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東海道遊覧

 生き生きと生え並ぶ樹々、堂々とそびえたち威厳すら放つ山々。その中から一つ突き抜けた白く巨大な峰が、この国で営みを送る人々を見守っているかのように静かに佇んでいる。


「わぁ」


 初めて富士山を見た帰蝶の感想がこれだった。思わず漏れた感嘆の声に、自然と頬が緩んでしまう。

 甲斐への途上にある台ケ原という地で、まだ遠くに見える程度ながらも、俺と帰蝶、六助の三人は生まれて初めて、日本の象徴を目の当たりにした。

 六助が目の上に手を当て、陽射しを遮断しながらつぶやく。


「噂に違わぬ雄々しき姿。早く間近で見てみたいものですな」

「本当に」


 六助は馬上から。帰蝶は「富士が見える」との情報を聞いて駕籠から出て、俺を抱っこしながら眺めている。

 皆が初めての富士山を堪能し終えると移動を再開した。


 この地域ではもう桜が開花しているらしく、場所によっては一面に桃色の花びらが舞っていた。桜と富士。この血生臭い世界にあって、これほどまでに幻想的と言える景色は味わったことがない。

 暖かい風に乗って漂う花の香りにも心が躍る。

 帰蝶や六助をはじめ、旅に同行してくれている馬廻衆の人たちも、この眺めには満足してくれているようだった。


 初めて富士を見た翌日、信玄の居館、躑躅ヶ先館……の焼け跡の上に建てられたという仮御殿にたどり着いた。

 正直、焼け跡の上に建てられた、というよりは廃墟の一部を改修した、といった印象を受ける。出来る限り瓦礫等を撤去して清掃した後が窺えるし、仮御殿も仮という割にはしっかりとした造りをしていた。

 すでに夜の帳が下りていて、空にはこぼれそうな程の星々が浮かんでいる。

 でも連日、時には駕籠を降りて大自然を楽しんだ俺たちは思いの外疲労がたまっていたので、そんな素敵な夜空も放っておいて食事と就寝準備を済ませ、早々に眠りにつくことにした。


 気が付けば朝……と思っていたら、次に目が覚めたのは真夜中だった。

 隣には、静かに寝息を立てている帰蝶がいる。一緒の布団に入っているので、起こさないようにそっと抜け出て縁側へと向かった。

 月光だけが淡く部屋の輪郭を浮かび上がらせている。縁側で伏せると丁度風が吹き、どこかの梢をざあざあと揺らした。


 薄闇に覆われた庭を眺めながら物思いにふける。

 甲州観光が楽しくて忘れかけていたけど、本能寺の変の問題が全く進行していない。というか、こちらに来ている軍勢を現地解散したので、余計に明智が何をしているのかわからなくなってしまった。

 とはいってもまあ、何とな~く、本能寺の変が起きること自体は避けられない気がしている。

 ソフィアが来ないと日常と違う行動を取ることは難しい。会話が出来ないから、誰かに調査を依頼することも出来ないし、理由もなく戦の拠点や安土城から離れすぎると家臣に止められる。それに帰蝶を心配させてしまう。


 首だけで振り返り、気持ちよさそうに眠る帰蝶を眺める。

 ならば、本能寺に向かう時が来たらそれを拒否すればいいのだろうか。……いやそれはそれでどうなんだろう。

 明智が裏切るにしろ何にしろ、目的は俺を倒すことのはず。

 信長が本能寺に向かったということは、どこかの戦に応援に行く予定だった可能性が高い。そんな時に安土城に残って、万が一守りが手薄だったら、そこを攻められて最悪帰蝶たち家族を巻き込んでしまうこともあり得る。

 そうなってしまうくらいなら、いっそのこと運命を受け入れて一人で死にたい……でも死にたくはない。


 じゃあ、一人でどこかに姿をくらませるのは……無理だ。家臣に止められるし、万が一城を抜け出せたとして、今度は明智じゃなくても別の人間や他の動物に襲われることだってあるかもしれない。ソフィアがいないから、例えば半蔵直属の忍び部隊に極秘で護衛を頼んで……とかも無理だしな。

 そもそも、こっそりいなくなってしまうと帰蝶が心配するか。いつ戻れるようになるのかもわかんないし。


 やはりいっそのこと、運命を受け入れてしまうか。

 そう考えると不思議なことに、すっきりするような気がした。波一つない水面のように静かで、けれどその下にあるものが何かは見えないような、そんな今までにない心持ちだ。


 死ぬなら一人で。大切な人たちは巻き込まない。

 そうだ。本能寺へ、行こう。

 空に浮かぶ月と、自分の心と。帰蝶の寝顔にそう誓った。




 いつの間にか意識が途切れていた。

 月はどこかへ身を隠し、入れ替わりで空へと現れた太陽が元気に活動をしている真っ最中だった。

 身体を動かしてみるともぞもぞとして、布が身体に覆いかぶさっているのがわかった。そして、風に乗って花のような甘い香りがすぐ隣から漂って来る。


「おはようございます、プニ長様」


 見上げると帰蝶が縁側に座り、笑顔でこちらを見下ろしていた。布団代わりの布は彼女がかけてくれたものみたいだ。


「昨晩はお散歩でもしていらっしゃったのですか?」

「キュウン(そうでちゅ~)」

「私を起こしてくださっても構いませんでしたのに」


 帰蝶の笑顔が朝日に照らされて、いつもよりも眩しく感じられる。

 うん。やっぱりこの子には平和に生きて、寿命を全うして欲しい。例えその傍に俺がいなかったとしても。

 そんなメンヘラ染みた俺の決意はさておき、さっさと朝食を済ませると、その日も甲州観光を楽しんだ。


 一週間を躑躅ヶ先館で過ごした後、甲斐を離れて、この度の最後のお楽しみである東海道遊覧をする運びとなる。

 東海道遊覧、というとよくわからないけど何ということはない、要は東海道という街道を、安土城の方面に向かってゆっくり歩きつつ、景色を眺めて楽しみながら帰ろうというだけの話だ。

 東海道は恐らく、甲斐を南方向に下り、それから海岸よりの道を安土……つまり関西方面に向かって歩いていくような道筋だと思われる。


 富士山とお別れしてしばらくすると海が顔を出す。時には山道を歩くこともあったけど、体感で旅の半分くらいは海の見える道を歩いていたように思う。

 来るときは内陸の道で海は通らなかったので、これまた帰蝶が目を輝かせながら景色に見入っていたのが非常に良かった。


 帰蝶から出て来るのは「綺麗ですね」とか「いつかこの海の中を泳いでみたいものです」とか、そんなありきたりな感想だったけど、嬉しそうな彼女を眺めているだけで、この旅をして良かったと感じた。

 そしてその途上、家康に贈った駿河という国に入った時のことだ。俺と帰蝶は外の空気が吸いたくなったこともあり、駕籠から出て歩いていた。


「ここからは駿河に入ります。せっかくなので家康殿に会っていくのもいいかもしれませんな」


 隣に並ぶ六助が馬上から教えてくれる。でも、その場所からしばらく歩いたところで、俺と帰蝶以外の全員が不意に立ち止まった。


「……どうされたのですか? まさか」


 軽いとは言えない空気に何かを察した帰蝶がそう尋ねてすぐ、六助が右斜め前の雑木林を、敵意を込めて睨みつけながら馬上で叫んだ。


「何者だ! 我々の前に姿を現し、名を名乗れ! さもなくば……」


 と言いつつ腰に帯びた剣の柄に手をかける。

 しかし、その言葉の途中で、俺たちの背後からがさがさっと、草の根をかき分けて歩み出る何者かの足音がした。全員が一斉にそちらを振り返る。


「ニンニン……」


 右斜め前の雑木林ではなく、俺たちの左後ろの雑木林から出て来たのは、家康の重臣で忍び部隊を抱える、服部半蔵その人だった。

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