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その傘をはずして  作者: L.Y
21/31

(10)

 式から一週間が過ぎ、年末が差し迫ってきた頃からおばあちゃんの身体はさらに弱っていった。最初は僕らが訪問するたびに談話する余裕があったのが、徐々起き上がることもままならなくなり、時間の流れに比例してベッドで眠る時間が増えていった。


 僕も伊織も可能な限り会いに行ったが、部屋に訪問してもおばあちゃんは眠っていることが多く、そんな時は近くの喫茶店で伊織に勉強を見てもらったり、そのまま帰ることもあった。


 ある時、僕らは結婚式で撮影した写真をコンビニでプリントアウトし、施設に持って行くことにした。


 施設の近くのバス停に着いた時、施設の方向から一台の救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら国道を走り抜けていった。嫌な胸騒ぎがしたその直後、施設の職員からたった今おばあちゃんが強い胸の痛みを訴えて、病院に搬送されたとの連絡があった。


 一時間遅れで真央さんも到着したが、治療が終わるまでの間、誰も口を開かなかった。夜八時を過ぎた頃に女性看護師がやってきて、おばあちゃんが再入院しなければならなくなったことを告げられた。


 再入院をしてから、おばあちゃんの衰えは目立つようになった。自発的な呼吸が困難になり、酸素マスクをつけていたこともあったせいか口数はさらに少なくなった。


 最近は施設にいた時よりもさらに食欲が減退していて、点滴のされた腕はひどく痩せ細り、胸の周りも鎖骨の形がくっきりと浮かび上がるほど薄くなっていた。過ぎていく時間がおばあちゃんから、栄養だけでなく何かに対する意欲までもそぎ落としているようだった。


 それでも伊織は献身的におばあちゃんを元気づけようとしていた。話しかけ、例え反応がなくても笑みを絶やさず、おばあちゃんの手を何度も擦っていた。


 クリスマスが終わり、冬休みが始まったばかりのある日。僕だけが病院に遅れていったことがあった。


 病室に入るとベッドの周りを囲んだカーテンの向こうに、椅子に座っている伊織のシルエットが見えた。

 声を掛けようとした時、カーテンの隙間から微かに嗚咽が聞こえた。そっと中を伺うと、伊織がおばあちゃんの手を両手で握りしめながら泣いていた。


 施設に入ってからも入院してからも、伊織がおばあちゃんのそばでこんな風に泣くことはなかった。おばあちゃんが心配するといけないからと、彼女は叫びたい気持ちを我慢していつも明るく振舞っていた。


 声が届かなくても、おばあちゃんが再び話しかけてこなくても、伊織はおばあちゃんの回復を信じて、ずっとひた向きにおばあちゃんに寄り添っていたのだ。僕はそっとカーテンを閉め、そのまま家に帰った。


******


 年が明けて三が日も終わり、僕は久しぶりに家族で外食に来ていた。

 両親の仕事に対するぼやきを聞きながら箸を進めていると、突然ポケットの中の携帯電話が振動した。通話ボタンを押すと、慌てた様子で伊織が通話口に出た。


『歩、おばあちゃんが……』


 彼女がすべて話し終わる前に、僕は店を飛び出した。ついさっき、病院からおばあちゃんが危篤状態になったとの連絡があったらしい。


 店の外に出ると、刺すような冷気が町を包んでいた。暗がりでも息の白さははっきりとしていて、冷たい空気が目に染みて涙が出た。

 近くにバス停も駅もなかったため、何も考えずに走った。病院まで走ってどれくらいかかるのかも、そもそも病院まで体力が持つのかも分からなかった。


 路地を走っていると、二人乗りの自転車とすれ違った。一瞬のことだったが、それは井坂と尊で、僕らは同時に立ち止まって振り返った。


「あれ、歩か?」


 荷台に乗っていた尊が降りて僕に近づいてきた。急いでいたのでそのままあしらおうとしたが、二人には結婚式の際に手伝ってもらっていたので簡潔に事情を話した。すると運転していた井坂が、ぶっきらぼうに後ろを指差した。


「乗れよ」

「え、でも……」

「悩んでる暇あるのかよ」


 彼は自転車をUターンさせて僕の近くで停車した。有無を言わせない物言いに、僕は目の乾燥とは違う種類の涙が出そうになるのを堪えながら荷台に腰掛けた。


「ちょっと行ってくるわ」


 尊は僕らを見比べて、いいけど、と言った。


「お前ら、いつからそんなに仲良くなったんだよ」


 彼の質問に、僕と井坂は互いに顔を背けた。


 後ろから病院の方向を指示すると、井坂はできるだけ人目につかない路地を走った。自転車の二人乗りは法令で禁止されており、この進路の大事な時に補導されたらたまらないからである。


 井坂は、山の上から猛スピードで駆け下りた時と同じくらいのスピードで飛ばしてくれた。今まで体感したことのない速度で夜の景色が通り過ぎて行き、冷たい風を全身に受けて耳がじんじんと痛んだ。


 その乱暴な運転が功を奏したのか、僕が想像していた時間よりもうんと早く病院周辺の景色が見えてきた。あと五分もすれば着く。そう思っていた時、頬に水滴のようなものが当たった。顔を上げると、濃密な夜空に白く光る巨大な満月の下で、雪がちらついていた。


 そして次の瞬間、僕が見ていた世界はブレーキの甲高い音と共に、突如ぐるりと反転した。路面が凍結していたようで、カーブを曲がりきれず僕と井坂はアスファルトに投げ出された。電柱のそばには衝撃でかごがひしゃげた自転車が倒れており、僕らはアスファルトに大の字になっていた。


 すぐに状況を理解し体を起こすと、左腕と肩甲骨に鈍い痛みが走った。カーブの時に減速していたことと厚着をしていたこともあり、大したことはなさそうだった。


「大丈夫?」


 倒れている井坂の元へ駆け寄ると、彼は頷いてゆっくりと身を起こした。


「悪い、転んじまって」


 僕は井坂を起こそうとしたが、彼は道端に座ったまま動こうとしなかった。そしてぶっきらぼうに、行けよ、と言った。


「もう、すぐそこだろう。早く行け」

「でも、君も怪我してるかもしれないし、一緒に――」


 そこまで言った時、井坂がよろよろと立ち上がった。


「いいから行けよ!」


 井坂は右腕を押さえながら僕の背中を押した。彼は僕の助けなんかいらないという、強い意志のある目をしていた。


 僕は頷いて病院へと走った。しかしすぐに立ち止まり、彼に振り返った。


「井坂くん。ありがとう」


 僕が言うと、井坂は返事をせずに、お決まりの舌打ちをして恥ずかしそうに口元を緩めた。


 看護師に教えてもらった部屋に着いた時、ちょうど部屋の前で伊織が主治医に頭を下げているところだった。


「傷だらけじゃない! どうしたの?」


 僕の着ていた上着はアスファルトでこすられたせいか、中の綿が露出していた。今まで打撲の痛みしか感じていなかったが、よく見ると手の甲と左頬を擦りむいていた。


 ややこしいので僕は事情を端折り、おばあちゃんの容体を聞いた。医療機器の関係や医師の出入りを考慮して、おばあちゃんの部屋は個室に変わっていた。病室の中には多くの機材が設置されており、その機材に囲まれておばあちゃんは眠っていた。


「お医者さんも、手は尽くしたって」


 伊織はそう言って、椅子を用意してくれた。僕は促されて隣に腰掛けた。


「真央さんは?」

「美容関係の講習会に参加していたんだけど、急いでこっちに向かっているって」

「そう」


 それっきり僕らは口を開かなかった。沈黙の合間を生めるように、心電計の音が一定のリズムで鳴っていた。


しばらくして、さっきね、と伊織が言った。


「おばあちゃんにいろいろ話してたんだ」


 そう言って伊織は痩せたおばあちゃんの手を握り、ぽつりぽつりと話し始めた。


「子供の頃野良犬に追いかけまわされた時、おばあちゃんが竹ぼうきを持って応戦してくれたこととか、友達の自転車の後ろにソリを付けて走っていたら、坂道でひっくり返って大けがして、すごく痛かったのに夜中まで怒られたこととか、おばあちゃんの誕生日に鳥の丸焼きをプレゼントしようとして、近くの山で遭難したこととか」

「……本当に、話題に事欠かない人生だね」


 それから伊織は、数々の思い出話を聞かせてくれた。


 おばあちゃんが縁側で育てていた黄金花月に水をやりすぎて根腐れさせてしまったり、真央さんのはさみ使いに憧れて、夜中に工作用のはさみでおばあちゃんの頭をざんばら髪にしたり、おばあちゃんの友人からもらったインコを、もらったその日に逃がしてしまったり、公園に捨ててあったバトミントンのラケットで石を打ったら、その石が思いのほかよく飛んで、近所にあった校長先生の家の窓ガラスを割ってしまったりと、次から次に彼女の悪行は披露されていった。


「いつもいたずらばっかりして怒られていたの。でもね、私は一度だっておばあちゃんのことを嫌いになったことはないの。どんなに怒っていても、私が不貞腐れて家を飛び出しても、最後には必ず笑って許してくれたから」


 そこまで言って伊織は少し前かがみになり、おばあちゃんの耳元に顔を近づけた。


「おばあちゃん。今まで迷惑ばかりかけてごめんね。今までもこれからも、ずっとずっと大好きだよ」


 堪え切れなくなったのか、伊織は泣きながら何度も、ごめんねとありがとうを繰り返していた。


「……僕も話していいかな」


 伊織は泣き顔のまま頷いて、少し椅子をずらした。そしてゆっくりとおばあちゃんから手を放し、入れ替わりに僕がおばあちゃんの手を握った。


「今までおばあちゃんにはたくさんのことを教わりました。伊織と喧嘩をした時、味噌を作りながら、僕のことを勇気づけてくれましたよね……」


 言葉は次々と溢れ出た。おばあちゃんと出会って半年余りしか経っていないのに、それは今まで僕がぼんやりとその日暮らしをして積み重ねてきた十数年よりも価値のある日々だった。


 そんな充実した毎日の中で、僕らはおばあちゃんに嘘をつき続けていた。そのことをどうしても言っておきたかった。


「おばあちゃん。実は僕たち、恋人同士ではないんです」


 そこまで言って、僕は伊織を見た。伊織はその先の発言に同意するように頷いた。


 それから僕は、何故おばあちゃんの前で偽りの恋人関係を演じ続けたのかを説明した。自分で話していて、改めて僕らはなんて滑稽なことをしていたのだろうと恥ずかしくなった。


「最初は伊織さんの提案だったけど、了承したのは僕です。今まで騙していてごめんなさい」

「私も、ごめんなさい」


 僕らは二人でおばあちゃんに頭を下げた。


 すると次の瞬間、言葉に反応するかのようにおばあちゃんの手が微かに動いた。僕はすかさず伊織の手を取り、おばあちゃんの手を握らせた。


「おばあちゃん!」


 伊織が耳元で呼びかけると、微弱な反応ではあるが、おばあちゃんは呼びかけに答えるように指先を動かした。


「歩も、早く!」


 僕はおばあちゃんの手を握っている伊織の手を両手で包み込んだ。

 何度もおばあちゃんに呼びかけた。その度におばあちゃんは、神経をとがらせないと分からないくらいの反応で指先を動かしてくれた。


「おばあちゃん、今までありがとう。大好きだよ。ずっと、大好きだよ」


 伊織の涙が僕の手の甲に落ちた。


「おばあちゃんが優しくしてくれたこと、絶対忘れません。本当にありがとうございました」


 いつの間にか僕も泣いていた。今まで生きてきて、誰かのために泣いたのは初めてだった。


 その時、酸素マスクの呼吸音の隙間から、微かに掠れた声が聞こえてきた。僕と伊織は顔を見合わせ、おばあちゃんの口元に全神経を集中した。

 

 おばあちゃんは薄く目を開いてこちらを見ていた。僕らはそのままおばあちゃんの言葉を待った。


「……し……せ……だっ……よ」


 それだけ言った後おばあちゃんはゆっくり目を細め、閉じるまぶたに押し出されるように涙が一粒零れ落ちた。それきり、おばあちゃんが目を覚ますことはなかった。


 数時間後。伊織と僕と、遅れて駆け付けた真央さんに見守られながら、おばあちゃんは静かに息を引き取った。


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