(8)
手紙を読み終えた時は、もう限界だった。僕はうずくまり、自分の体を抱きしめるようにして泣いた。
渾身の演技をしたつもりだったのに、すべて見抜かれていた。でも不思議と罪悪感はなく、涙と一緒に心の中に根付いていた迷いまでも一緒に流されたような気がした。
スタイリングチェアの正面にある鏡で自分の顔を見る。頬が上気し、目を真っ赤にした僕がそこにいた。もう、自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。
ドアを開けて店の外に出た。人の波を避けて駅の正面入り口に出た時、はやる気持ちが前に出てきてしまい、いつの間にか早足が少しずつ駆け足になり、気が付いたら走り出していた。桜が開花し始めた並木道を駆け抜け、見慣れた角を曲がり、路地に入って何度も転びそうになりながら雅田家へと向かった。
玄関に着いた時、今にも破裂しそうなほどに心臓が暴れていた。汗が滴り落ち、上着の下に着ていたシャツが濡れて肌に張り付いていた。
両ひざに手をつき、前傾姿勢になりながら酸素を取り入れて、落ち着いてきたところでチャイムを押した。間延びしたチャイム音の後、こちらの動向を伺うようにゆっくりとガラス戸が開かれ、部屋着姿の伊織が顔を出した。
「え、歩? どうしたの?」
突然の訪問に、彼女は戸惑っていた。深呼吸をして伊織の目を正面から見ると、その瞬間に彼女の肩が微かにこわばり、身構えるのが分かった。僕の方は、呼吸が整っても胸の高鳴りはまだ収まらなかった。
「話を、聞いてくれるかな」
「……いいけど。タオルを持ってくるから、ちょっと待ってて」
伊織が背を向けようとした時、駅で彼女がそうしたように僕はその手を掴んだ。
「今、聞いてほしいんだ」
僕がよほど鬼気迫る表情をしていたのか、伊織は気圧されるように頷いた。
僕が手を離すと、伊織は一度大きなまばたきをしてこちらを見返した。それは全校生徒が敬愛した、力強く、知性の宿った生徒会長の瞳だった。
「ずっと、心の中にこびりついていたものがあったんだ。それは僕の正直な考えや心の底から湧き上がってくる思いに蓋をする迷いの塊みたいなもので、僕はこれから先もずっと、その塊を抱えて生きていくものだと思っていたんだ」
言葉がうまくまとまらなくて、どうしてもまどろっこしくなってしまう。それでも伊織は目を逸らさず、相槌を打ちながら僕の言葉を聞いてくれた。
「君やおばあちゃんと出会って、その迷いの塊が少しずつはがれていって、いつしか僕は、自分の正直な気持ちと向き合うことができるようになってきたんだ。初めて、変わろうって思うことができたんだよ」
そんな時おばあちゃんが亡くなり、そのことで僕と伊織の関係も一度は破綻してしまい、そのことで僕の中の迷いの塊は以前にもまして肥大してしまった。
「でも、おばあちゃんが亡くなってから、ずっと迷ってた。君と僕との間に、今以上の関係を求めることに罪悪感みたいなものもあった。君は大切な人を失っているのに、僕だけが自分の感情に任せて、突っ走ってしまっていいのかなって。だから、ちゃんと言えなくて……」
次第に喉元で声が詰まってきて、僕は泣きそうになっていた。でもここで泣いてしまったらきっともう言えないと思った。だからぎゅっと拳を握り、涙を堪えた。
「自分の気持ちにはもうずっと前から気づいていたのに、僕は小さなことにとらわれていたんだ。釣り合いとか、周りの目とか、君と一緒にいることで起こるわずらわしい事柄とか。それらが君を求めてはいけないと、ブレーキをかけていたんだ。でも、それに気づかせてくれたのは、おばあちゃんだったんだよ」
「……おばあちゃんが?」
伊織はそこで初めて声を出した。僕は彼女に、おばあちゃんからもらった手紙のことを話した。
書かれてあった内容をかいつまんで話すと、伊織は大して驚かずただ一言、そうだったんだ、とつぶやいた。
「おばあちゃんは僕らの関係や、僕の想いも全部知ってた。出会った時から、最後の最後までずっと心配してくれていたんだ。だから僕はもう、小さいことにとらわれるのをやめたんだ。じゃないと、天国のおばあちゃんに申し訳が立たないから。だから言うよ。僕の本当の気持ちを」
雑音が消え、周りの景色が少しずつ白んでいくようだった。いつの間にか僕の目に映る世界には、もう伊織しか見えなかった。味わったことのない緊張感の中、鼓動の高鳴りが最高潮になり、手が震えた。でもその瞬間に耳元でおばあちゃんの声が聞こえた気がして、震えは止まった。
僕は彼女の大きな瞳の中心を射抜く思いで見つめた。
伊織、と僕が言うと、彼女が、はい、と返事をした。
「君が好きだ。――もう、どうしようもないくらい、好きなんだ」
その一言を発言した瞬間、心の中の迷いの塊がすべて剥がれ落ちて蒸発し、すっと胸が軽くなったような気がした。
伊織は驚きを飲み込むように唇を少し開けると、徐々に顔をほころばせた。次第に瞳が潤んできて、人差し指で零れ落ちそうな涙の粒を救い上げるようにして拭っていた。
大分遠回りをしたけれど、ようやく伝えることができた。今度は悪ふざけでも嘘でもない、正真正銘僕の正直な気持ちだ。
「ありがとう」
声を震わせながら伊織が言った。
その瞬間に、世界に音と景色が戻ってきた。心臓が早鐘を打つのが常態化していて、もう緊張しているのかどうかも分からかった。
伊織は濡れた瞳のまま僕のことを見ていて、その時自分が、目の前にいる万人が認める美しい女性に告白したという事実を改めて理解した。
次第に頭の中の混乱は混沌へと変わり、今までに味わったことのない恥ずかしさと照れくささで、自分でも顔が沸騰するほど赤くなっているのが分かった。僕はもう、彼女の顔を正面から見ることができなくなるほどに自我が崩壊しかけていた。
「……今まで君と一緒に過ごしてきた思い出は、僕の大切な財産だよ。これから離れ離れになるけど、寂しかったり、辛いことがあった時は、君と過ごした時間を思い出して、僕もがんばるよ。今までこんな僕と一緒にいてくれて、ありがとう」
感謝の気持ちを伝え、伊織に頭を下げた。その時足下に、透明な滴がぽたりと落ちた。それが汗なのか涙なのかも分からなくて、そのまま逃げるように雅田家を飛び出した。後ろから伊織が何度も僕の名前を呼んでいたが、もうここにいることはできないと思った。
それは恥ずかしいからという気持ちだけではなく、これ以上伊織と一緒にいてしまうと、大学進学のためにこの町を旅立つ時に離れるのが辛くなって、本当にそれこそ取り返しのつかないことになると危惧した、一種の防衛本能のようなものだった。
本当は伊織が僕のことをどう思っているのかも知りたくはあったけれど、今はくすぶっていた気持ちをぶつけることができて満足していた。
並木道の入り口で立ち止まり空を見上げた。雲ひとつない春空が広がっていて、すがすがしい気持ちになった。空を見ていると改めて僕にしてはがんばった方だと、初めて自分を褒めてあげたいと思った。
僕という人間の歴史表に、激しい鼓動が今日という日を刻み込むためにタイプしているようだった。目を閉じて風を感じていると、おばあちゃんが耳元でそっと「お疲れ様」と言っているような気がした。




