(2)
僕の高校では三年生は一月だけ登校し、二月は自主学習期間となっていた。
補習や進路のことで学校に用事がある人は例外だが、クラスメイトが教室で顔を合わせるのは、あと一週間ほどしかなかった。
僕はその日も小林先生に呼び出されていた。それをいつものようにいなして職員室を出ると、何故かそこに伊織が立っていた。
「どうしてここに?」
伊織は質問に答えなかった。眉根を寄せていることから、少し怒っているようだ。伊織が何も言わずに歩き始めたので、僕は半歩下がって彼女の後を歩いた。
帰り道、僕らは普段通らない道を歩いた。僕がそうさせたのではなく、伊織の足並みに揃えて歩いていると自然とそうなったのである。
見たことのない駄菓子屋。ひしめき合った住宅街の小路。古すぎて営業しているのか分からない理容室。建設途中のマンション。伊織は気の向くままに進路を変えて歩いていた。
やがてビルとビルの隙間を抜けると、駅前の歩道橋の入り口に出た。彼女の気まぐれの遠回りはこれで終了だった。
階段を上り、向かい側の道路へと渡る通路の中腹で、伊織は突然立ち止まった。そして思いつめたようにこちらを見て、静かに僕の名前を呼んだ。
「私たち、もう終わりにしましょう」
予期せぬ言葉に、僕は声を詰まらせた。僕が、どうして、と言うと彼女は少し迷ってから答えた。
「大学に行かないつもりなんでしょう?」
「……何でそれを?」
かろうじて絞り出た声で、そう聞き返した。
「小林先生から相談されたのよ」
彼女が微かに憤りながら言った。校内では生徒だけでなく、教師陣までも僕らの交際を把握しているためそれはあり得ることだった。
「あんなに頑張っていたのに、なんで?」
伊織の目つきがさらに鋭くなった。冗談など言っても通用しないような、攻撃的な雰囲気が体から放出されていた。
センター試験が終わって九日後、国立出願が始まった。進学希望の生徒たちは、センター試験の成績と見比べ、志望大学に出願したり、自分の学力と照らし合わせた大学の選定を行っていた。進路指導室には連日多くの生徒が訪れていたが、僕は一度も相談したことはなかった。それで担任に呼び出されたのだ。
「思うように点数が取れなくてさ。迷っているだけだよ」
「あと三日しかないのよ? 迷っている場合じゃないでしょう」
三日とは出願期限のことである。もうすでに、国立出願が開始されて六日が経っている。今日呼び出されたのは最後のダメ押しだったのだ。僕が黙っていると、伊織が一歩近づいて責めるような目つきをした。
「ほら、戻るわよ」
伊織は僕の腕を掴んで、学校の方へと踵を返した。しかし階段を降りようとするところで、僕はその手を振りほどいた。彼女は眉一つ動かさなかった。
「……もう、いいんだよ」
僕は言い訳をする子供のように目を伏せ、大学には行かない、と声を抑えて言った。
「ご両親には話したの?」
僕は返事の代わりに目をそらした。担任から両親にも連絡が行っていたため、自宅でも連日のように進路のことについて言われていたが、もともと両親とは時間が合わず、何とかはぐらかし続けていたのだ。伊織はため息を吐き、やっぱり、と悲しそうに言った。
「――私のことなんでしょう」
僕は生唾をごくりと飲み込んだ。胸が競り上がる思いでかろうじて否定したが、通用している風には見えなかった。
「何で……何でよ……」
伊織は頭を抱えながら、自問自答するように言った。取り乱しているようだったので、僕は理由を話した。
「確かに君のせいだよ。君が僕をこんな風にさせたんだ」
「私のせいですって?」
そうだよ、と僕は言った。
「……僕はずっと、この町から逃げ出したかった。誰も自分のことを知らない町で、一からやり直したかったんだ」
遠方の大学を選んだのはそのせいだ。この町には友達もいないし、何の未練もなかった。――でも、今は違う。
「君がひっかきまわしてくれたせいで、僕は今、人並みに充実した毎日を送っている。だからもう、逃げる必要がなくなったんだ」
伊織と出会ってから、以前よりも人と話すことが多くなった。彼女には振り回されることもあったが、日々の中で僕の濁った心が彼女の強さに感化され、毎日に少しずつ彩りが生まれるようになった。幸せな日々が続き、毎日が満たされていた。初めて、明日が来るのが楽しみだと思った。
「僕は君に救われたんだ。もう、この町から逃げなくて良くなったんだよ」
「――それで、大学に行かないっていうの?」
「行くか行かないかは僕の自由だから、君にとやかく言われる筋合いはないよ」
それはひどい言葉だったが、彼女は全く動じなかった。まるで僕の心の奥底が見透かされているような気分だった。
「そんなに怒らないで、もっとシンプルに考えようよ。大学は来年でもいいんだし。今年はダメでも、この一年間でゆっくり……」
その時彼女は一気に間合いを詰めて、僕の胸倉を掴んだ。
「ふざけんな!」
伊織がまくし立てるように言った。彼女がそんな汚い言葉を使ったのは初めてで、あまりの迫力に萎縮してしまった。
「同情しているだけなんでしょう? 私を残してこの町を離れるのが心配だって、正直に言いなさいよ!」
核心を突かれ、ぐうの音も出なかった。怒りが収まらないのか、伊織は顔を真っ赤にして、殺気立った瞳で僕の視線を捕まえ続けていた。
「そんな風に同情されて、私が喜ぶとでも思ったの? 馬鹿にしないでよ!」
そう言って伊織は僕を離した。よろけそうになりながら欄干で体を支え、伊織を見返すと、彼女はまだ興奮気味で、なびく髪を邪険に振り払った。
「大学に行くの、あんなに楽しみにしていたじゃない。今が充実しているからって、それくらいで進学をやめるなんて普通考えられないわよ!」
今日の伊織はやけに冴えていた。確かにこの町から逃げる必要がなくなってからも、僕は大学に行くことを一切疑っていなかった。その為に毎日勉強したし、進路指導室にも足しげく通った。一人暮らしをすることも楽しみだったし、大学の学食や、サークルも入ってみたいと思った。授業のカリキュラムだってこの町の大学では受講できない内容である。
「どんな心境の変化があったにせよ、あなたをそこまで悩ませていたのは私よ。私はもう少しで、あなたの可能性を摘み取ってしまうところだった」
「そんなことはない。これは僕が望んだ未来だ」
「でも、もしもおばあちゃんが今も元気だったら同じ答えが出た?」
鋭い指摘に、答えに窮した。周りがどんなにすごしやすくなったとはいえ、きっと僕は大学進学を目指していたからだ。
落ち着きを取り戻した彼女が、伏し目がちの視線で歩道の欄干に身をもたれ掛けた。
「私もおばあちゃんも、あなたの足枷になることなんか望んでいないわ」
「足枷だなんて……。僕はただ……」
伊織から少し離れて、僕も欄干にひじを置いてもたれかかった。眼下を多くの車が行き交い、道の向こうまで車の列が途切れることはなかった。
「正直、君のことが心配だっていう理由もある。でも、この町から逃げなくてよくなったのも事実なんだ。ただ……それ以上に怖かったのかもしれない。またからっぽになってしまうのが」
伊織は知性の宿った瞳で、何も言わずにこちらを見た。彼女の吐息が白く煙り、やがて消えた。
「この町を出て、君と出会う前のようにまた空っぽになるのが怖いんだ。せっかく満たされてきたのに、それがゼロになってしまうのがどうしようもなく怖いんだよ……」
どんな綺麗ごとを組み立てたところで、僕の大学進学辞退の根本的な理由はそこに帰結するのかもしれない。一度手に入れた大切なものを再び手放すのが怖いから、周りのせいにしたり自分に都合のいいように言い聞かせ、答えを出していたのだ。
「――ゼロになんかならないよ」
伊織はいつの間にか柔らかな笑みを浮かべていた。そこにどこかおばあちゃんの面影を感じた。
「出会ったばかりの歩は、自分から周りを拒絶しているようだった。人の機嫌を見たり、私の目を見て話してくれなかったり、高校生活を諦めて、ただ未開の地へ逃げることだけしか考えていなかった。自分の人生と向き合おうとしていなかったわよね」
伊織は遠い記憶を探り出すかのように、目を細めながら幹線道路の先を見つめていた。
「でも、あなたは変わった。少しずつだけど周りを受け入れて、自分をさらけ出すようになった。あなたの意見に何度も感銘を受けた。あなたの優しさに何度も救われた。あなたが強いことに、私もおばあちゃんも、真央さんやあなたの友達だって気付き始めた。誰もあなたのことを卑下しなくなった。それは私のおかげじゃない。あなたが自分で切り開いて、自分で手に入れた未来なのよ。あなたが手に入れた強い絆や経験は、この町を離れたくらいでなくなったりしない。あなたはからっぽになんかならない」
そして伊織は持たれかけた体を直立させ、僕の正面に立った。僕もつられて前に直ると、彼女は顔をほころばせた。
「今まで、ありがとうございました!」
伊織は、自分のお腹が見えるくらいに頭を下げながら言った。
「私も、誰にも心配されないような未来を自分で手に入れる。だからお互い、別々の道に進みましょう」
「別々の道って、そんな、」
全部言い切る前に、彼女は首を横に振って僕の言葉を制した。
「あなたがいると、私はこれからも絶対にあなたを頼ってしまう。あなたはそんな私を放っておけずに、また助けてくれる。それじゃダメなのよ」
「……それが友達じゃないか」
「大切な友達だからこそ、どこかでちゃんと線引きしておかないといけないの」
線引きという言葉が、僕らの関係を断ち切るという意味に聞こえて、彼女が言っていることを認めたくなかった。でも心のどこかで、彼女の言っていることには彼女なりのちゃんとした筋が通っているように思った。
だから何も言い返すことができなかった。わざわざ遠回りして帰ったのも、彼女なりにきちんと僕に納得してもらえるように意見を整理していたからなのかもしれない。
僕が下を向いて黙っていると、伊織は三歩前に踏み出してスカートを翻し、振り向いた。夕暮れの光に包まれながら彼女は笑っていた。
「最後までわがままばかり言ってごめんね。歩と過ごした半年間、すごく楽しかったよ」
――バイバイ。
そう言って手を振ると、彼女は歩き始めた。その場に立ち尽くしたまま、僕はただ彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。その姿が見えなくなるまで、彼女が振り向いてくれることはなかった。




