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その傘をはずして  作者: L.Y
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終章 (1)

 町の小さな葬儀場でおばあちゃんの葬式は行われた。会場にはおばあちゃんを慕う人たちや、高校の先生、伊織のクラスメイト、施設でお世話になった職員など多くの弔問客が訪れていた。

 僕が一番驚いたのは、葬式に井坂が駆けつけてくれたことだった。


「ちゃんと、間に合ったか?」


 僕が頷くと井坂は一言、そうか、と言って控え室へと移動していった。


 僕は常に伊織のことを気にかけていたが、その心配をよそに、彼女は毅然とした態度ですべての工程をこなしていた。葬儀後の会食でも弔問客一人一人に挨拶をし、酒を飲んでいる者にはお酌をしていた。唯一の親族を亡くして一番辛いはずなのに、無理して笑顔を作ろうとしているその健気な姿を見て、多くの人が目元を拭っていた。


「今日伊織の家に泊ってくれない?」


 葬儀場で別れる時、真央さんにそう言われた。真央さんはこのまま職場に直行するそうで、今日は遅くまで帰って来られないらしい。伊織が一人きりになった時、悲しみに打ちひしがれて万が一、ということもありうるので、僕はその提案を了承した。


 すべての工程が終わり、僕らが帰宅したのは夕方だった。仏壇に遺骨が置かれ、その隣におばあちゃんの遺影が立てかけられた。伊織は仏壇の前に座り、無表情でその遺影を見つめていた。居間はしんと静まり返っており、耳を澄ますと今もおばあちゃんがお茶をすする音が聞こえてくるような気がした。


「お腹、空かない?」


 気を取り直すように伊織が言った。言われてみると確かに少し空腹感があった。


「僕が作るよ。君は休んでいて」


 僕が立ち上がろうとすると、伊織は首を振って、いいの、と言った。


「これからは、自分の事は自分でやらないとね」


 再び遺影を見て、伊織は写真の中のおばあちゃんと話すように言った。


 居間で待機するよう言われたので、僕はおとなしく待っていることにした。彼女は忙しない様子で台所を動き回っており、何度も手伝おうとしたがその度に断られた。


 全ての準備が整った時は、二時間が経過していた。彼女は慣れない手つきで作った料理を机に並べ始めた。運ばれてきたのは味噌汁とごはんと、それに――。


「これ、君が作ったの?」

「うん。練習して、やっとできるようになったんだよ」


 伊織が湯気の立つ茄子のはさみ揚げをテーブルに置きながら言った。ひき肉がちゃんと茄子で綺麗に挟まれており、崩れているものは一つもなかった。彼女はその中から一つを小皿に載せて遺影のそばに置いた。


 実際、茄子のはさみ揚げはとてもうまくできていた。揚げ加減が絶妙で、タレの調合も程よく甘辛く、噛んだ瞬間に肉汁が溢れ出て来た。相変わらず食感には慣れなかったが、伊織が作ったものは僕が作ったものより断然おいしかった。


 僕が正直な感想を言うと、伊織は照れくさそうに笑って静かに箸を進めた。


 黙々と食べていると突然、伊織が持っていた味噌汁の茶碗を落とした。テーブルの上に中身がぶちまけられ、縁からぽたぽたと畳に汁が零れ落ちた。僕が急いで台所から雑巾を持ってくると、伊織がテーブルに突っ伏して泣いていた。


「……この味噌汁ね、おばあちゃんと歩が作った味噌を使ったの」


 それは夏におばあちゃんと一緒に作り、五か月ほど熟成させた手前味噌だった。言われて気が付いたが、確かに味噌汁に関しては、少し塩辛く、味噌の風味とは別に酒粕のような香りがした。


「……歩も、楽しみにしていたもんね。でも、間に合わなかったね……」


 伊織は嗚咽しながら溢れ出てくる涙を、味噌汁にまみれた手で何度も拭っていた。僕はただ目の前で泣いている彼女を呆然と見ながら、零れた味噌汁を片付けた。


 その夜、僕は来客用の布団を居間に敷いて床についた。

 ストーブを消した部屋は微かに熱気が残っていたが、たまに吹いてくる隙間風がそれを徐々にかき消していった。電気を消したばかりの部屋は、家具の輪郭が分からないくらい黒く塗りつぶされており、天井を見ていると闇に吸い込まれていくようだった。僕は迫ってくる暗闇から逃げるように、布団にもぐりこんだ。


 ――夜中。布団の中に誰かが入ってくる気配を感じ、目が覚めた。

 朦朧とする意識の中で体を硬直させながら、僕は今起こっていることを冷静に把握しようとした。


「――起きてる?」


 寝返りを打った僕の背後で、伊織の声が聞こえた。返事に迷ったが僕は何も言わずに狸寝入りを続けた。


「ごめんね。さっき、あんなに取り乱しちゃって。……私、全然ダメだよね」


 それは僕に問いかけるというより、自分に言い聞かせているような話し方だった。


「子供の頃、落ち込んだ時はよくこうやっておばあちゃんの布団に逃げ込んだの。どんなに夜中でもおばあちゃんは私が来ると必ず起きて、毛布と布団を掛けてくれたわ」


 途中から伊織の声が鼻声になった。布団を顔に押し付けて、すすり泣いているのを隠しているのか、鼻をすする音が籠って聞こえた。


「寝付けなかった時は、ずっと頭を撫でてくれたの。おばあちゃんの手が触れていると、何故かとても安心できて……」


 背後で微かな吐息と、衣擦れの音がした。想像でしかないが、彼女は今涙を拭ったのかもしれない。


「それもできなくなるって思うと、なんだか急に怖くなって。……ばかよね。もういい大人なのに」


 でも、と言って伊織は言葉を切った。そしてゆっくりと熱気が僕の背中に近づき、耳元で彼女の微かな息遣いが聞こえた。


「今日だけ、そばで眠らせて。……おねがい」


 そう言って伊織は、僕の背中にそっと頭をもたれ掛かけてきた。彼女はそれっきり、何もしゃべらなかった。


 さっきまで朦朧としていた意識は鮮明になり、心音が加速していた。緊張したまま僕が体制を崩さずにいると、しばらくして伊織の寝息が聞こえてきた。


 彼女はどんな夢を見ているのだろう。今、どんな表情で眠っているのだろう。まだ、泣いているのだろうか。僕には振り返って彼女のことを抱きしめることができなかった。


******


 センター試験の手ごたえはあまりよくなかった。週明けに行われた自己採点会でも志望する大学のボーダーラインはかろうじて超えていたが安心できるような点数ではなく、二次試験まで油断はできなかった。


 センター試験の後も僕は伊織と度々時間を共にした。喪中につき初詣に行けない代わりに甘いものを食べに行ったり、庭の草むしりを手伝ったり、結婚式の写真をアルバムに入れたりした。彼女は相変わらず不器用ではあったが、当初に比べると格段に家事の手際が良くなっていることも事実だった。


 彼女と会わない日、ベッドの上で横になっていると、最近頭の中で顔をのぞかせているある迷いについて考えた。それは僕が今まで行ってきた日々の努力や思いを根底から覆す問題で、うかつに口に出したら周りから糾弾されることは間違いなかった。


 ある日、教室で帰り支度を整えていると校内放送で呼び出された。職員室に行くと、小林先生が怪訝な表情を浮かべて待っており、そのまま別室に案内された。呼ばれた理由は想像していた通りのもので、話を進めていくうちに小林先生の語気は強くなった。僕はただ平謝りをして、逃げるように職員室を出た。

 

 下駄箱に行くと、昇降口の前で伊織が待っていた。


「何か悪さでもしたの?」


 開口一番にそう聞かれたので、大したことはない、と返答した。


 それからいつもの道をいつもの速度で歩いた。前を走っていた三歳くらいの女の子が手袋を落とし、それを伊織が拾ってあげた。

 女の子は真っ赤になった鼻を指で触り、伊織に弾けんばかりの笑顔を向けた。伊織が、車に気を付けてね、と言うと女の子は前歯のない歯を見せて、肩を揺らしながら駆けて行った。


 伊織は女の子が道の角を曲がるまで、その小さな後ろ姿をずっと見ていた。

 光と影がない交ぜになったその大人びた横顔から、彼女が今何を思っているのかが分かったような気がした。次第に外は、おばあちゃんが旅立った時と同じように雪がちらつき始めていた。


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