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その傘をはずして  作者: L.Y
24/31

(3)

 伊織から別れを告げられてから、起きている時間のすべてを勉強につぎ込んだ。でもそれは、決して大学に合格したいからという強い信念があったからではなく、現実から目を逸らすための逃げ道に過ぎなかった。


 あの日歩道橋の上で別れてから、伊織とは一度も話していなかった。


 自主学習期間に入り学校に行かなくて良くなったこともあるが、僕は受験のことで度々学校へ足を運んでいた。その時何回か伊織を見かけたことがあったが、すれ違った時も彼女は僕と目が合うと気まずそうに会釈して、そのまま通り過ぎて行った。


 僕がやる気になったことで、小林先生や両親は一安心というところだったが、僕にとって勉強は苦行でしかなかった。ノートにペンを走らせていると、突然心の中に伊織が去来し、度々手が止まった。そんな時はいつも、思い出を手繰り寄せるようにペンを持ったまま放心して、我に返った時泣きたくなるような無力感に襲われた。


******


 一向に減退の陰りすら見せない寒さのまま、二月も半ばを過ぎた。


 その日僕は、一人暮らし用の部屋を探しに不動産屋に来ていた。受験の合否が分かってから部屋を探すと良い物件がなくなっている可能性があるので、合格発表前でも予約できるマンションやアパートを先に抑えておくことにしたのだ。この時期になるとそうやって先手を打つ学生が多いためか、店は大変混み合っていた。


 接客の順番待ちをしていると、数分後に偶然カタクリコが入店してきた。彼女も僕と同じ理由で訪れていたのだ。


「久しぶりだねー」


 彼女はいつもの調子だったが、見た目は以前にも増してあか抜けていた。人工的に加工しているのか髪の毛の下半分がうねうねと波打ち、毛先だけ白く染まっていて、長さも出会った当初より長くなっているように見えた。


「遊び人の見た目に磨きがかかったね」

「当然だよ。大学に行ったら、ゲームサークルに入るんだから」


 彼女は同い年とは思えないような、子供っぽい笑みを浮かべながら言った。久しぶりに彼女と喋ることができて、不思議と心が軽くなった。


 お互いにいくつかの物件を見た後、僕たちは駅の裏の喫茶店に入った。伊織と契約を交わした、あの例の店である。


「私、グァバ茶ー」

「ないよそんなの。ブルーマウンテンで良いね」

「私コーヒー飲めないもん」


 ぶつくさ文句を言う彼女にホットミルクを与え、僕はブルーマウンテンを片手に不動産屋からもらった資料に目を通した。


「いおちゃんと別れたんだってね」


 カタクリコが両手で包み込むようにカップを持ちながら言った。僕は動揺を隠して、まあね、と言った。


「理由を聞いてもいいかな?」


 コト、というカップを置く音が響き、彼女は少しだけ笑みを抑えた表情で僕を見た。


「噂の通りだよ」


 こそこそと流れてきた噂話によると、僕が大学進学したら離れ離れになってしまうので、遠距離恋愛は辛くなるからと互いに納得した形で関係に終止符を打った、ということになっていた。

 一般的見地から考えると、僕は伊織に捨てられてみんなから情けを掛けられるような虚しい人間なのだが、きっと彼女が僕を慮ってそんな噂を流布したのだろう。


「嘘ばっかり」


 カタクリコは絡ませた両手の上に顎を乗せて、面接官が詰問する時のような仕草で訝しんでいた。


「嘘じゃないよ」

「本当に?」

「うん」

「……」

「……」


 にらめっこのような無言の対立が続いたが、途中でカタクリコが噴き出した。


「君ってわかりやすいね」


 カタクリコが含み笑いをしながら言った。そしてホットミルクを一口飲み、長いため息を吐いた。


「君たちが、遠距離になったくらいで別れるなんて思えないよ」


 ちゃんと話して、といつになく親身になった彼女の態度に負け、僕は一連の経緯を説明した。もちろん、僕らの偽の関係のことは伏せている。


「あちゃー。君、やっちゃったねぇ……」


 カタクリコはそう言って頭を抱えた。彼女は僕らの破局を悲しんでくれる数少ない友人である。


「もったいないなぁ。せっかくいいカップルだったのに」

「……」


 僕が相当に落ち込んでいるということを雰囲気で察したカタクリコは、それ以上このことについて言及してこなかった。代わりに毛先を指でくるくると巻きながら話題を変えるように言った。


「この髪、Selで切ったんだよ」


 なんでも、あの結婚式で真央さんとカメラマンをしている際、いつか髪を切りに行くことを約束していたらしい。それで先日行ってきたのだそうだ。


「実はね、そこでびっくりすることがあったんだ」


 カタクリコはごそごとカバンを焦り、折りたたまれた一枚の紙を取り出した。それは普通の人が見たら何の変哲もないチラシだが、僕は目が離せなかった。


 そのチラシに写っているモデルは伊織だった。


 撮影場所はSelの店内で、幹線道路を見渡せるガラス窓を背景にして、伊織の半身が写されていた。

 背中まであった長い黒髪が肩に掛かるくらいまで短くなっており、鎖骨の部分で毛先が緩やかにねじれ、光の関係もあるが髪の色も少し明るくなっていた。


 襟がフリル状で赤土色のブラウスを着用しており、伊織がわずかに顔を傾けてこちらを見ていた。それは何かを訴えかけるようにも見えるし、微かに不貞腐れているような態度にも見えた。笑ってはいなかったが、それは見る人を十分に惹き付けるだけの容貌だった。


「月島くん、見すぎ」


 カタクリコに持っていたチラシを取り上げられ、ようやく我に返った。緊張で強烈な喉の渇きを覚え、ティーカップのブルーマウンテンを全部口に含んだ。


「これが、君のものだったのよ」


 カタクリコがチラシを見ながらしみじみと言った瞬間、僕はブルーマウンテンを噴き出した。紙ナプキンでテーブルを拭き終えた頃、僕はその時になってようやく落ち着きを取り戻した。


「でも、何で伊織がモデルを?」


 カタクリコはじっと僕を見て、さあね、と言った。答えは知っているのに、教えない、とでも言うような言い方だった。


「直接確かめてみたら?」


 カタクリコが促してきたが、乗り気にはなれなかった。そんなことをしても、虚しくなるだけだし、どこか女々しい行動のように思えた。


そんな僕の葛藤を見透かすように彼女が言った。


「いおちゃんはちゃんと頑張っているよ。君はどうなの?」

「僕だって、ちゃんと……」


 伊織と別れた日から、毎日勉強を頑張っている。今日カタクリコと会うまで、家族や担任以外の誰とも会話はしていない。


 しかしカタクリコは僕が言い終える前に、違うよ、と言った。


「いおちゃんと君とでは気持ちの方向が全然違う」


 彼女の表情から一切の笑みが消えていた。いつもへらへらとしているので、そのギャップに先生に叱られているような感覚になる。僕は押し黙ることしかできなかった。


 僕のカップに何も入っていないことを確認したカタクリコは、店主にお代わりを求めた。すぐに口ひげを蓄えた店主が、熱々のブルーマウンテンを注いでくれた。カップの黒い揺らめきの中で、憔悴した僕の顔がゆらゆらと揺れていた。


 カタクリコと別れた後、そのままSelに向かった。チラシの内容も気になったが、それ以前に真央さんには僕らの関係の終了を報告すべきだと思った。


 伊織と破局してから真央さんには一度も会っていない。結婚式の費用を補てんしてもらい、皆の前で伊織を幸せにすると宣誓した挙句、彼女と離れることになってしまったのでとても後ろめたかった。


 お店はちょうど客が入っていない時間帯で、店内には真央さんしかいなかった。真央さんはカウンターに座り、パソコンをいじっていた。


「あら、歩くん。ひさしぶり」


 予想に反して、真央さんは愛想良く出迎えてくれた。奥のソファに通され、肩身の狭い思いをしながら腰を下ろした。間もなくして、ティーカップを持って真央さんが隣に腰掛けた。白磁器のポットから注がれたのはハーブティで、湯気とともに花のような香りが立ち込めてきた。


「どうぞ」


 恐縮しながらカップに口をつけた。癖のない味の後に仄かにレモンの風味が広がり、蒸らす段階で入れた蜂蜜の甘みが体を温めてくれた。


「今日はどうしたの?」


 真央さんは肩肘をついて、挑戦的な目で僕を見ていた。まるで試されているような気分だった。


「……伊織から聞いてますよね」


 真央さんは不敵な笑みを浮かべながら無言で頷いた。


「まさか、あなた達がねぇ……」


 他人事のように言って、真央さんはハーブティを飲んだ。同時に電話が鳴っていたが、それを取る気配もなかった。

 僕は素直に謝罪した。結婚式のお金も、バイトでもなんでもして返すことを宣言すると、真央さんは頭を振った。


「いいのよ。私が好きで出したんだし」

「でも、あんな大金……」


 もともとは僕が言い出したことなので、全ての責任は自分にあると考えていた。しかし真央さんはかたくなに受け入れず、カップを持ったまま面白がるように僕を見ていた。


「あなたって、やっぱり変わっているよね」

「はあ……」


 その間も電話は鳴りやまなかった。真央さんは一切取る気配はなく、気まずい時間が流れた。

 ふと目を泳がせていた時、店の壁にあのチラシが貼ってあることに気づいた。僕の視線で気づいたのか、真央さんはチラシを見て、よくできているでしょう、と言った。


「あの、何で伊織が?」


 真央さんは逡巡後、カウンターの中からチラシを一枚取ってテーブルに置いた。


「伊織ね、今うちでアシスタントをしているのよ」


 なるほど、と思ったし、それはよく考えれば容易に行きつく答えでもあった。


 伊織は雇ってもらう代わりに、真央さんの言うことを何でも聞くという条件付きで研修をさせてもらっているそうだ。免許はないので当然施術はできず、あくまでも受付や掃除、道具や薬剤の在庫管理みたいな雑用業務が中心なのだという。


 さらに彼女は春から通信制の美容専門学校に入学することも決まっていて、カットの知識の他にもネイルや着付けの勉強もしているらしい。入学期間は三年間で、二月と八月にある国家試験を通ったら、晴れて美容師になることができるそうだ。


 ちなみにさっきから鳴っている電話は、自宅で自主学習をしている伊織からで、彼女の仕事が休みの日はこんな風に何回も掛けてくるのだという。


「試しに私の髪でシャンプーさせたら、お湯の温度は間違えるわ、マッサージする時に爪を立てるわ、おまけにこれよ」


 ほら、と言って真央さんが後ろ髪を上げると、うなじの部分が少し赤みを帯びていた。髪を乾かす時、伊織がドライヤーの熱風を近くで当てすぎて火傷したのだ。


 それから真央さんは、仕事中に伊織が起こした失敗談を面白可笑しく話してくれた。

 予約の客をダブルブッキングしてしまったことや、茶葉を入れるガラスポットに直接火をかけようとしたこと。薬剤の発注ミスで通常の三倍の量が納品されたり、真央さんが大事にしていた花瓶を割ってしまったこと――。


 そんな真央さんの話に相槌を打ちながらも、僕は半分以上内容を聞いていなかった。


 本当はいつも心配していた。一人寂しく泣いていないかと、僕自身が眠れない夜もあった。そんな自分の気持ちから目を逸らすように、勉強を続けていた。はかどることは一度もなく、常にどこかで伊織のことを意識していた。


 いつの間にか真央さんは、話をやめて首を傾げながら僕の様子を伺っていた。


「髪がちょっと長いわね」


 指摘されて鏡を見ると、確かに僕の髪は伸びていた。言われてみると初めてこの場所に来て以来、一度も髪を切っていなかった。すると真央さんはカウンターに移動し、パソコンでしばらく何かを見た後再び戻ってきた。


「三日後の正午、またここに来て。切ってあげるから」

「でも……」


 伊織がなんと言うだろう。僕が黙り込んでいると、真央さんが心配しないで、と言った。


「私が無理やり呼んだってことにするから。あの子、私に絶対逆らえないし」


 その強気な発言から、彼女に課せられた「何でも言うことを聞く」という条件は、どうやら仕事だけに関した制約ではないらしかった。


「私に謝罪する気持ちがあるなら、これでチャラよ。どうする?」

「……真央さんって、狡猾な女性だったんですね」


 すると真央さんは、口角を上げて、今頃気づいたの?、と言った。伊織の性格が捻じ曲がった一端は、どうやら真央さんの影響もあるようだ。


「ちゃんと、準備してきてね」


 帰り際、真央さんがドアの前で見送ってくれた時、そんなことを言われた。僕は何を? とは聞かなかった。


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