(3)
翌日から、彼女の作戦は決行された。
「歩くん。ジュースでも飲みに行こうよ」
休み時間、いつの間にか教室に入り込んでいた彼女が、満面の笑みを周囲にまき散らして僕の後ろに立っていた。彼女のその発言でクラス中がざわめき立ち、騒ぎを聞きつけた他のクラスの生徒たちが廊下側の窓に集まってきた。
「何しに来たのさ」
小声で言うと、彼女は自分の体で死角を作り、僕の腕を思いきりつねった。爪が皮膚にめり込んで、肉が引きちぎられるような痛みで声を上げそうになった。
「うるさいわね。あなたも彼氏らしく堂々としていなさいよ」
早口でまくし立てると、彼女は尊の席に集まっていた他の男子たちを視認し、つかつかと歩いて行った。ちなみに彼らとは今日、一言も口を聞いていない。
一体、何をする気だろう。まさか他の男子たちも僕と同じように吊るし上げるのか。心なしか、男子たちも近づいてくるこの学校のボスに委縮しているように見える。
危険を察知した僕はすぐに尊の席に走ったが、彼女は僕の予想に反して一切笑みを崩さないまま男子に向き合っていた。
「あなた達が歩くんの友達ね。いつも歩くんと仲良くしてくれてありがとう。これからも、彼のことよろしくね」
突然予期せぬお礼を言われた男子たちは、彼女の破壊力のある笑みにやられたのか、皆一様に照れて控えめに頷くばかりだった。
「じゃあ、歩くん。行こうか」
言われるがまま、僕は金魚の糞のように彼女について行った。
しかし彼女は教室を出る寸前で突如振り返り、大声で言った。
「高木くん、私と歩くんの間を取り持ってくれてありがとう! あなたのおかげよ!」
いきなりそんなことを言われ、尊は顔を固まらせていた。その反応を見て彼女は、僕にしか見えないように片目を閉じた。
売店の真向かいにある中庭の簡易的な喫茶スペースで、僕らは少し話をすることになった。ちなみにその場所は一年から三年の教室のベランダの真下に位置しており、各教室から出てきた数人の野次馬たちが僕らのことを指さしながら見ていた。
「雅田さん。恥ずかしいから中で話そうよ」
「何を言っているの? 皆に見られるために敢えてこの場所を選んだのよ」
彼女は僕におごらせた梅昆布茶を飲みながら言った。現在この喫茶スペースには僕たち二人しかいない為か、彼女の化けの皮は剥がれている。
「あなた、クラスの男子たちにいいように使われているんでしょう。特にさっきのつんつん頭の彼に」
つんつん頭の彼とは尊のことである。彼女には、僕が今クラスでどんな位置に属しているのかをすべて説明してある。
「言ったはずよ。あなたにもメリットがあるように計らうって。それにはまず、私とあなたが付き合っているということを校内全体に知らしめないといけないの。自慢じゃないけど、私はこの学校ではそれなりに顔が利く方だと思うわ。そんな私と付き合っているのだから、自然とあなたも一目置かれるってわけ。雅田伊織の彼氏だから、変なことをしたら痛いしっぺ返しがある、って思わせないとだめなのよ。私とあなたが付き合っている事実が校内に知れ渡ることが、あなたを今の腐った現状から脱却させる一番の近道なの」
つまり「雅田伊織」という名前が、僕をぞんざいに扱ってきた男子たちへの抑止力になるということだ。確かにうまくいったら、僕は男子たちのために売店まで走ったり、嫌な役を押し付けられたりしなくなるかもしれない。
「男子たちも、私を敵に回すとどうなるか分かるだろうから、今日からあなたは使いっ走りを卒業できるはずよ。首謀者の彼にも圧力をかけたから、変なことはできないはず。感謝しなさい」
彼女の明言通り、その日僕は誰からも使いっ走りにされることはなかった。
皆一様に態度を改め、彼女に声をかけられたのが嬉しかったのか、頼んでもいないのに僕のために飲み物を買ってきてくれる男子もいたくらいだ。
ただ尊とは、その日一日を通して直接会話をすることはなかった。食事中も休憩時間も皆の会話に交じっていたが、僕が話し出すといつものように小ばかにしたり茶化したりするということをせず、終始目すら合わせてくれなかった。
彼女からの圧力がかなり堪えているのかもしれない。しかしこれで尊がおとなしくなるなら、もう悪ふざけをされることはないだろう。もとはと言えばおかしな悪だくみをした自分に責任があるのだから、彼は今猛省すべきなのである。
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夕方、彼女の知り合い美容室に行くことになった。おばあちゃんに会う前にちゃんと身なりを整えて、好青年だということをアピールするためらしい。
駅構内の雑踏をかき分け、エスカレーターに乗って二階に上がると、書店や土産物売り場に混ざってこぢんまりとした美容室があった。ガラス戸の前に小さめの黒板が置かれてあり、そこには美容室Selと記載されていた。
天井から床まで全体的に白を基調とした店内には、椅子が三脚とその正面に鏡が一台ずつ設置されており、その後ろには髪を洗うスペースがあった。
奥には雑誌を収納しているラックと、三人掛けくらいの柔らかそうなソファがあり、窓は一面ガラス張りになっていた。その窓から学校に行くために渡る歩道橋と幹線道路を走る無数の車が見えた。
「真央さん。連れてきたよ」
彼女は、入口にあるカウンターでパソコンをいじっていた女性に話しかけた。
「いらっしゃい。あなたが伊織の彼氏ね」
肩くらいまでの髪を後ろに結んだその女性は、首元が開いたTシャツと細身のジーンズを着用しており、それらすべてがこの店とは対照的な黒で統一されていた。腰元には数種類のはさみやくし、髪留めなどを入れたベルトが巻かれている。
「初めまして、真央です。ゆっくりしていってね」
真央さんは彼女の家の真向かいに住んでいて、昔からおばあちゃんと親交があり、幼い彼女のお守りをしたり幼稚園まで迎えに行っていたらしい。彼女のことを自分の娘のようにかわいがってくれているそうで、現在もよく三人でご飯を食べたりするのだそうだ。彼女が小さいころから親交があったということは 結構な年齢だと推察できるのだが、見た目は三十代前半に見えた。
「突っ立ってないであなたもこっちに来て選びなさいよ」
いつの間にか彼女はソファに座っており、男性用のヘアカタログをパラパラと捲っていた。言われるがまま、僕は渋々彼女の隣に腰掛けた。
「ねえ、これなんてどう?」
彼女は耳の周りを刈りあげている男性の写真を指さした。ツーブロックという髪型で、別のクラスの奇抜そうな男子がこんな頭だった。自分には似合わないと思ったので却下した。
「じゃあこれは?」
「それパーマじゃん。うちの学校、禁止でしょう」
生徒会長なのにそんなことも知らないのかと、心の中で言った。
「なら、もうこれでいいじゃん」
彼女が坊主の写真を指さしたところで、タイミングよく真央さんが麦茶を運んできてくれた。良い髪型があったかと聞かれたので僕が迷わず、なかったですと答えると、隣で彼女が僕のことを睨んだ。結局、真央さんのお任せで切ってもらうことになった。
耳元で小気味いいはさみの音がして、その度にはらはらと髪の断片が目の前を落ちていった。真央さんは流れるようにはさみを動かし、名前も知らない鼻歌を上機嫌に歌っていた。
室内にはお香が焚かれているのか、濃すぎない清涼感のある香りに包まれており、控えめに流れているスローテンポなピアノの曲とよく調和されていて心地良い。
髪を切っている最中、僕の進路の話になった。
志望大学の名前を口にすると、偶然にも真央さんはその大学がある地域の美容専門学校を卒業していたそうで、駅の近くにある格安スーパーや、学生街にある老舗の洋食店などを紹介してくれた。
話が弾んで彼女のことをほったらかしにしていると、いつの間にか彼女はソファの上で膝をくの字に曲げ、猫のように丸まって眠りこけていた。僕が飲むはずだった麦茶まで飲んでしまったようで、二人分のグラスは空になっていた。
バリカンで襟足付近の髪を整え、次にシャンプーをした。普段はカットのみの散髪屋しか行ったことがなく、他人に髪を洗ってもらうことは初めてだったが、真央さんは頭を洗いながら同時に頭皮マッサージもしてくれて、美容院とは高いだけあってなかなか快適なものだと思った。
髪を乾かし、生まれて初めてワックスを付けてもらいカットは終了した。
先ほどまでの暗く野暮ったかった髪の無駄なところがそぎ落とされ、とてもすっきりとした自分が鏡に映っていた。
「伊織、ほら。終わったから起きなさい」
体を揺すっても、彼女は少しむずがゆそうにするだけで起きる気配がなかった。無防備に眠るその姿からはいつもの粗暴な印象が感じられず、ただ眠っているだけなのに完成された絵画を見ているようだった。
結局彼女はこのまま寝かせておくことになり、僕は帰ることにした。料金を支払おうとしたら、出したお金を戻された。
「あなた、今まであの子が連れてきた男の子とは、雰囲気が違うわね」
真央さんは、僕のことを精査するようにまじまじと見つめていた。
「はあ。すいません」
「何で謝るのよ」
真央さんが笑いながら僕の肩を叩いた。言葉を濁していたが、恋人が僕で内心がっかりしているのだろう。
「伊織のこと、よろしくね」
ドアを開けて見送りながら、真央さんが言った。
胸の中で、世間を騙して嘘の恋人同士を演じているという罪悪感に苛まれながら、僕はできる限りの笑顔で頷いた。彼女のことを娘のように可愛がっている真央さんに、僕たちの真実の関係を告白することはできない。