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その傘をはずして  作者: L.Y
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(9)

 引っ越し当日は月曜日だった。両親はその日も仕事だったが、二人とも午前中は半休を取ってくれて最後の昼食を一緒に取った。出発の日を何故日曜日にしなかったのかと責められたが、見送りの際に、悲しむ両親の姿を見たくなかったという僕の配慮は最後まで言わなかった。


 それに今日は、出発前にSelに寄る予定だった。いくらお世話になったとはいえ、初対面の両親を連れて行ってしまうと双方気まずいだろう。


 引っ越し先に送る荷物を業者に搬出し、両親を見送ったところで家を出た。夏休みや冬休みに帰省するつもりとはいえ、玄関を出た時は生まれ育った家に名残惜しさを感じた。最小限の荷物を入れたボストンバッグを片手に僕は駅に向かった。


 Selには、出発の四十分ほど前に着いた。ドアには休憩中の札が掛かっており、店内には真央さんしかいなかった。伊織がいないことに少しホッとしたが、残念な気持ちもあった。あれから一週間、伊織とは一切の連絡を取っていなかった。


 戸惑いが視線で分かったのか、真央さんが両手を合わせて申し訳なさそうに言った。


「ごめん、今あの子いないのよ。あと少しで戻ると思うんだけど……」


 現在伊織は、お客さんに出すお茶菓子の在庫が切れたため、駅ビル内にある真央さん顔なじみの店に買い出しに行っているそうだ。そこの店主は真央さんのお客さんでもあり、話し出すと長いらしい。


 僕は洋菓子店で買ったマカロンとエクレアを真央さんに渡した。こんなお菓子程度で今までの大恩はちっとも返せはしないが、真央さんは大げさに喜んで受け取ってくれて、後で伊織と一緒に食べると言ってくれた。


 僕は再度真央さんに今までのお礼を言って、切符の購入するために窓口に向かうことにした。真央さんは、伊織が帰ってきたらすぐに見送らせるからと言ってくれたが、僕は曖昧に頷いてSelを出た。


 窓口で切符を購入し、少し早いが改札を抜けてホームへと移動した。平日ということもあり比較的空いていたが、ホームに併設された待合室は清掃中で入れず、自由席の乗車口から一番近いベンチに腰を下ろした。通り過ぎる人の多くがマスクをしており、そういえばもう花粉の季節かと他人事のように思いながら、伊織と一緒に桜や菜の花を見たかったと思った。


 そんな吐き出してしまいそうな願望と狂おしいほどの後悔に押しつぶされながら、僕は自我と平常心を保つためうつむいて目を閉じ、心を無にした。すごしやすく暖かな気候で気を抜くとそのまま眠ってしまいそうだった。


 暗闇の中で不意に、雑音に交じり伊織の声が聞こえたような気がした。考えないようにして心を無にしたのに、いつだって彼女はどこかから顔を出した。今の僕の中ではそれほど彼女のことが大きくなっていたので、目を閉じたくらいでは消えてくれないのだろう。


 だから僕は別のことを考える努力をした。引っ越し先に着くのは夕方になるから、荷物を置いたら今日は散歩がてら外で夕食をとろう。明日はマンションの管理人に挨拶をして、昼過ぎに荷物が届くから荷解きをして、それから――。


「歩ってば!」


 肩を揺さぶられ目を開けると、鼻先に形のいい大きな瞳があった。伊織は僕と目が合うと、安心したように目を細めた。先ほど聞こえた彼女の声は幻ではなかったらしい。


「真央さんから聞いて、急いで来たの。間に合ってよかったわ」


 伊織の顔は赤くなっており、息切れで胸を躍動させる度に、肩口に掛かっている栗色の髪が揺れていた。動揺しながらも、僕がベンチに置いていた荷物を足元に置くと、伊織は何も言わず隣に座った。


 改めて見る私服姿の伊織は妙に大人びているように見えた。

 黒のゆったりとしたニットと薄茶色のフレアスカート。それに濃紺のパンプスを合わせており、飾り気のないコンパクトなショルダーバッグを肩から斜めに掛けていた。


 ニットの隙間から見えた白い右手首には、ブレスレッドのようなデザインをした煌びやかな時計が巻かれている。こんなにも美しい人が僕の隣にいることに現実感がなかった。


「何よ。人のことじろじろ見て」


 怪訝そうに眉根を寄せながら伊織が言った。僕は平謝りして視線を前方に移した。


 少しずつ鼓動が早くなっていく。そういえば僕は、一週間前にこの人に告白をしたのだ。思い出した途端に背中を嫌な汗が流れた。それは伊織も同じだったようで、出発前にこうして会うことができたのに、僕らはただ黙って新幹線の到着を待っていた。


 やがてアナウンスが聞こえるとホーム内がざわつき始め、散り散りになっていた人がどっとゲート付近へと移動してきた。


「……そろそろ行くね」


 僕が言うと、伊織は少しの間を置いて頷いた。


 ボストンバッグを持って立ち上がり、そのタイミングで滑り込んできた新幹線の乗車口に移動する。伊織は立ち上がらず、こんな僕との別れを悲しんでくれているのか、ずっとベンチに座って下を向いていた。その姿を見て、たまらず僕は声を掛けた。


「来てくれてありがとう。君と出会えて、本当に良かった。本当に……、本当に……」


 今まで楽しかったよ、と言う前に喉が詰まり、別れの言葉は尻すぼみになってしまった。

 伊織は顔を上げて、複雑な表情でこちらを見ていた。肩をこわばらせ、唇をぎゅっと噛んでいることから、彼女もまた泣き出しそうになるのを我慢しているようだった。


 結局最後まで互いに笑顔を見せることも手を振ることもなく、車内に入った僕は伊織から逃げるようにできるだけ遠くの車両へ移動した。自由席の客はまばらで、僕はホームとは反対側の席に座った。あと一分ほどで発車してしまう。その間、ホームで待つ伊織の顔を見てしまったら気が狂いそうだった。


 間もなくして、発車の合図と共にドアの閉まる音が聞こえた。車体がゆっくりと前進し、徐々に加速していく。音もなく車輪がレールの上を滑り、僕がいた駅はあっという間に離れてしまった。


 住み慣れた町を完全に通り過ぎてしまった後、目を閉じて伊織の事を想った。


 彼女ともっと話したかった。いろんなところに行きたかった。綺麗なものを見て、その時感じたものを共有したかった。


 世界にはまだ、僕らが食べたことのないおいしいものがたくさんある。それを二人で分かち合い、ただ、おいしいね、と言いたかった。二人きりで旅行にも行きたかったし、彼女がおばあちゃんのことを思い出して眠れない時は、そっとその手を握ってあげたかった。


 波のように打ち寄せる後悔と願望に堪え切れず、僕は窓側にうずくまるようにして静かに泣いた。

 一人ですすり泣いていると、通路を歩く人の視線を背中に感じた。なかなか涙は止まらず、僕はもう見てくれなんてどうでもいいと、やけくそになりながら泣いた。


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