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その傘をはずして  作者: L.Y
25/31

(4)

 三日後、約束どおりSelを訪ねた。出迎えてくれたのは伊織で、彼女は僕を見て、いらっしゃいませ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。


 僕が来ることを聞かされていなかったのか相当に動揺しているようだったが、真央さんはそんな伊織の困惑を無視して僕に、おはよう、と言った。


 伊織はチラシで見た通り、肩口まで髪をばっさり切っていて、髪の色は黒から栗色に染まっていた。胸元には研修中というプレートが付けられていた。


「そんなところに立っていないで、こっちに来なさい」


 真央さんに言われ、肩身の狭い思いをしながら席に腰掛けた。伊織も同様の気まずさを感じているようで、鏡越しに目が合うと申し訳なさそうに互いに目を逸らした。


 髪型はすべて真央さんに任せることにして、早速カットを始めてもらった。計算されたリズムで動くはさみの音が、今日はやけに大きく聞こえた。なんとなく、店内に響いている音楽の音量も小さいような気がした。


 伊織はカウンターで雑務をしていたが、ちらちらとこちらを気にするように見ていた。僕が頑なに目を合わせないでいると、恐る恐るこちらに歩み寄ってきて、真央さんの技術をメモに取ったり、気になったことを質問し始めた。

 接客時は特別な用事がない限り話しかけてはいけないと教育されているらしく、その度に真央さんにうろうろするなと注意を受けていた。


 しかし気が知れた仲という事と客が僕であるということもあり、彼女は鏡越しに本格的に真央さんの作業風景を観察し始め、いよいよ真央さんが怒った。


「こらっ! あんたは黙ってお茶を淹れる練習をしなさい!」

「……は、はい!」


 伊織はカウンターの横の戸棚から茶葉を取り出そうとしたが、慌てていたため茶葉の缶を床に落とした。たむろしていた小動物たちが一目散に逃げ出してしまいそうなけたたましい金属音が鳴り響き、音が止んでからしばらくして、伊織が気まずそうに、ごめんなさい、と言った。彼女の足下には、缶の口からこぼれた若草色の茶葉が大量に撒き散らされていた。


 真央さんはこれが日常と言わんばかりに肩を竦め、伊織に片づけを指示した。彼女は借りてきた猫のように、粛々とほうきで散らばった茶葉を掃除し始めた。


「いつもこうなのよ」


 真央さんがわざと聞こえるように言うと、しゃがんで茶葉をちりとりに入れている伊織と鏡越しに目が合った。なんとなくその光景がおかしくて僕が笑いを堪えていると、彼女の顔が険しくなった。その顔を見て、僕は久しぶりに呼吸ができたような安堵感を覚えた。


「いよいよ来週ね」


 カットが終わりかけた時、真央さんが言った。来週はついに大学の前期試験が行われるのだ。


「自信の程は?」

「まあ、その……」


 言いかけて僕は伊織を見た。彼女は回収した茶葉をゴミ箱に捨てていたが、その手を一瞬止めた。


「……自信はないですけど、勉強はしています」


 それは真央さんに対してではなく、遠まわしに伊織に向けた僕なりのメッセージだった。真央さんは僕と伊織を見比べて、そう、と言うと、細かい調整をしてはさみをしまった。


 髪を洗い流すためにシャンプー台へ移動した時、真央さんが伊織を呼んだ。


「あんたがシャンプーしなさい」


 伊織が不安そうに、私が? と聞き返した。


「あんたが茶葉をひっくり返したから、買いに行かないといけないのよ」

「それなら私が……」

「レモングラスばっかり一キロも買ってくるような人には頼めないわ」


 過去の失敗を言及されて、伊織がしぼむように押し黙った。すると真央さんはそんな伊織の肩に手を添えて諭すように言った。


「今までたくさん練習してきたでしょう。きっと大丈夫よ」

「でも、まだお客さんにシャンプーしたらダメだって……」

「歩くんは例外よ。それに――」


 真央さんはつかつかとカウンターに移動して、僕と伊織を見た。


「積もる話もあるでしょう。あとは、あなたたちの好きなようにしなさい」


 そう言って自分の荷物を取ると、真央さんは颯爽と店を出て行った。出て行く時、ドアに掛かっているプレートをひっくり返していたので、現在この店は閉店中ということになる。店内は二人だけになった。


 幾度となく二人で過ごしたのに、会話の仕方が分からなかった。店内を流れている音楽が次の曲に移り変わる際の一瞬の間も、ものすごく長く感じた。逃げ出したい衝動と闘いながら、僕はできる限りの作り笑顔を伊織に向けた。


「よろしく頼むよ」


 先手を打つと、伊織が怯えるようにこちらを見た。


「本当に、いいの?」


 彼女はひどく自信がなさそうだった。僕も彼女にシャンプーをしてもらうなんて思ってもいなかったが、動揺を悟られないように頷いた。


「くれぐれも、ドライヤーの距離感だけは気をつけてね」


 意地悪く言うと、形のいい瞳がゆっくりとへの字型に緩やかなアールを描き、彼女は安心したようにもがっかりしたようにも見える顔で頷いた。


 椅子の背が倒れ、洗面台のくぼみに後頭部がすっぽりとはまり、顔にガーゼのような布を掛けられた。蛇口をひねる音と共に耳元で水流の音が聞こえ、伊織が始めるよ、と言った。


 温度の調整後、適温になったお湯を髪全体に浸透させるように、伊織の手が僕の髪に触れた。頭全体が水浸しになったところで蛇口が閉まり、シャンプーが塗布されると、伊織がぎこちない手つきで髪を泡立て始めた。


「痛かったら言ってね」

「うん」


 しばらく、僕は目を閉じていた。失敗談ばかりを聞いていたが、伊織のシャンプーはとても心地よかった。自信のなさが指先に表れていたが非常に丁寧な洗い方で、繊細な指先が頭皮の上で動くたびに不思議と落ち着いた。他人に髪を触ってもらうと癒されるという人がいるが、なんとなくその気持ちが分かるような気がした。


「――元気だった?」


 まどろみかけていると、頭上から伊織の声が降ってきた。それは壁から顔を出してこちらの様子を伺っているような心もとない声だった。僕は、一応、と答えた。


「美容師になるんだってね」


 伊織も、一応、と言った。


「初めてのお客さんが歩だなんて、思ってもみなかったわ」

「真央さんの言い方だと、僕はお客さんじゃないみたいだけど」

「じゃあ何? 実験体?」

「それは……」


 今の会話に、そこまで深い意味はないはずだが、改めて言われると僕は一体、伊織の何なのだろうかと考えた。


「――僕は、君の友達だよ」


 一瞬だけ、彼女の指先が止まった。そして再び動き出すと、伊織は穏やかな口調で一言、そうね、と言った。


 シャンプーを洗い流し、トリートメントを塗布している時、顔に掛けられたガーゼが少しだけずれた。伊織は作業に集中していたためその事に気づいていない様子だったが、僕は気が気でなかった。


 息がかかる位の距離に彼女の顔があり、めまいを起こしそうな甘い香りが漂ってきた。作り物のような大きな瞳で自身の指先を見つめ、わずかに開いた薄い唇が艶めいている。僕と伊織は、天地で向かい合うような体制になっていた。


「かゆい所があったら言ってね」


 ものすごく近くで声が聞こえ、空返事をすることしかできなかった。僕はずれたガーゼを伊織に気付かれないようそっと元に戻した。


「本当に、ちゃんと勉強してるの?」


 彼女の声がわずかに低くなった。僕はガーゼを落とさないように頷いた。


「無理に追い込みをかけてはダメよ。ちゃんと休む時は休んでね。夜よりも朝の方が頭もすっきりしているから苦手な科目は朝に勉強するとか、自分に合った勉強法を実践するのがいいと思うわ。それと、試験の前日に脂っこいものは――」


伊織がそこまで言った時、僕はたまらず噴き出した。


「君、僕のお母さんみたいだね」


 伊織は指先を止めて、ばか、と言った。


「心配なのよ。あなたって、しっかりしているようで凡ミスをすることがあるから」

「そんなの、君だって同じじゃないか。君は勉強はできるけど、私生活では凡ミスの雨あられだろう」

「そんなに毎日毎日やらかしていないわよ」

「説得力がないね。君が無駄にした茶葉は今日で何キロになったのかな?」

「――あなた、自分が今どんな体制なのか分かってる?」


 伊織のぎとぎとした手が首に伸びてきたところで、僕は謝罪した。彼女は勝ち誇ったかのように、分かればいいのよ、と言って頭皮マッサージを始めた。久しぶりのやり取りに、彷徨っていた魂があるべき場所に帰還できたような充足感が胸に広がった。


「ちゃんと、私も頑張ってるよ。料理も家事もまだ完璧にはできないけど、歩が作ってくれたリストを見ながら、少しずつだけど生活できるようになってるんだよ」


 以前作った家事のリストを彼女が重宝してくれていることを知り、こんなことなら、もっと凝ったものを提供すればよかったと少し後悔した。


 マッサージが終わり、髪に浸透したトリートメントを洗い流すと、伊織はタオルで僕の頭を包み込んだ。ドライヤーを準備し、真央さんのうなじの件があるのか、彼女は適切な距離感を推し量りながら僕の髪を乾かし始めた。温風で徐々に髪から湿気が蒸発していき、鏡の前の僕の髪型が本来の形に戻っていく。


「ワックスのつけ方はまだ習ってなくて」

「いいよ。普段つけないから」


 僕は自分の髪に触れながら言った。髪の感触は滑らかで、指先が柔らかな繊維の中に埋没しているようだった。


 帰り際、伊織が壁に掛けてあった上着を羽織らせてくれた。


「今日はありがとう。真央さんにもよろしく伝えておいてね」

「うん。寒いから、風邪ひかないようにね」


 君もね、と言ってドアに手を掛けた時、僕は深呼吸して再度伊織に向き直った。


 話したいことは山ほどあったが、それらの言葉をすべて引っ込めて、代わりに浮かんできたある決心を彼女に告げた。


「僕、大学に行くよ」


 それは本心から出た言葉だった。彼女に別れを告げられてからの数週間、大学を目指すことを強要されているという感覚が自分の中にあった。しかし、彼女が悲しみの渦中で懸命に模索しながら自分の活路を見出せたことを知り、僕の進路を妨げる煩わしい感情が払しょくされたような気分になったのだ。


「応援してる。歩なら、きっと大丈夫だよ」


 伊織は今日一番の笑顔で頷いてくれた。彼女がそう言ってくれたら、本当にすべてがうまくいくような気がした。


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