちの周りを歩いていた。

 六助が微妙な表情をしながら会話の続きを口にする。


「当主である家康殿が直々に出向くというのも大袈裟ですし、へりくだりすぎな気もしますから。きっと敢えて半蔵殿おひとりに迎えを任せたのかと」

「そうですね」


 まあ、帰蝶はここで「それでも隠れる必要はなかっただろ」とか「一人で来させる意味はあるのか」とか、そういう無粋なツッコミを入れたりはしない。本当によく出来た子だと思う。

 でも、そう考えると本当に何なんだろうな、この状況……と思っていたら先頭にいる半蔵が立ち止まった。


「ニンニン……」


 そして、周囲をきょろきょろとしながら腰の刀に手をかける。

 それを見た六助が、俺と帰蝶を腕で制しながら警戒態勢に入った。


「どうやら敵襲のようです。プニ長様と帰蝶殿はおさがりください!」

「本当か?」

「先程も似たようなことを仰っておられた気がするが」

「今度もただの鳩なのでは」

「お前たちも警戒せんか!」


 ひそひそと、しかし大きな声で話す部下たちを六助が叱責したその瞬間、前方の木陰から左右で一匹ずつ、野犬が飛び出して来た。犬種は柴犬だ。


「ニンニン!」


 刀を鞘から抜き放ち、飛び掛かって来た二つの影にその刃を振るう。それは的確に犬の急所である腹を切り払い、致命傷を負わせた。

 犬の悲鳴が戦場と化した街道に響き渡る。しかし、戦乱の世を生きるおっさんたちは「お見事」「さすがは半蔵殿」等という言葉を残すのみ。帰蝶も凛とした表情で前方に視線をやり、いかなる事態にも対処できるよう備えていた。

 その時、人間の身体よりも少しばかり鋭敏になった俺の耳は、半蔵からいくらか離れたところにいる俺たちの左右から、別の何かが茂みを揺らす音を捉える。

 そして、右側から一匹の野犬が飛び出し、帰蝶目掛けて突進してきた。


「キャンキャン! (帰蝶たん!)」

「プニ長様!?」

「プニ長様!」


 いち早く気付いて帰蝶の前に回り込んだ俺に、帰蝶と六助が驚いている。

 うおお……戦闘態勢の野犬と正面から対峙したのって初めてだけど、結構怖いもんだな。何にそんな怒ってんだよってくらい険しい表情してるし、超小型犬に分類される俺よりも体格が一回り大きい。

 彼我の距離が零へと近づいていく。刹那の中で、俺は本能寺の変を待たずしてここで死ぬの。でも、帰蝶の為に死ぬならそれはそれで……と考えていた。


「キャイン!」


 でも、悲鳴をあげたのは俺じゃなかった。

 どこかから飛来した手裏剣が、ものの見事に野犬の腹に突き刺さっている。その場に転がり回った野犬はもがき苦しみながら、やがて追加の手裏剣を受けて完全に息絶えた。

 見れば、木の上に半蔵の従える忍者がいた。正直そこにいるなら野犬が襲ってくる前に何とかしてくれよとは思うけど、結果オーライということにしよう。街道の左手から襲って来た野犬も別の忍びがどうにかしたみたいだ。


「半蔵殿、かたじけない」


 六助が礼を言うと、半蔵は「ニンニン……」と言いながら刀を納める。「どういたしまして」とか「これくらい当然です」みたいな感じだろうか。

 旅や出兵の最中に野犬に襲われるということはたまにあるけど、大抵手こずって怪我人が出たりする。でも、今回は半蔵と彼の部下のおかげで誰一人怪我をすることなくスムーズに退治出来た。

 安堵の笑みを浮かべるおっさん共を眺めていたら、帰蝶がひょいと俺を抱き上げてくる。何じゃいと思って見上げると。


「ありがとうございます、プニ長様」


 そんな思いもよらぬ言葉が返ってきた。


「キュン(何が)」

「私を守ろうとしてくださいましたでしょう?」


 たしかにそうだけど、結果的には何も出来ていない。しかも白状してしまうと足プルプルでおしっこちびりそうだった。めっちゃ怖かった。


「対処してくださったのは半蔵殿の家臣の方々ですが、それでも私は、プニ長様のお気持ちが誠に嬉しかったのです」


 お礼を言われて嬉しい反面、何もしてないのにちょっと恥ずかしいな。

 周りを見渡せば、全員がこちらを見ながらニヤニヤしていた。気のせいか半蔵までもニヤニヤしている気がする。


「キュン(何見てんだコラ)」


 ガンを飛ばしてみたものの、抱っこされたポーズなので迫力はない。


「全く、本当にプニ長様はいと尊しでございますな」

「いと尊し」「いと尊し」


 六助に続いて、おっさんたちが一斉にそんなことを言う。全く、ちょっと自分で頑張ってみたらこれだよ。恥ずかしさから自暴自棄な気分になってきたので帰蝶の腕から飛び降り、駕籠の中に入る。

 帰蝶が追いかけて来て、扉から中を覗き込んできた。


「お休みになられるのですか? 私も御一緒します」


 そうして駕籠に入って来た帰蝶の前で伏せながら、やがて眠りについた。それからは一度も外へ出ることがないまま、気付けば家康のいる屋敷に到着していた。

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