(10)
やがて新幹線は次の駅に停まり、数分の停車の後再び動き始めた。新幹線がトンネルに入った時、暗くなった窓越しに誰かが隣の席に座ろうとしている光景が見えた。
きっと前の駅から乗ってきた乗客だろう。さすがにこのまま泣き続けると不審に思われかねないので、僕は一度深呼吸をして涙を拭った。
その時隣の乗客が僕の肩を叩き、何かを差し出してきた。新幹線はトンネルを抜け、窓の外は再び光に包まれた。
「このハンカチを貸すのは二回目ね」
その聞き慣れた声に振り返ると、そこには何故か伊織がいた。彼女の手には、出会った時に借りたネズミのキャラクターのハンカチが握られていた。
「え……何で。何で、ここに?」
幽霊でも見ている気分だった。伊織は答えずに、僕がハンカチを受け取るのを待っていた。おずおずとハンカチを受け取ると、伊織はため息を吐いた後、僕にきつい視線を送ってきた。何故か分からないが、彼女はとても怒っていた。
困惑して声を掛けられずにいると、伊織はおもむろにショルダーバッグから一枚の封筒を取り出し、僕にぶっきらぼうに渡した。中を見ると、折りたたまれた二枚の紙が入っていた。
一枚目を開いてみると、まず合格通知書という文字が目に入った。少し考えて、彼女が今年の春から通う、通信制の美容専門学校の事だと思い至った。きっとこれは、その合格通知書なのだろう。二枚目も同様で、こちらは入学許可書という文字が書かれてあった。でも何故このタイミングでこの紙を見せるのか、訳が分からなかった。
「これが、何なの?」
腫物に触るように聞くと、伊織は再び大きなため息を吐いて、苛立った様子で合格通知書の右上を指さした。
そこには彼女が通う専門学校の名前が書かれてあった。意図していることが分からないでいると、見かねた彼女がその専門学校の下に小さく書いてある住所と電話番号の欄を指さした。
その欄を見て、おや? と思った。その住所は、僕が進学する大学がある地域だった。
「どういうこと?」
伊織は僕の手から合格通知書を回収すると、面倒くさそうに訳を話し始めた。
「はめられたのよ」
彼女の発言は唐突すぎて理解できなかったが、僕は積極的に追求せずに話を聞くことにした。今の彼女には、どこに地雷があるか分からない。
「研修している時、真央さんに専門学校で勉強するように言われたの。通信制って聞いていたから、Selでアルバイトをしながらでもできるでしょうって」
その話は真央さんから聞いていた。基本的には自宅で教科書を見ながら勉強し、年に何度かある決められた期間だけ学校に通うというものだ。
「進路関係のことは真央さんが全部準備してくれたの。真央さん、美容師の世界だと結構顔が利くみたいで、任せてって言われたんだ」
だから伊織は、真央さんが用意した書類を特に見もせずに、指定された場所だけに署名をして、もろもろの手続きは真央さんが行っていたそうだ。
「二週間前に合格通知が来て、何気なくその住所を見てから気付いたの。この場所って、歩が進学する大学の近くだって。だからその日のうちに問い詰めたわ」
二週間前といえば僕が引越しの準備をしていた頃で、真央さんから合格祝いの誘いがあった時期と重なる。もしかしたら真央さんは、そのお祝いの席でこのことを僕に話そうとしていたのではないのか。
「でもなんで? 断ることはできたでしょう?」
真央さんは前に、伊織が絶対に逆らえないと言っていた。それは、この春から研修を兼ねてSelで働かせるから、その代わり何でも言うことを聞くという意味だと思っていた。でもいくら逆らえないからといって、できることとできないことの線引きくらいはできたはずだ。
「もちろんできたけど、すごく迷ったの。真央さんも、美容師になるならこの専門学校を卒業した方が絶対強みになるって後押ししてくれて、聞いたら真央さんもここの卒業生だっていうし……」
真央さんが卒業した専門学校と聞いて、その時すべてが繋がったような気がした。初めてSelで髪を切った時、何気ない雑談の中で確かに真央さんがそんなことを言っていたからだ。
「その提案はすごく嬉しかったし、向こうでの生活も真央さんの後輩の美容師さんが準備してくれるから心配ないって。でもすぐに決断できなくて、三十一日までに返事をしたら内定を取り消すこともできるから悩みなさいって言われたんだけど……」
その月内にいきなり遠方の地域へ行くことになったら、誰だって困惑するに決まっている。でもそれは逆に考える時間を与えない分、うじうじと迷う時間さえも与えないことにもなる。マイナスな方向に決断させないために、真央さんはあえてその時期に合格通知が届くよう入学願書を提出したのかもしれない。
そんな推察をしていると、突然伊織が僕の手を握ってきた。そして距離をぐっと近づけてきたかと思うと、次第に表情が歪んできて、さっきまで怖かった目つきが弱弱しくなっていった。
「何で迷っていたか、分かる?」
「それは……」
住み慣れた町を離れることで、真央さんに余計な心配をかけたくなかったのか、この町にはおばあちゃんとの思い出があるから、その土地を離れたくないというシンプルな理由なのか――。
「ちゃんと、私を見て!」
思考を両断するように、伊織が怒鳴った。やがて彼女は、ぐす、と鼻をすすりながら震える声で囁くように言った。
「……あなたの事を、考えていたからよ」
伊織は僕が弄んでいたハンカチを奪うと、目元を荒々しい仕草で拭った。
「さっきも言ったでしょう。住所を見て、すぐにあなたの大学の近くだって気づいたって。正直、また歩と一緒に過ごすことができると思うと嬉しかったよ。でも私は何もできないから、またあなたに迷惑を掛けてしまうんじゃないかって思うと、どうしても言えなかった。現にあなたは、大学に行くと自分の意志で宣言してくれたし、あなたの未来の邪魔はしちゃいけないって思ったの」
度々鼻をすすりながら、伊織は抱えていた思いを吐露してくれた。
「だからあなたが告白してくれた時、本当に嬉しかった。ようやくこのことが言えるって安心したの。学校は違うけれど、二人でまた楽しい学生生活を送ることができるって想像しただけで、すごく楽しみだったんだよ……」
でも、と言って彼女は再び僕を糾弾するような目つきで睨んだ。目まぐるしく変わる感情の起伏についていけず、僕は相槌さえも打つことができなかった。
「一方的に告白しておいて、その後飛び出して行っちゃうんだもん。本当に勝手すぎるよ。緊張していたのは分かるけど、ちゃんとその先も言ってほしかったよ。だから私はあえてあなたに連絡しなかったの。この一週間、ずっと待ってた。…………本当に、本当にずっと待ってたんだからね!」
話しているうちに怒りが沸点に達したのか、伊織は八つ当たりをするように僕の肩を叩いた。
「……ごめん。僕に意気地がないばっかりに」
すると伊織は強い口調で、そんなことない、と言った。
「私の無理な提案にも一生懸命協力してくれたし、最初は嫌がっていたことでも、最後まで諦めずやり遂げてくれた。あなたはとても強い人間よ」
「……そんな大げさな」
「うるさい! 黙って!」
褒められて嬉しかったのもつかの間、伊織は僕の謙遜を暴言で吹き飛ばした。ひどいアメとムチだと思った。
「あなたが告白してくれた日の夜、実は私もおばあちゃんからの手紙を真央さんからもらったの。これはその時に一緒にもらった時計よ」
彼女が右手首にはめているブレスレッドのような時計は、僕の物と同様、おばあちゃんからの卒業祝いなのだそうだ。
「手紙の内容は、あなたがもらったものと同じようなこと。もちろん細部は違うけど、おばあちゃんが私たちに伝えたかったことは、シンプルに自分の気持ちに素直になりなさいってことなのよ」
――だから言うわ、私も。
そう言って伊織はスイッチを入れるように一度咳ばらいをすると、姿勢を正して何かを決意した時のようなまなざしで僕を見た。
「私も歩が好き。私だって、もうどうしようもないくらい、あなたのことが好きなんだから」
そして伊織は、無理に作った笑顔を浮かべると、瞳から大粒の涙をこぼした。
「だからもう一度、あなたの気持ちが聞きたい」
涙を溜めた伊織が、懇願するように言った。僕は今まで感じたことのない衝撃的な幸福感で、胸が詰まって言葉が出なかった。
頭の先から爪の先まで、僕という人間は伊織で満たされていた。
彼女の涙に濡れて赤くなった瞳も、緊張で上気した頬も、勇気を出して告白してくれたその震える声も、その全てが愛しかった。今までの人生で、こんなにも何かを欲したことはなかった。
「泣かないで」
そのいつも触れてみたかった髪を撫で、僕はそっと彼女を自分の胸へ抱き寄せた。我慢ができなくなったのか、伊織は僕の胸に埋もれるように自分の顔を押し付けると、新幹線の中だということを気にもせず、盛大にしゃくり上げた。
「……いつも、意地悪してごめん。辛く当たったり、無理なことをお願いしたり……。私、自分では何もできないくせに偉そうにして、すごく嫌な女だったよね」
伊織は言い訳する子供のように泣きながら、途切れ途切れに言った。僕がそんなことないよ、と言うと、胸の中で首を振って再び泣いた。
「……私、もうずっと前から歩のことが好きで、でも、おばあちゃんのことも心配だったから、恋愛なんかしてる場合じゃないって思って。でも歩と会うたびに、その気持ちに嘘が付けなくなって、もうどうしていいか分からなくて。歩と一緒にいて、あなたと本当に付き合えていたらいいのになって、何度も思って……」
「……ごめん。僕もずっと前から、多分、君が僕を好きになってくれる前から、君のことが好きだったんだと思う」
「だったら、早く言いなさいよ!」
伊織は僕の胸から離れると、今度は思いっきり僕の肩を殴った。この攻撃も割りと殺傷能力が高く、僕は患部を押さえながらもだえ苦しんだ。唸りながら、この痛みは今までうじうじとつまらないことを気にしていた僕に対する罰で、甘んじて受けなければならない刑だと思った。
ジンジンと傷む肩をさすっていると、もう泣き尽くしたのか、伊織は真面目な顔で再び僕を正面から見据えた。
「だから、最後まで言って。今度こそ、あなたの正直な言葉で」
僕は頷いて、言葉を考えた。一週間前、雅田家の玄関で告白した時と違い、ひどく心音は落ち着いていた。
「君が好きです。僕と、付き合ってください」
僕が気持ちを解き放つと、彼女の強張っていた表情は徐々に柔らかくなり、僕らは照れくささを隠すように、そのまま見つめ合って笑った。
そして僕らは、引き寄せられるようにどちらからともなく近寄って、そっと唇を重ねた。伊織の唇は艶やかでとても柔らかく、口紅だろうか、仄かに桃のような甘い香りがした。
唇を離して、僕らは再び見つめ合い、もう一度キスをした。僕が手を握ると、彼女もまた手を握り返してきた。そのままトンネルに入り、結局僕らはトンネルが抜けるまでずっとキスをしていた。
窓の外が再び明るくなり、僕らはそのタイミングで唇を離した。
なんとなく目のやり場に困ったので、頬をかきながら窓の外を見ると、新幹線はどこかの町の川の上を走っていた。堤防沿いの道には開花した桜並木が続いており、土手の下の水路には菜の花が群生していた。
ねえ、と声を掛けられて振り返ると、伊織が微笑みながら僕を見ていた。
「返事、まだだったよね」
僕は頷いた。
「聞かせてよ。君の答えを」
伊織は目じりを柔らかく下げると、少しの間目を閉じた。きっと瞼の裏で、今まで自分のことを支えてくれた大切な人と話しているのだろう。
僕はおばあちゃんの手紙を思い出した。僕らをすっぽりと隠す大きな傘。一週間前、雅田家の玄関で完全に取りはずしたと思われていたその傘は、今度こそ本当に僕らの頭上からはずされようとしている。
やがて、音が鳴るように伊織がまぶたを開けた。何となくだが、僕にはその時彼女が言うであろう台詞が分かっていた。
「嬉しい。こちらこそ、よろしくお願いします」
伊織は改めてよろしく、と言った具合に右手を差し出してきた。僕は頷いてその手を握り返した。
これからまだ一緒に過ごしたことのない春が来て、やがて出会った夏がくる。そして互いの距離がぐんと近づいた秋が来て、ついさっき通り過ぎた長い冬がくる。冷たい風を頬に感じるたび、おばあちゃんとの別れを思い出して、悲しみが再燃するかもしれない。
でももう、僕らは一人じゃない。雨が降っている時は、僕が持っている傘で君を守ろう。そしてまた、麗らかで幸せな春を待とう。
僕らは歩み続ける。悲しみを指針に、思い出を強さと糧にして。日進月歩で目まぐるしく移り変わる日々を、この最愛の人とずっと手をつないで――。
車窓から見える空には、燦燦と太陽が輝いていた。その空の向こう側で、おばあちゃんが僕らのことを祝福してくれているような気がした。
僕らの頭上に、もう傘はない。




