(4)
夏休みの間の連絡手段として、僕らはお互いの電話番号を交換し、彼氏である僕がいつまでも彼女のことを雅田さんと呼ぶのはおかしいとのことで、互いを下の名前で呼び合うことが義務付けられた。
いつしか昼ごはんまで一緒に食べるようなり、教室まで迎えに来た彼女に強制的に連れ出され、校舎の裏や中庭に植わっている大楠の下で弁当を広げた。
ある時、何故ここまで本格的に演技をしなければならないのかと質問してみた。
世間を欺くことができる演技力があれば、実際僕と会ったり手をつないだりしなくても、おばあちゃんの前でだけその演技力を発揮すれば問題ないのではないかと思ったのだ。
「そんな付け焼き刃で通用するなら、最初からあなたなんかに頼らないわよ」
相変わらず失礼な物言いだったが、情けないことに、それもそうだと納得している自分がいた。
それに心配なのは僕の方なのだという。
いくら彼女の演技がうまくても、実際おばあちゃんに会った時に僕らの間に齟齬があると、すぐに嘘がばれてしまうのではないかと彼女は危惧しているのだ。だから彼女は学校内だけでなく、世間からも当然のようにあの二人は付き合っているのだと認識してもらえるようなリアリティを追求しているのだろう。
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土曜日、僕は初めて伊織のおばあちゃんに会うことになった。
休みにも関わらず、学校で生徒会の仕事をしていた伊織と昼前に駅で待ち合わせして、僕らは雅田家へと歩いた。あまり奇抜な格好はしてくるなと言いつけられていたので、昨日は夜中まで服装に悩み、その結果ポロシャツとハーフパンツを選択した。彼女の反応は可もなく不可もなくといった風だった。
伊織の家は駅から高校とは反対方向の地域にあった。洗濯物が一瞬で乾くような強烈な日差しが差しており、遠くのアスファルトにはゆらゆらと陽炎が見えた。車通りの少ない区画に入ると、古い日本家屋が立ち並ぶ集落があり、雅田家もその一画にあった。
家全体を僕の背と同じくらいの高さの生垣が覆い、背伸びをして中を覗くと、木製の引き戸が開け放たれた縁側が見えた。その生垣沿いをぐるりと回ると、表札の掛かった門があり、伊織にしっかり頼むわよと念を押されて中に入った。
「おばあちゃん! ただいまー!」
伊織は溌溂な挨拶をしながら、三和土にローファーを脱ぎ散らかして家に上がり込んだ。僕は控えめな声でお邪魔しますと言い、彼女のローファーと自分の靴をそろえて厳かな気持ちで中に入った。
梁や柱はだいぶ年季が入っていたが、家の中は外から見るよりもだいぶ広く、縁側から通り抜けてくる風が、イ草の匂いを心地よく漂わせていた。
「伊織ちゃん、おかえり」
縁側と隣接する全面畳張りの居間から、銀色に近い白髪を後ろで団子にしたおばあちゃんが顔を出した。意志の強そうな釣り上がり気味の瞳がどこか伊織に似ていて、和服を着ているのでその容姿は一見すると温泉旅館の女将さんにも見える。その気の強そうな見た目とは裏腹に、すべてを許してくれるような優しい声が印象的な人だった。おばあちゃんは座椅子に座って、眼鏡の奥から慈しむように目を細めて僕を見ていた。
「恋人の、月島歩くんよ」
伊織が目で合図したので、僕は正座して茶道のそれのように深々と座礼をした。
「初めまして。伊織さんとお付き合いさせていただいています、月島歩です。よろしくお願い致します」
もちろんこれも伊織からの指示で、まずは第一印象でよくできた彼氏だということをアピールするための戦略らしい。
「そうかい。そうかい。ゆっくりしていってね」
おばあちゃんは非常にゆっくりとしたしゃべり方で頷くと、一緒にお昼ご飯を食べようと提案してきた。事前に伊織が電話で話していたのか、居間の机にはすでにそうめんやサラダ、和え物が準備されていた。
僕らは三人で食卓を囲み、しばらくの間そうめんをすすった。開け放たれた縁側の軒先には風鈴が吊るされており、時折吹く風に涼やかな音色を鳴らしながら揺れていた。外は茹だるような暑さだったのに、その風鈴の音を聞くだけで不快指数が軽減されていくようだった。
食事中は、伊織が最近身近に起きたことを一方的にしゃべり続けていた。
ナンバープレートが777の車を連続で見たことや、ごみ置き場にまだ使えそうなソファが捨ててあったこと、水泳の授業の時先生が体調を崩してしまい、記録を測る予定だったのが水球大会になったこと。どれもしょうもない内容なのに、おばあちゃんは優しく相槌を打っていた。
「それで、二人の馴れ初めはどんなだったの?」
おばあちゃんからいきなり核心が投げかけられた。
伊織はおばあちゃんに会った時に聞かれるかもしれない質問をリスト化していて、僕はそれをすべて暗記せねばならなかった。今の質問は想定内である。
「僕も生徒会役員なんです。僕は庶務長という役職をしているのですが、主に伊織さんのサポートをしたり、広報だったりその他の雑用をしています」
もちろん僕は生徒会に入れるような器じゃないし、ましてや部活や委員会にも入っていない。これは伊織が考えた僕らの嘘の出会いである。
「彼の真面目な仕事ぶりに惹かれたの。彼のおかげで生徒会は成り立っているようなものなのよ」
「そんなことないよ。君が僕ら生徒会だけじゃなくて、学校全体をけん引してくれているから、そのひた向きな姿にみんなが感化されて全力で働いているだけだよ。今の生徒会があるのは君が先陣に立ってくれているからさ」
「もう、歩ったら」
僕らは見つめ合い、さもお互いを尊敬しあっているといった演技を披露した。
客観的に見たら僕らのやり取りには多少のリアリティがあったのか、おばあちゃんは訝しんでいる様子もなく、どうやら僕はこれから先、おばあちゃんの前では仕事のできる生徒会役員の一人として認識されることになるようだった。
昼食を食べ終えると伊織に目線で合図されたので、僕は自ら率先して片づけを行うという意志があるような声かけをした。
おばあちゃんは後で片付けるからそのままにしておいていいと言ってくれたが、伊織も便乗するように、私も手伝う、ともしも僕と二人だったら絶対言わないであろう台詞を言い、僕らは食器を持って台所へ移動した。
「あなた、顔が引きつっていたわよ。ばれたらどうするのよ!」
僕らは皿を洗いながら、おばあちゃんに聞こえないように反省会をした。完璧だと思っていた僕の演技に、彼女は不満があるらしい。
「僕は君みたいに演技派じゃないから、そんなにうまくできないよ。それに、一夜漬けにしてはよくできた方だと思うけど――これ、まだ汚れがある」
僕は彼女が洗った皿を返した。皿の縁にサラダのドレッシングがこびりついていた。
「台詞を覚えることに必死過ぎるのよ。自然な表情で言えるように練習しなさいよ」
「これでも鏡の前で練習したり、お風呂でイメージトレーニングしたんだ。あんなに長いセリフを覚えたんだから上々だろう。――これもまだ汚れてる」
今度はそうめんが盛ってあった器を返した。まだそうめんのぬめりが残っていた。
「本来の目的を忘れてない? あなたは私の彼氏を演じないといけないのよ。だから役に入り込まないといけないの。台詞を覚えりゃいいって問題じゃないの。想像力がないのよ、想像力が」
「じゃあ、もっと演じやすいシチュエーションにしてほしかったよ。図書室でよく会ったから話すようになったとか、重い荷物を持ってあげたとかさ。それより、洗うの変わろうか?」
泡の流し切れていない皿を渡されて、僕はいよいよ我慢できなくなったので係りを交代することにした。
しかし僕が洗った食器を彼女に渡すと、彼女は食器の大きさや種類など関係なしに置くものだからすぐに水切りかごが溢れかえり、挙句の果てにはせっかく洗った茶碗を落としてまた洗わなければならなくなる始末だった。
ほとんど僕一人で食器洗いを終え、水切りかごの食器類を綺麗に並べなおして居間に戻ると、おばあちゃんがねぎらいの言葉を掛けてくれた。
「伊織ちゃん、生ごみにシューはした?」
「忘れてた、すぐするね!」
伊織は再び台所に戻り、三角コーナーに霧吹きのようなもので数回スプレーをして戻ってきた。彼女の説明によると、そのシューなるものはおばあちゃんが酢と水で作った、生ごみ消臭剤なのだそうだ。そのスプレーは生ごみが放つ強烈な悪臭を軽減してくれるそうで、夏場のこの時期には特に重宝しているらしい。おばあちゃんは生活の知恵が豊富で、他にもいろいろなものを手作りしているそうだ。
僕が感心した反応を見せると、伊織は次に古い木製の棚の上から謎の小瓶を取り出した。それもおばあちゃんが作ったもので、中身は虫よけスプレーだった。
「ヨモギの葉を焼酎に漬け込んで三週間位待つとできるのよ。小さいスプレーに入れて持ち歩いてもいいし、網戸に吹きかけると虫が寄りつかなくなるの。それは伊織ちゃんが採ってきたヨモギで作ったんだよ」
伊織は五月になると決まって近所の河原や、お寺のそばの茂みにヨモギを摘みに行って、おばあちゃんに毎年この虫よけスプレーを作ってもらうそうだ。もっとも伊織はいらない雑草まで摘んでくるそうで、大量に採取してきた草の中から、おばあちゃんがヨモギを選別しているらしい。
「昔は私も伊織ちゃんを連れてヨモギを取りに行っていたんだけど、最近はどうも体の調子が悪くてね。また一緒に行きたいんだけどねぇ」
「体調が良くなったら、今度は三人で行こうよ。ね、歩」
僕が頷くと、おばあちゃんはゆったりとした口調でそうだねぇと言って、目じりを下げた。
それからおばあちゃんは、伊織の成長の記録を見ようと、押し入れの中から二冊のアルバムを引っ張り出した。ページを捲るたびに伊織は恥ずかしそうに写真を隠していたが、その度におばあちゃんがそれを払いのけ、写真の一枚一枚を説明してくれた。
中には若かりし頃のおばあちゃんや真央さんが一緒に写っているものもあり、二人に挟まれながらカメラに向かってあどけなく笑う伊織はとても幸せそうだった。
アルバムを見ていて、気になることが二つあった。
一つは、どの写真にも彼女の両親が写っていないことだ。どれも小学生のころからの写真で、彼女の幼年期の写真は一つもない。
二つ目は、アルバムの表紙である。ハードカバーに薄いクリアフィルムが巻きつけてある表紙の右下には、それぞれ②、③とマジックで書かれていた。ということは、どこかに①のアルバムがあり、そこに彼女の赤ん坊のころの写真などがあるのかもしれない。
気にはなったものの、聞くことはできなかった。おばあちゃんも伊織も楽しそうだったので、僕の余計な一言で水を差すということは避けたかった。
夕方雅田家を出る時、おばあちゃんは新茶の葉を持たせてくれた。近所の寺の住職からの頂き物だそうで、ビニール袋に一年分くらいの茶葉が詰め込まれていた。
おばあちゃんは玄関まで見送りに来てくれて、何度も伊織のことをよろしくと言って優しく目を細めていた。僕は玄関の前で伊織とおばあちゃんに一礼して帰宅した。