(5)
ふさぎ込んでいた時にため込んでいたやる気が一気に放出されたのか、その日を境に僕は勉強の虫になった。
しかしどうあがいても僕の頭なので、分からなかったり悩んだりしたことはあった。
そんな時、僕は迷わず伊織を頼った。以前のような後ろめたさはなく、僕は素直に彼女の力を欲することができた。着信やメールを入れておくと、どんなに夜が遅くなっても彼女は必ず折り返してくれた。
電話やメールで僕が理解できなかった時は、僕が伊織の家に行ったり、彼女が僕の家に来て勉強を教えてくれたこともあった。
ある時一度だけ、伊織が僕の両親と出くわしたことがあった。二人で勉強していた時に突然リビングのドアが開き、そこに度肝を抜かれたという表情の両親が口を開けて立っていた。
「あ、歩、そ、そちらの綺麗なお嬢さんは?」
父が腫れ物に触るように聞いてきたので、僕は伊織にどう説明しようかという意味の目配せをした。それを勘違いしたのか最初から話し合う気がなかったのか、伊織は両親の前に移動し背筋を伸ばした。
「はじめまして。歩くんの友達の雅田伊織と申します。よろしくお願いします」
彼女がマナー本の説明書きに載っているような最敬礼をすると、両親は二人して、嘘でしょう! と叫び、持っていた鞄を同時に落とした。伊織の発言に呆然とした両親は、状況が整理できないのか共に口を開けたまましばらく放心していた。
「あ、歩の父です。あの、ええと」
「わ、私は、歩の母です。今日は仕事が早く終わって、家の前で主人とばったり会って、その」
「父さんも母さんも落ち着いて」
さえない息子が連れてきた、目を疑うような美しい友人の来訪に胸を躍らせた両親は、それから今まで食べたことのないような値段の寿司を注文した。半ば強引に引き止められた彼女だったが、肩身の狭い思いをしている様子もなく積極的に両親に話しかけており、食卓ではむしろ僕の方が蚊帳の外だった。そんな日々はあっという間に過ぎて、受験日は目前まで迫っていた。
出発の日。伊織が新幹線の乗車口まで見送りにきてくれた。
「これ、私が淹れたハーブティ。風邪の予防になるから新幹線の中で飲んで」
伊織に手提げ袋を渡され、中を見ると水筒が入っていた。
「それと、これも」
伊織はコートのポケットから小さめの紙袋を取り出した。紙袋の中には合格祈願のお守りが入っていた。
「真央さんと一緒に、歩が合格できるように祈願しておいたから」
お守りの裏側には、受験シーズンになると多くの参拝者が訪れる県外の神社の名前が刺繍されていた。その神社はこの町からふらっと行ける場所ではないので、伊織と真央さんは僕の為に遠出してまでこのお守りを手に入れてくれたのだ。
「……ありがとう」
お礼を言うと、伊織は照れくさそうに頷いて、ほら、と僕を乗車口の方へと促した。到着した車両にはいつの間にか乗車客がすべて入り込んでおり、入り口の前に立っているのは僕と伊織の二人だけになっていた。僕は急き立てられるように旅行鞄を持って車内に入った。
「行ってらっしゃい」
手をひらひらとさせながら、伊織はゲートから一歩後退した。間もなくして出発を知らせる駅員の笛が響き、ドアが閉まろうとしていた。その瞬間に、彼女が叫んだ。
「歩なら絶対大丈夫だよ! 頑張ってきてね! 私も仕事がんばるから!」
僕が返事をする前に乗車口のドアが閉まった。窓越しに僕が頷くと伊織が笑った。
席について伊織が持たせてくれたハーブティを一口飲んだ。蓋を開けた瞬間にマスカットのような甘い香りがして、一口飲むと、喉に優しく浸透するようなすっきりとした甘みと清涼感が口の中に広がった。
窓の外を見ると、いつの間にか僕の町は遠く過ぎ去っていた。
******
受験が終わると、あっという間に卒業式の日になった。
式は、前日に行われたリハーサル通りに進行した。
校長や理事長の祝辞は長ったるく聞いていても特別な感慨はなかったが、式の途中でしばしば聞こえてくる卒業生のすすり泣く声や目元を拭う姿、涙をこらえながら卒業証書授与の際に、最後の点呼を取る先生を見ていると胸に迫るものがあった。
式が終わり、クラスで最後のホームルームを終えると、僕は教室を出た。どうしても伊織に会っておきたかったのだ。
廊下で待っていると、伊織のクラスもちょうどホームルームが終わったようで、僕は教室の入り口から伊織を探した。
彼女は教室の真ん中の席にいて、僕と目が合うと手を振ってくれた。すぐにこちらに来ようとしてくれたが、その瞬間に多くの友人に取り囲まれていた。一緒に記念撮影をする者や、アルバムを渡してメッセージを書いてもらう者、泣きながら彼女に抱きつく者たちで教室内は混沌としていた。
その混沌の中心で、彼女は困惑しながらも微笑みを絶やさず対応していた。とても入っていける状況ではなく、伊織にメールをして校舎の外で待つことにした。
弓道場のそばで待っていると、しばらくしてから伊織がやってきた。相変わらず多くの友人に囲まれていたが、彼女は僕を見つけると友人たちに一言詫びてこちらへ来てくれた。
「ごめん、待った?」
「うん。四十分も待ったよ」
「そういう時は、今来たところって言いなさいよ」
伊織は卒業証書の筒を僕の肩に押し付けながら言った。後ろから彼女の友人達がそれを面白そうに見ていて、先に行っているよ、と言って校舎を出て行った。
「これから友達の家で打ち上げなの。歩は?」
「僕も夕方から、女子の親がやってる居酒屋であるよ」
「歩も出席するの?」
「まあ、一応ね」
何故か嬉しそうに、そっか、と彼女は言った。
駅へ向かう道すがら、伊織に受験の手ごたえを話した。終わってみると、自信がある解答が五割、迷った解答が三割、全然分からなかった解答が二割で、手放しで安心できる結果ではなかった。
後は運に任せるだけだったが、伊織や真央さんが合格祈願をしてくれたこともあり、その運に関してはきちんと補われているような気がして、何となく自分はこれから大学に通うのだろうなと思っていた。
公園の前に差し掛かった時、伊織が急に立ち止まった。彼女は公園の中にある二本の梅の木を見上げていた。紅梅と白梅が隣り合うようにそれぞれ一本ずつ、フェンスから道路側に覆いかぶさるように植わっていた。どちらも開花して見頃を迎えており、彼女につられて僕も梅の花を見た。
その時不意に、横顔に彼女の視線を感じた。振り向くと、柔らかく目じりを下げた伊織が僕の方を見ていた。
「――背、伸びたね」
「そう、かな?」
洋服のサイズも変わらないし、彼女との目線の高さだって同じままだ。久々に並んで帰るからそういう風に見えたのだろうか。
伊織はただ頷いて、また梅の花を見た。
「最後に、一緒に見れてよかったね」
彼女が何気なく言ったので僕も、そうだね、と返した。
駅ではアナウンスを聞いた人々が改札を急ぎ足で通り過ぎていた。電光掲示板を見ると、あと数分で僕の乗る電車も出発するタイミングだった。
僕が改札に向かって踏み出した時、突然伊織に右手を掴まれた。同時に、彼女の手から通学バッグと卒業証書の筒が落ちた。往来の人達がすれ違いざまに僕らのことを見ていたが、誰も何事もなかったかのように改札の方へと吸い込まれていった。
「あ、ごめん……」
伊織が申し訳なさそうに言うと、握っていた僕の手をゆっくりと放した。その瞬間、彼女の頬を一筋の涙が伝った。
「……あれ、どうしちゃったんだろ。おかしいな」
伊織は涙をごまかすように笑っていた。彼女の涙を見て、通り過ぎていく人の群れも、駅の入り口から入ってくる冷たい風も、誰かが買ってきた惣菜の匂いも、足早に歩く靴音も、電車の到着を知らせるアナウンスも、すべてが霞んでいくようだった。
「伊織、あのさ」
僕が伊織に向き直ると、彼女はその濡れている瞳を見開いて僕の方をまっすぐに見た。薄い唇はきつく閉じられ、艶やかな頬は発光しているように紅潮していた。
何を言うべきかも、彼女が僕のペースに合わせてくれていることも分かっていた。でも、うまく言葉が出てこなくて何度もどもってしまった。
構内の真ん中でそんな風に向き合っていたものだから、何度も人とぶつかった。憎々しい視線を向けられ、その度に一回りずつ気持ちがしぼんでいくようだった。
そんな僕に伊織は、もういいよ、と許してくれるような笑みを浮かべながら頷いて、床に落ちたバッグと筒を拾い上げた。
「結果が分かったら、連絡してね」
彼女の言葉で、静止していた時が戻ったように、再び喧騒に包まれた。その瞬間に、全世界の人間から意気地なしと嘲り笑われているような気持になった。
とぼとぼと改札を通り抜け、ホームに向かうエスカレーターの中腹くらいの場所で振り返ると、同じ場所に伊織は立っており、控えめに手を振ってくれた。
建物の壁で遮られ彼女の姿が見えなくなった瞬間、激しい動悸と今までの人生で感じたことのない高揚が胸に宿っていた。結局、電車にも間に合わなかった。




