(7)
数日後、おばあちゃんは以前から資料をそろえていた施設へ入所することになった。
施設には温泉や入所者同士で触れ合うためのサロン、舞台鑑賞や趣味を公開できるステージなどがあり、建物の裏にはゲートボールができる芝生広場があった。運動療法機器も充実しており、職員も二十四時間体制で、理学療法士によるリハビリテーションや、管理栄養士による食事の栄養管理も徹底されていた。
おばあちゃんや真央さんの安心した顔をみたせいか、伊織は以前のように学校を休むこともなくなった。休み時間になると彼女は遅れた分の学力を取り戻すため、カタクリコや秀才な友人によく勉強を教えてもらっていた。
「あ、月島くーん」
教室の入り口で伊織の様子を覗き見していると、カタクリコが手を上げた。早々と立ち去ろうとしたが伊織に呼び止められた。
「歩もおいでよ」
そう言われて彼女の教室に入った。しばらくからかわれた後、伊織にせっかくだから一緒に勉強していきなさいと言われた。女性ばかりの輪の中に男性が入ると変に気を使わせてしまいかねないと判断した僕は、その誘いを丁重に断った。
「あなたは空気みたいなものだから、そんなこと気にしなくていいのよ」
「空気ならいてもいなくても同じじゃないか」
「ここでその薄汚れた空気を浄化していきなさい」
「汚染物質は君だけどね」
「……歩くん。ちょっと口が悪いんじゃなくて」
伊織が友人たちに見えないように僕の腕をひねりあげたところで、僕は渋々教室に教科書とノートを取りに行った。勉強中も僕が些細なミスをすると、伊織は烈火のごとく怒り、そんな伊織の一面を見たクラスメイトは驚いていた。すると彼女はすぐに優しい恋人の顔に切り替え、机で死角になっている僕の太ももをつねった。
ある時、二人で廊下を歩いていると井坂に出くわした。井坂は尊と一緒にいて、尊は僕らを見て、まずい、という風に顔をしかめていた。
伊織と井坂はしばし睨み合っていたが、井坂が舌打ちをして目を逸らすと、尊を引き連れて自分の教室の方へ歩いて行った。小競り合いは覚悟していたので、何も起きずに安心していたが、不意に伊織が井坂を呼び止めた。
「あの場所、あなたが教えてくれたんだってね」
井坂は立ち止まったが、返事も頷きも返さなかった。
「ありがとう。今度、必ず見に行くから」
すると井坂はわずかに振り向いた横目でこちらを確認し、おう、と言って歩いて行った。尊は混乱してその場に立ち尽くしていたが、やがて井坂に呼ばれて走って行った。その時彼が振り向きざま苦い顔をしながら僕に手を上げたので、僕も何となく手を上げた。
僕らはほぼ毎日、施設を訪問した。おばあちゃんの体調は安定しており、入所者とレクレーションや食事を楽しんでいた。部屋で他愛のない会話をしたり、天気の良い日はおばあちゃんを車椅子に乗せて、施設の周りを散歩したりした。
施設に行かない日は、伊織の家の手伝いをした。彼女は相変わらず不器用ではあったが、おぼつかない手つきで一つ一つの作業を慎重にこなしていた。
彼女は空いた時間によく料理本を見ていた。おばあちゃんが好きそうな料理に目星をつけると、そのページに付箋を貼って、休みの日施設を訪問する前に二人でその料理を作ったりもした。
「早く一人でも作れるようにならなくちゃ」
伊織がピーラーでごぼうの皮を剥きながら言った。台所の作業台に置かれてあるレシピ本は筑前煮のページが開かれており、僕は隣でにんじんの皮を剥いていた。
彼女の指示通り野菜を細かく切り分けながら、冷蔵庫にマグネットで貼り付けてあるカレンダーを見た。十一月のカレンダーの最後の週の土日にこれ見よがしに大きな赤丸が書かれている。
施設に入所してからのおばあちゃんの体調はすこぶる順調で、リハビリも特に何の問題もなくこなしていた。その甲斐あって、施設から一時帰宅の許可をもらうことができた。その日は伊織が中心になって料理を振舞う予定で、真央さんにもそのことを伝えてあった。
******
おばあちゃんが戻ってくる当日。僕らは早速準備に取り掛かった。
事前に施設の職員から食事の際の注意点などを聞いており、二人で話し合った結果、魚の煮付け、アサリの味噌汁、オクラと山芋の和え物、もやしのナムルを作ることにした。
「もうすぐ、半年だね」
最初は何のことを言っているのか分からなかったが、それが僕たちの関係を積み重ねてきた期間だということに気付いた。僕は味噌汁をかき回しながら、そうだね、と言った。食欲をそそる香りが立ち上ってきて、僕が良い匂いだ、と言うと、伊織がそばに来て鍋に鼻先を近づけた。
おばあちゃんの好みの味に仕上がっているか精査してもらうため、小皿に味噌汁を注いで伊織に渡した。伊織は小皿を受け取ると、御神酒を三々九度で飲むような手つきで味噌汁をゆっくりと口に含んだ。
「……おいしい」
彼女はため息を吐くように言って笑った。
やがて時刻が正午を少しだけ過ぎた頃、すべての調理が終了した。
おばあちゃんは後三十分ほどで帰宅する予定で、施設には真央さんが向かっていた。
僕らは縁側に座りおばあちゃんを待つことにした。生垣として植わっている椿の葉は、冬に移り変わる前の棘のない日差しに照らされて、作り物のような光沢を放っていた。生垣の外の国道は休みだというのに車の往来が全くなく、日向の中でじゃれあう雀の声だけが静かに響いていた。
突然伊織の携帯電話が鳴った。画面を確認すると真央さんのようで、彼女は嬉々とした表情で受話ボタンを押した。きっともうすぐ到着するのだろう。僕は煮付けと味噌汁を再度温めなおすために立ち上がり台所に向かった。
「嘘でしょう……」
背後で伊織の震えるような声が聞こえた。振り返るとそこには、暗い陰の落ちた瞳で僕を見つめる伊織がいた。
「……うん、……うん。すぐ行く」
徐々にしぼんでいくような口調で言うと、伊織は通話を切った。同時にひざから崩れ落ち、脱力した手から携帯電話が投げ出された。携帯電話は庭に転がり、その衝撃に驚いた雀が一斉に羽音を立てて飛び去った。
「……どうしたの?」
伊織はしばらく呆然としたまま俯いていたが、やがてか細い声で、おばあちゃんが先ほど総合病院に搬送されたと呟いた。
タクシーで総合病院に向かうと、ロビーではすでに真央さんが待っていた。気が触れたように手を震わせている伊織を座らせ、彼女が落ち着き始めた所で真央さんの説明を聞いた。
施設に訪れた真央さんは、おばあちゃんとしばらく談話した後、所定の手続きと準備を行うために少しの間部屋を離れた。そしてもろもろの準備を終えておばあちゃんの部屋に戻ると、その時すでに、おばあちゃんはベッドの下でうつ伏せに倒れていたそうだ。
「今朝まではいつもどおり元気だったって。今日、家に帰るのすごく楽しみにしていたって……」
真央さんはハンカチでそっと目元をぬぐった。リハビリもいつもどおりこなしており、特に異常は見られなかったので職員たちもすごく驚いていたそうだ。
「すぐに退院できるんだよね?」
「それは……」
真央さんは下を向いたまま、頭を振った。
「うそよ……。おばあちゃん、あんなに楽しみにしていたのに」
真央さんは落胆する伊織の背中をさすりながら、今は信じて待ちましょう、と言った。
それから一時間ほど経った頃、おばあちゃんの治療が終わった。幸い意識もしっかりしていて面会もできるそうだ。真央さんはこれから仕事に戻らなければならず、面会は僕と伊織の二人ですることにした。 真央さんは本来であれば昼前におばあちゃんを迎えに行って、昼食を食べた後に再び仕事に戻る予定だったのだ。
病室に入ると、おばあちゃんはついさっき倒れたとは思えないような素振りで僕らを出迎えてくれた。
「ごめんね。ちょっと、ふらふらしちゃって」
おばあちゃんが僕らを元気づけるように言った。思ったより元気そうに見えるが、伊織の表情は強ばったままだった。
「心配したよ、おばあちゃん……」
伊織はおばあちゃんの手を取って言った。その水気のない細い腕からは点滴の管が伸びていた。
「楽しみにしすぎて、心臓がびっくりしちゃったのかもねぇ」
おばあちゃんはそんなことを言っていたが、まったく笑えない冗談だった。
******
今年最後のカレンダーを捲った朝、窓の外の大気は仄かに白んでいた。天気予報では、例年で類を見ない強烈な寒気が列島を縦断しているそうで、まるで十一月と十二月の間に気温を入れ替えるスイッチがあるのかと思うほどの寒さだった。
数日間の経過入院後、おばちゃんは退院し再び施設に戻った。体調は安定してきたものの、以前のように勢力的にリハビリを行うことはできず、現在は麻痺していない右手で普段の生活ができるようになる練習を重点的に行っていた。
時々、おばあちゃんは数回呼びかけないと我に返らないということがあった。電球が切れたような空虚な目で外を見つめるその姿を見る度に、今回の発作でおばあちゃんの体にもたらした影響の大きさを感じずにはいられなかった。
「また、歩くんの手料理が食べたいわ」
おばあちゃんはそう嘆いていたが、僕らは事情を知っていたのでうまくはぐらかすことしかできなかった。今回の体調不良は、血圧が一時的に高くなったことが要因としてあり、当分の間差し入れなども禁止になった。あごの力も弱くなってきており、誤嚥事故などを起こしかねないので食事にはより一層の注意が必要なのである。
週末、伊織に誘われておばあちゃんの日用品を買いに行った。駅前からバスに乗って、幹線道路を東にしばらく進むと大型のショッピングモールがあり、僕らはそこでおつかいを済ませた。
帰り道の道路は長い渋滞で、時間になってもバスが来なかった。
「歩いて帰ろうか」
伊織が西日に目を細めながら言った。バスで五つほどの区間なので、歩けない距離ではなかった。
駅の方向に向かって架かっている橋を、伊織と他愛のない話をしながら渡った。橋の下には町を二分する巨大な川が流れていて、川面がオレンジ色に反射していた。橋を渡り終えると一直線に歩道が伸びており、歩道横のフェンスの向こう側に、一面が草に覆われた敷地が広がっていた。そのだだっ広い空間に巨大な鉄塔がそびえていた。
ふと、伊織が鉄塔の前で立ち止まった。
彼女は耳元に手を当てて、髪をかき上げながら顔を上げた。
燃えるような夕日が千切れ雲の輪郭を染め上げ、遠い山の天頂に日が触れかけていた。鉄塔の上を大勢の鳥が通り過ぎて行き、遠い山の向こうから遠き山に日は落ちてのメロディが聞こえてきた。冷たい風がさらさらと髪を揺らし、彼女は憂いを帯びた表情でただ鉄塔の頂上を見つめていた。僕はそんな彼女の横顔を黙って見ていた。
「私は、どうすればいいかな」
気力だけで自我を保っているような、不安定な声で伊織が言った。
「私はもう、何もしてあげられないのかな」
「そんなこと、ないよ」
すると伊織が、ゆっくりとこちらに視線を向けた。その瞳は言葉にせずとも、例えばどんな? と聞いているようで僕は口ごもった。
「もう、覚悟はしているの。でも……」
彼女のその言葉が、街から聞こえてくる喧騒を一瞬止めたような気がした。黒髪の隙間から見える澄んだ双眸には、知性的な光が宿っていた。
「君が会いに来てくれるだけで、十分なんじゃないかな」
彼女はか細い声で、分かってる、と言った。
「でも、それだけじゃダメなのよ」
「……何か、してあげたいんだね」
僕が言うと、伊織は顔を背けながら頷いた。買い物袋を持っていない手が、こめかみの辺りに触れた。彼女は今、泣いているのかもしれない。
「……ごめん。変なこと言っちゃって。帰ろう」
伊織は無理をして明るい声で話しているようだった。なんとなく彼女の横には並びづらくて、半歩下がって歩いた。歩きながら、僕らは一切話をしなかった。
できることはやったつもりだ。伊織には話していないが、おばあちゃんは僕なら安心だわ、とも言っていた。それだけで充分だと思った。
その時、頭の中で何かかが引っかかった。僕は落とし物を探すようにその場で立ち止まり、思考を巡らせた。
病院の裏にある庭園。白いベンチ。おばあちゃんとの会話――。
「どうしたの?」
数歩先に行く彼女が振り返った。彼女はまばゆいまでの光に包まれながら、僕の方を不思議そうに見ていた。
「一つだけ、あるよ」
そして僕は、たった今思い浮かんだ妙案を伊織に告げた。
「――本当に、おばあちゃんがそんなことを?」
信じられないといった面持ちで伊織が聞き返してきた。国道を大幅に遅れたバスが通り過ぎて行き道の果てに消えていく。街から聞こえてくる喧騒は心なしか大きくなっているような気がした。その雑音が止んだ時に、僕は言った。
「君の花嫁衣裳を、おばあちゃんに見せるんだよ」