(5)
月曜日の夜。
進学先のパンフレットに目を通していると、枕元に投げ捨てていた携帯電話が振動した。画面を見ると伊織からメールが来ていた。
【今日はあまり一緒にいれなかったね。文化祭の打ち合わせが忙しくって(汗)そういえば、今日はインターンシップの場所が決まったわね。私はもみじ幼稚園です。歩はどこになったの?】
僕の高校では、三年の夏休みにインターンシップを行うしきたりがあった。参画企業は、幼稚園や食堂、印刷会社に地方銀行など、主に地域に密着した企業ばかりだ。
僕はJAに行くことが決まっていた。何故JAかというと、叔父がそこで働いているからという理由と、単に家の一番近くのバス停から二十分ほどで着くという交通の利便性がよかったからである。
僕は絵文字も句読点も使わない冷徹な文字で、ただ二文字JAとだけ返した。
【あらそう。ところで話は変わるんだけど、まずはこの画像を見てくれないかな】
彼女は社交辞令で僕のインターンシップ先を聞いたらしく、あからさまに興味がなさそうだった。僕は彼女の指示通り添付されていた画像を見た。画像の名前には「茄子のはさみ揚げ」と表記されており、白い器に盛りつけられた天ぷらのようなものの上から、エノキやネギの混ざったあんが掛けられている。
【まさかこれ、君が作ったの?】
【そんなわけないでしょう。私にこんな技量があったら、おばあちゃんは心配しないわよ。これは夕ご飯を食べていた時に、バラエティ番組で紹介されたものなの。その写真をインターネットから拾ってきたのよ】
確かに、自分のことを不器用だと豪語する彼女が、こんな凝った料理ができるとは思えない。彼女は皿を洗えないどころか、洗った皿を上手に陳列することすら満足にできないのだ。
伊織がこの写真を送ってきた意図を考えていると、見計らったかのように彼女から着信があった。そして開口一番、彼女はとんでもない要望を投げつけてきた。
『今週の土曜日、歩がこの料理を作ってよ』
『何で僕が?』
『歩は料理が上手だからこの料理作れるよって、おばあちゃんに言っちゃたんだもん』
『どうしてそんな嘘を……』
『話の流れで仕方なかったのよ。でも前に、料理が趣味だって言っていたわよね?』
料理のことを話したのは彼女と初めて喫茶店に入った時だ。確かにあの時彼女は、僕に料理ができるかと聞いてきた。でもその時言ったはずだ。
『簡単なものしか作れないって言ったじゃないか』
『茄子のはさみ揚げも簡単でしょう?』
『だったら君が作ればいいじゃないか』
『あなたが料理した方が、おばあちゃんもよくできた恋人だと感心するでしょう。それに私、本当に料理が苦手で……。前に味噌汁を作った時も鍋をひっくり返して、もう台所には立たなくていいって言われたし……』
いつも過剰なほどに自信家の彼女が、自分の不得意分野をこうまで自覚しているのならよっぽどひどいのだろう。煮えたぎった油に水を注いで火災になるなんてことも、彼女ならあり得るような気がした。
『だから私も、歩が作っているところを実際に見て、少しずつできるように頑張るから。ね? この通り』
電話での彼女の哀願は、表情が見えないだけに心に響くものがあった。夜だからいつもの張りのある声量を抑えているのか声は吐息が多く、耳元で囁いているように聞こえた。しかしこれも彼女の作為的な声で、実際は声だけで演技をしているという可能性もある。
そして何よりも、僕にはこの料理を作りたくない理由があった。それを言おうとした時、受話器の奥から縋り付くような声が聞こえた。
『お願い、歩。協力してよ』
『……もう、わかったよ』
悶々と葛藤している間に、僕の口は勝手に動いていた。
『本当に? ありがとう! うまくできるようになったら一度食べさせてね。おばあちゃんが好きな味に近づけたいからさ』
『それはいいけど、材料費は』
『そうそう。お弁当箱に入れて持ってくるときは、あんをこぼさないようにね』
『いや、だから、一発じゃできないと思うから材料費が嵩むと思うんだけど』
『えっ? なに? 聞こえない。あっ、電波が遠くへ! じゃあよろしくね!』
伊織は僕の発言をすべて遮って、挙句の果てに一方的に電話を切った。
やっぱり彼女は、自分がうっかり蒔いた種に困っている演技をしていたのだ。そもそも電波が遠くへってなんなのだ。
内心いらつきながらもパソコンに向き合い、インターネットで茄子のはさみ揚げの作り方を検索した。 思い当たるページを見つけた後それをプリントアウトし、手順を一通り見た後、一階の冷蔵庫に向かった。ホームページに記載されていた材料と冷蔵庫の中の具材を見比べて無い物をメモした。
散々振り回されているのに、言いなりになって律儀に段取りしている自分を情けなく思う反面、同時に彼女に頼られているということは、本当はすごく幸運なことなのかもしれないと思った。
よくよく考えてみれば、嘘とは言え僕は校内で誰もが憧れる雅田伊織と付き合っているのだ。それに彼女のおばあちゃんには好感が持てる。そういえば、この間はごちそうされてばかりで、お土産にお茶の葉まで持たせてくれた。
これは伊織のためじゃない。おばあちゃんのためだ。そう自分に言い聞かせながら、戸棚の中から茄子のはさみ揚げが入りそうな容器を探した。
******
その週の土曜日。先週と同じ時間に伊織と駅で待ち合わせた。
彼女は濃紺のシャツワンピースを着用していた。その服は腕の部分がざっくりと切り取られており、肩口からは白くて細い腕がすらりと露出していた。彼女の私服姿を見るのは初めてだった。
僕らは駅のスーパーで材料を買うことにしていた。この一週間、僕は毎日茄子のはさみ揚げを作った。 手軽に調理できるものしか作ったことがなかったのでろくに包丁を持ったこともなく、最初の方は中々苦戦して、散々な出来上がりだった。
ただ、一つのことを黙々と行うという行為は僕の性に合っていた。完成した作品を何度か伊織に試食してもらい、おばあちゃんはもっと薄味が好きだとか、どうせなら味を変えたものも作ってほしいなど、自分は一切何もしないくせに一丁前にケチばかりつける彼女の要望も真摯に受け止め、何とか提供できる品質のものを作成することができるようになった。
スーパーに入り、僕は目当ての材料をかごに入れていった。途中伊織が、材料とは関係ないカンパチの刺身やアンデスメロンなどをかごに入れ出したので、僕はそれらを無言で元の場所に戻した。
目当ての材料を揃い終えた時、総菜コーナーの近くでばったり真央さんに会った。今は昼休みで、ちょうど昼ご飯を買いに来ていたそうだ。
伊織がこれからおばあちゃんのために茄子のはさみ揚げを作る計画を説明すると、真央さんは僕が料理することに驚いていた。
「真央さんも来ればいいのに」
「いいわよ、私は。仲睦まじい二人の間を邪魔したくないし」
「全然邪魔じゃないよ。そうよね、歩」
彼女は笑っていたが、瞳の奥の真意は肯定の返事しかするなと言っているように見えた。僕は、是非真央さんもいらしてください、と言った。
「今のところ四時まで予約が入っているから、それ以降の予約が入らなかったら行こうかしら」
「絶対だよ。歩の料理は本当においしいから、早く来ないとなくなっちゃうよ」
「ちょっと、君」
「それは楽しみね。午後からのモチベーションが上がったわ」
そう言って真央さんは、持っていた弁当を小さいサイズのものに取り換え、会計をしてスーパーを出て行った。
「君は本当に、人を窮地に追いやる達人だね」
「ハードルが上がった方が、飛び越え甲斐があるじゃない」
「そのハードルを誰が飛び越えると思ってるの?」
ついでにおばあちゃんに頼まれていた酢もかごに入れ、僕らはレジに並んだ。
会計は珍しく彼女がしてくれて、どういう風の吹き回しなのかと聞くと、どうやらおばあちゃんから今日のためにお小遣いをもらっていたらしい。
駅を出ると、待ち構えていたかのような夏の熱気が体中を包んだ。行き交う人達は皆一様に襟元をパタパタと仰いだり、日傘をさしていたりした。
僕らは街路樹の連なる歩道を歩いた。セミの声と車のエンジン音が無数に通り過ぎていき、足元には街路樹の葉陰が色濃く落ちていた。
歩きながら伊織が、暑いねぇ、と言った。特に気の利いた言葉が思い浮かばなかったので僕も、暑いね、と返した。
空は下手なカメラマンが撮影しても絵になりそうなくらい壮大に蒼く、刷毛で書いたような細い雲が、世界の中心に向かって集まっていこうとしているみたいに伸びていた。夏はまだ始まったばかりだった。
攻撃的な太陽にげんなりしながら雅田家に着くと、おばあちゃんが迎え入れてくれた。おばあちゃんは掃除をしていた最中で、手に雑巾を持っていた。
居間の畳の黄ばみを取っているそうで、水を貯めたバケツに少量の酢を入れて雑巾に浸し、それで畳を拭くことで汚れが落ちるらしい。水拭きした畳は乾くのが遅いから、こんな風にからっと晴れた日に掃除するのが効率的にいいのだそうだ。
先週も台所の三角コーナーに酢を活用した消臭剤を吹きかけていたことから、この家では酢を料理以外でも常習的に使用しているのだろうと思った。
僕と伊織はさっそく調理に取り掛かった。伊織が自分もちゃんと料理を覚えようとしている姿勢をおばあちゃんにアピールしたいと言ってきたので、とりあえず大根を下ろしてもらうことにした。教えたらサルでもできそうな作業なので、それを彼女にさせておいてその間に迅速に作業を済ますことにした。
まず、茄子の間に挟むたねを作ることにする。僕は素早く玉ねぎを刻み、それと豚ひき肉をボールに投入した。この時ひき肉に下味をつけておくと、揚げた時何もかけなくてもおいしく食べることができるらしいが、今回は揚げた後にあんをかけるので下味は割愛した。
次に茄子のへたを切断し、それを5mmほどの幅で輪切りにする。切り終わった茄子の表面に片栗粉をまぶし、先ほど作ったたねを二つの茄子で挟み込み、最後にもう一度片栗粉を全面にまぶして準備は完了する。慣れると滞りなく作業も進むのだが、最初のうちは茄子を均等の厚さで切ったり、間に挟むたねの量に苦戦したりした。
一区切りついたところで伊織の作業を確認すると、彼女は無言で大根をおろし金にこすりつけていた。おろし金の下の容器を確認したところ、縁ぎりぎりまで大根おろしの嵩があり、今にも溢れそうである。そんなに必要ないと言うと、彼女は息を切らしながら、最初に言ってよ、と憤慨した。
下準備はできたので後は油で揚げるだけなのだが、この作業を伊織にさせると家が全焼してしまう恐れがあるので、とりあえずメモとペンを持ってこさせ、熱心に勉強しているふりをさせた。
茄子を揚げている間、彼女は今まで僕が行ったたね作りや、油の温度、揚げる時の注意点などを細かくメモしていた。タイミングよくおばあちゃんが様子を見に来たので、伊織が料理を覚えようとしていると錯覚してくれたかもしれない。
茄子を揚げながら、最後の仕上げに取り掛かる。今回は二種類の味付けを作る予定で、一つはしめじやネギの入った甘酢あんをかけ、もう一つは大根おろしを使いみぞれ煮にする。
先に甘酢あんを作ることにする。しめじとネギをフライパンで炒め、そこにケチャップ、酢、砂糖、酒などを混ぜ合わせたものを入れ、煮立ったら水溶き片栗粉でとろみをつける。出来上がったら、それをはさみ揚げにかけて一品終了。
間髪入れずに、みぞれ煮の準備をする。はさみ揚げを数個フライパンで熱し、そこにしょうゆ、みりん、酒、ペースト状のしょうがを混ぜ合わせたものと大根おろしを投入し加熱する。甘辛い匂いがしてきたら、火を止めて二品目も終了だ。
居間の畳がまだ乾いていないので、出来上がった料理は縁側で食べることにした。首振りの扇風機とテーブルを設置した後、三人分の座布団を用意した。
準備が整うと、僕らはテーブルを囲んで手を合わせた。おばあちゃんが繊細な手つきで、甘酢あんをかけた茄子のはさみ揚げを一口頬張った。僕と伊織は箸を持ったまま、固唾を呑んでその反応を伺った。この瞬間のために、僕は一週間茄子を揚げ続けてきたのだ。
「とってもおいしいよ。こんなにおいしいもの初めて食べたわ」
大げさだと思ったが、自分が作った料理をおいしいと言ってもらえるのは嬉しいことだった。
おばあちゃんが喜んでくれたことに気をよくした伊織は、次にみぞれ煮を勧めた。一口かじったおばあちゃんは、これもおいしいよ、と言ってくれた。
僕と伊織はその場でおばあちゃんに分からないように頷き合った。僕の茄子にまみれた一週間は、満足できる成果に結びつくことができたようだ。
食事を続けていると、心なしか正面に座っている伊織の機嫌が悪くなり始めた。
理由は分かっていたが、僕は目を伏せて味噌汁をすすった。このまま時が過ぎるのを待っていたが、途中おばあちゃんが替えのお茶を持ってくるために席を立った時、悲劇は起こった。
「なんで茄子を食べないのよ。さっきから漬物と味噌汁しか食べてないじゃない」
理由は単純に茄子が嫌いだからだ。毒々しい色とあのぐにゃりとした食感には、きっとこの先一生慣れることはないと思う。だから伊織が最初に茄子のはさみ揚げを提案してきた時は断ろうと思った。
しかしその思考は、甘い声を出された彼女によって阻まれた。だから僕はこの一週間、自分で作った料理を一口たりとも食べていない。味見はすべて両親や伊織にしてもらい、僕はその各人の意見を統合し現在の形に昇華させたのだ。
そのことを話すと、彼女は問答無用で僕の皿に二種類の茄子のはさみ揚げを置いた。
「JAにインターンに行くのに野菜も食べられないなんて、職員や農家の人達に失礼でしょう」
「茄子が食べられないくらいでそこまで咎められたりしないよ。それに、JAの職員だって野菜嫌いはいると思う」
「あなた、自分が食べられないものを人に売りつけるの? 眼鏡屋で眼鏡をしていない店員に、こちらの眼鏡はよく見えますよ、なんて言われて説得力があると思う?」
「眼鏡を買う時は、フレームを選んだ後に店員が視力検査をしてくれて、ベストなレンズにしてくれるんだよ。最初からこの眼鏡はよく見えますなんて営業文句は言わないよ」
「歩のくせに屁理屈を!」
互いに一歩も譲らぬ攻防が続いたが、その争いはおばあちゃんがお茶を持ってきたところで終息した。おばあちゃんは僕と伊織のグラスにお茶を注ぎ、おや、という風に僕の皿を見た。
「月島くん、全然食べていないじゃない。もしかして、茄子が嫌いなの?」
その瞬間、伊織がまずいという風に口をはっと開け、おばあちゃんに気付かれないように茄子を指さし、その指をそのまま自分の口に入れるようなジェスチャーをした。おばあちゃんの目の前で食べろという意味だろう。
ここで茄子が食べられないことを話してしまうと、何故僕は食べられない料理を作ることができるのかという疑問が生まれる。そうなったら、伊織と共謀したことが芋づる式に露見してしまう恐れがある。
観念して、僕は甘酢あんのかかった茄子のはさみ揚げを頬張った。味付けは問題なかったが、どうしても茄子の食感が前面に出てきて、表情が歪んでいくのが自分でも分かった。それでも僕は、いかにもおいしく食べているという表情を無理に作り、その勢いのままみぞれ煮の方も平らげた。
「歩は、好きなものは最後に食べるの。そうよね、歩」
僕は上あごと下あごを機械のように動かしながら頷いた。
「あらぁ、そうだったの。それにしても、泣くほど好きなのかい?」
体は心より正直で、僕の瞳にはいつしか光るものがあったらしい。
「それならそうと早く言ってちょうだいよ。私はもうおなかいっぱいだから、ほら、たくさん食べて」
おばあちゃんは茄子のはさみ揚げを、それぞれ一個ずつ僕の皿に配膳してくれた。
目が点になった僕は、無言で彼女の方を見る。彼女は笑いを堪えるのに必死そうな顔をしていた。
「若いんだから遠慮したらだめだよ」
「……はい」
自分の意見ははっきりと伝えなければならない。この時、そんな当たり前のことに身をもって気付かされた。
伊織が持て余し気味の大根おろしの使い道に悩んでいると、おばあちゃんがその大根おろしを使って障子を塗り替えようと提案した。大根おろしと障子紙に含まれる成分がうまいこと反応して黄ばみが落ち、さらに塗って時間が経つと障子が以前よりも丈夫になるらしい。
僕と伊織はおばあちゃんの指示に従いながら、大根おろしを絞った器に刷毛を浸し、黄ばんだ箇所に丁寧に塗り付けた。説明どおり、障子は見違えるほど白くなった。
僕らは黙々と作業を続けた。途中伊織の様子を確認すると、彼女の塗った障子はどれも四隅の黄ばみが落ちていなかったので、僕はおばあちゃんにスポンジをもらい、彼女の塗り残した障子を塗りなおした。彼女は家事だけではなく、こういった細かい作業も苦手なようだ。
模範的な日本家屋ということもあり、雅田家には多くの障子が設置されており、すべての障子を塗り終えた頃には夕方になっていた。
塗り漏れの最終確認を終えたころ、ちょうど仕事を終えた真央さんが来訪した。約束通り、茄子のはさみ揚げを温めなおし真央さんに提供した。真央さんは縁側に腰掛け、上品な手つきで料理を口にした。おばあちゃん同様大げさな反応で喜んでくれて、ようやく今日の任務が終わったことに胸をなでおろした。
それから真央さんが購入してきたケーキを食べて、少し雑談をしたところで帰宅することにした。帰り際おばあちゃんは、昼間食べたきゅうりの浅漬けを容器に入れて持たせてくれた。
「今日は家のことまでしてもらって本当にありがとうね。茄子もすごくおいしかったよ。またみんなでお昼ご飯食べようね」
おばあちゃんは、純朴な笑みを浮かべながら僕の手を取った。しわの刻み込まれたその手はずっしりと重みがあり、とても柔らかくて暖かかった。
夕方だというのに日は陰る気配がなく、駅前の広場には多くの人がたむろっていた。広場の中央には一定の間隔で噴き上がる噴水があり、子供たちが頭上から断続的に降り注ぐ水の粒を避けながら走り回っていた。舞い上がる噴水の飛沫は、太陽の光を浴びて煌めいていた。
駅ビルの中央に設置されている英字の壁時計を見ると、時刻は六時を回ったばかりだった。あと二十分ほどで、僕が乗る電車が到着する。僕と伊織は、広場に設置されてあるベンチに座りながら時間を潰していた。
「わざわざ送ってもらわなくてよかったのに」
「私だって、好きで来たわけじゃないわよ」
帰り際、真央さんの余計なおせっかいで、伊織が僕を送るはめになってしまったのだ。せっかくの休みに、二人きりになる時間が取れなかったことに気を使ってくれたらしい。
「本当に今日は参ったよ。気が休まる暇がなかった」
「まさか歩が茄子を食べられないなんて。何でもっと早く言わないのよ」
それは君が電話で、「女」を使ったからだとは口が裂けても言えない。
「次は何を作ってもらおうかしら」
「次は君が作らないとだめだよ。それでおばあちゃんを安心させてあげることが、本来の目的でしょう」
「それはそうだけど、私、今日大根しかおろしていないから、まだ料理の技術が上がったとは言えないじゃない」
たしかに作り方を熱心にメモに取っていたとはいえ、一連の工程を彼女が手際よくこなせるとは思えない。ということはこれから先、僕は彼女の気まぐれでとんでもなく難しい料理を作らされる可能性があるのだろうか。
「気長に行こうよ。おばあちゃんも喜んでいたわけだし」
「そんな他人ごとみたいに……。僕がどれだけ大変だったことか」
すると伊織は、噴水広場の周りを駆け回る子供たちを、優しいまなざしで見つめながらぽつりとこぼした。
「――でも、私は歩と料理ができて楽しかったよ」
何気なく発したであろうその言葉には、不思議と演技という偽りの温度は感じず、走り回る子供たちに目を細めている彼女を見て息が詰まりそうになった。
「歩はどうだった?」
伊織が微笑みながらこちらに向き直った。西日が彼女の横顔を照らし、髪が金色に輝いている。彼女は光の中にいるようだった。
「……おばあちゃんも喜んでくれたし、まあまあの一日だったかな」
僕が言うと、彼女はにやりと口角をあげ、素直じゃないねぇ、と言った。
電車の出発時刻が迫ってきたので、駅員に定期を見せ改札を通り抜けた。
振り返ると、伊織が改札の手前に立ってこちらを見ていた。僕と目が合うと、彼女は微笑んで片手を上げた。駅の中の喧騒で声は聞こえなかったが、口の動きで彼女が、バイバイと言ったのが分かった。周りを気にしながら、僕も控えめに手を振り返した。