(6)
僕は伊織をある場所に連れていくことにした。
そこは雅田家からほど近い場所にある古寺だった。その寺は道沿いにあり、周辺に群生している草木が、寺へ続く階段を左右からトンネルのように覆っていた。
「ここって……」
伊織はそこでしばらくぶりに言葉を発した。僕が行こう、と言うと、しぶしぶといった様子で、伊織も階段を上り始めた。
石積みの階段を上り終えると年季の入った門があり、そこをくぐるとさらにくたびれた本堂があった。 境内は一面が砂利敷になっており、中央の拝殿に向かって伸びる石畳の通路の左右に灯篭が立っていた。寺の裏は林になっており、舗装されていない細道の向こうに広大な茶畑が見えた。
僕らは寺の裏側の濡れ縁に移動した。砂利を踏みしめる音が境内に響き渡り、鬱蒼と生い茂る木々の隙間から虫の声が聞こえた。千切れた雲の間から月明かりがこぼれていたが、その光だけでは互いの顔がぼんやりとしか見えないくらいに辺りは薄暗かった。
「この前も、ここにいたんでしょう?」
以前お見舞に行った時、おばあちゃんからこの寺のことを教えてもらった。ここは幼い伊織が母に抱かれて写真に写っていた場所である。
「……そっか。歩はもう、全部知ってるんだよね」
全部というのが、彼女にとってどこまでの範囲を示すものなのか分からなかったが、僕は頷いた。そういえば、追悼に行ったことを僕はまだ伊織と直接話していない。
「歩は、どうしたらいいと思う?」
「僕は……」
それ以上答えられなかった。それは僕が真央さんと同じ意見だったからで、その沈黙を質問の答えだと受け取ったのか、伊織は掠れた声で、そうだよね、と言った。涙はいつの間にか収まっていたが、鼻声は少し残っていた。
「私だって分かってる。だけど……」
林の間から流れ込んでくる風が艶やかな黒髪を撫で、彼女は身震いをした。僕はおばあちゃんにしてあげたように、自分のブレザーを彼女に羽織らせようとした。しかし、断わられた。
「歩も寒いでしょう」
「いいんだ、僕は」
「ダメだよ」
「いいから」
僕が強く言うと、彼女はしぶしぶブレザーを羽織った。意外と大きいんだね、と言っていたが彼女が痩せているだけだと思った。
「この場所に来ると、いつも思い出すことがあるの」
表情に暗い陰を落としながら、彼女はぽつりぽつりと昔話を語りだした。いつのまにか伊織は目を閉じていた。
それは四月の中頃のことで、伊織はまだ幼稚園生だった。
夕方になるとクラスメイトは皆お母さんが迎えに来てくれ、一人ずつ教室からいなくなっていった。いつもおばあちゃんが早めに迎えに来てくれていたのに、その日は時間になって現れなかった。教室には最後、伊織一人だけになった。その日は、伊織の四歳の誕生日だった。
しばらく経ってから、当時駆け出しの美容師だった真央さんが迎えにきてくれた。真央さんに手を引かれながらそのまま自宅に帰ったが、その後真央さんは美容室に戻り、家には伊織だけが取り残された。
「悔しくて、泣きながら家を飛び出したの。そしてこのお寺にきたんだけど、ちょうどその時雨が降ってきて」
それは町が沈んでしまうかのような大雨で、伊織はこの濡れ縁でひざを抱え、途方に暮れていた。雨の冷気を含んだ夕方の風は冷たく、伊織は震えながら雨が止むのを待っていた。
「――一時間くらいして、おばあちゃんが来てくれたの。でも私、ひどいことを言ってしまって」
――なんでわたしには、おかあさんがいないの? なんでうちは、みんなとちがうの?
伊織はおばあちゃんに対してそんな辛らつな言葉を投げつけた。
雨が小降りになってきた時、伊織は傘を受け取った後おばあちゃんを置き去りにして帰った。振り返った時、おばあちゃんは傘を持っているにも関わらず開こうとしなかった。不思議に思ったが、ふて腐れていた彼女はお構いなしに帰り道を突き進んだ。おばあちゃんはその間も、穏やかな顔をしながらゆっくりと着いてきていた。
家に着いた時、居間に入ると机の上にあるものが置かれていた。
「ずっと欲しかったドールハウスだったの。知ってるかな? ほら、あの――」
彼女はCMで幾度も見たことのある、有名な商品名を発言した。それは精巧に作られた家に、くまやうさぎなどの愛くるしい動物の家族を住まわせるといったものだった。ミニチュアの家具を追加したり、家族で乗る車を家の前に置いたり、新しい家族や友達を増やしたりなど、1985年から発売され数十年経った今でも子供たちに愛されているあの有名なファミリーである。
その日おばあちゃんは、プレゼントを探しに町中のおもちゃ屋を巡っていた。目的の品を隣町で見つけて伊織を迎えにいこうとしたが、中々タクシーがつかまらず間に合わなかったのだ。その後伊織は、おばあちゃんに泣きながら誤ったのだという。
後で気づいたことだが、おばあちゃんの傘は風に煽られて骨組みの部分が壊れていた。きっと彼女は、傘の中におばあちゃんを入れてあげなかったことを今も責め続けているのだ。だから今も、彼女はその小さな傘でおばあちゃんを守ろうとしているのだろう。
「君は、お母さんのことを覚えているの?」
伊織は、全然、と言って頭を振った。
「でも、お母さんのことでいつも謝られたわ。一番辛いのは、おばあちゃんなのに」
いつの間にか薄く開かれていた瞳が再び潤み始めた。彼女は涙を我慢するように顔を上げ、一度鼻をすん、と鳴らした。まつげが涙の水滴で濡れて、鼻の頭が赤くなっていた。
境内は深海の底にどっぷりと浸かったように静寂に満ちていた。上空をものすごい速さで風が吹いていて、次第に厚い雲が月を隠し、僕らのいる場所は完全に闇に包まれた。茶畑の奥には民家が点在しており、どの家にも明かりが灯っていた。虫の声も大きくなり、冷気が少しずつ足元から浸透してくる。どこかの家で飼われている犬の遠吠えが青黒い空に響き渡る。
そんな、どことなく音を立ててはいけないような緊張感があったにも関わらず、突然僕のお腹が鳴った。非常に場違いな自然現象である。
「……ごめん」
恥ずかしくて伊織の顔が見られなかった。今は互いの顔がおぼろげにしか見えないのでそれだけが幸いだった。
「お腹、空いたよね」
「君は何が食べたい?」
「そうだなぁ……」
相変わらず元気はなかったが、伊織のその声には幾分か柔らかみが感じられた。次第に緊張で強張っていた空気が解きほぐされていき、僕は口を開いた。
「前に、おばあちゃんと味噌を作ったことがあるんだ」
充満した夜気の中で、伊織の形のいい瞳がこちらを向いた。
「食べられるのは最低でも半年後って言っていたから、多分来年の二月くらいかな」
伊織は何も反応しなかったが、それがどうかしたのか、というような視線を向けていた。
「実は僕、楽しみにしてるんだ」
「味噌を食べることを?」
うん、と僕は言った。そして目を閉じて、想像した。
それはどこにでもありふれた日常の風景。
僕と伊織は以前のように二人で台所に立っていて、みんなに振舞うために食事の支度をしている。僕らが料理しているところを、おばあちゃんと真央さんが炬燵に入って微笑みながら見ていて、真央さんがからかってくる。おばあちゃんも、何か手伝うことはないかと気遣うが、伊織が座っていて、と注意する。出来上がった料理を囲んで手を合わせ、何気ない会話をしながら箸を進める。食卓は笑いと幸せに満ちていて、次は何を作ってもらおうかしらと、おばあちゃんが笑う――。
「その時は、君が味噌汁を作ってね」
「え、私が作るの?」
「当たり前じゃないか。君はやればできるんだろう」
「それは……そう言ったけど……」
味噌汁など、調理実習で小学生がやるような簡単な料理である。しかしそんな簡単んな作業でさえも彼女はろくにできないのだ。
「だからそれまで、君は君にできることをやるんだ」
「だから、私は今も、」
「違うんだよ」
僕は彼女の言葉をさえぎった。
「君はできることも、できないことも全部一人で抱え込もうとしている。一般的にそれは、悪あがきとか、努力の迷走っていうんだよ」
「そんな言い方しなくたって……」
どうやら彼女は気分を害したようだ。しかし現実的に僕や真央さん、それにおばあちゃんが言いたいのはそういう事なのである。
「君がすべてを負担することを、おばあちゃんが望むとでも思っているの?」
薄闇の中で彼女は無言で首を横に振った。
「君にしかできないことを、もう一度よく考えよう。僕もできる限り協力するから」
「……でも、歩も来年受験じゃない。これ以上あなたの頭が悪くなったら……」
「前から思っていたけど、君は割と失礼なことを言うよね」
月に掛かっていた雲がわずかに流れ、雲の隙間から漏れ出た光が僕らのいる場所をスポットライトのように包み込んだ。今までぼやけていた彼女の顔があらわになり、月の光で発光したように肌が白く艶めいていた。
「君はさっき、僕の上着を断ったよね。それは何故かな?」
「だって、歩が風邪ひいちゃうかもしれないし」
伊織は羽織っていた僕の上着を握りながら言った。不安げに僕を見るその大きな瞳は、赤く湿り気を帯びていた。
「君がしているのはそういう事だよ。無理して親切をしても自分が寒くなるし、親切をされた方は嬉しいけど手放しで喜べない。だから分け与えるんじゃなくて、寒いなら二人で暖かい場所に移動すればいい。考え方を少し変えるだけで、二人とも救われることがあるんだ」
そして僕は、あの町で撮った紅葉の写真を伊織に見せた。画面を見ながら、僕はおばあちゃんに説明したように、端的にこの写真の意味を話した。
「おばあちゃんが回復したら、今度はみんなで追悼に行こう。お母さんが見るはずだった景色を、みんなで見るんだ」
伊織は唇を震えさせながら、音の鳴るようなまばたきをした。彼女の揺らぎ始めている心と呼応するように空からは完全に雲が消え去り、まばゆいくらいの白い光が境内に降り注いでいた。
「君が満足するまで付き合うよ。何か月でも、何年でも」
僕が言うと、伊織は唇を真一文字にしてコクコクと頷いた。そして指先を埋めたセーターでそっと目元拭い、ありがとう、と言った。彼女を包み込む世界が、間もなく変わろうとしているような予兆がした。
「おばあちゃんが施設に入ったら、二人で会いに行こう。どんなに忙しくても、君が誘ってくれたなら僕はいつでも行くから。君は、人を巻き込むのが得意だろう」
「……あなたも、割かし失礼な方よ」
「君には及ばないけどね」
嫌味を返すと、花の蕾を愛でるように彼女が表情をほころばせた。