(5)
翌週の木曜日、僕はおばあちゃんのお見舞いに行った。体調が安定し、ようやく許可が下りたのである。
おばあちゃんは現在会話ができる状態にまで回復したが、発作の後遺症で左手にほんのわずかな麻痺が残っていた。
「心配させてすまないねぇ」
僕は首を振って、事前に購入しておいた見舞い品を渡した。
「わざわざありがとうね。これは、座布団かい?」
「車椅子用のクッションです。低反発で腰とお尻に優しいそうです」
「へえ。それは助かるわぁ」
おばあちゃんの喜ぶ顔を見て、僕はひとまず安心した。
「ごめんね、伊織ちゃんがいなくて」
伊織は月曜からずっと学校を休んでいた。おばあちゃんが倒れてから、伊織は可能な限り病院に留まりいつも夜遅くになって自宅に帰っていたらしい。おばあちゃんの体調が良化していくことと反比例するように、彼女の方が日に日にやつれていったので、現在は真央さん監視の下、自宅で強制的に療養を取っているそうだ。
「娘の追悼に行ってくれたんだってね」
「はい」
おばあちゃんに、追悼の日のことを話した。今年で最後になるかもしれないと聞いていたので、いくつか景色を写真に収めていた。おばあちゃんはその写真を一枚ずつ、租借するように見つめていた。
「これは、どこだい?」
おばあちゃんがあの紅葉の写真を指さして言った。僕が例の場所を説明すると、おばあちゃんは数秒の間を置いて一言、きれいだね、と言った。
「いつか、みんなで見に行きましょう」
おばあちゃんは頷いた後、窓の外を見ながら黙っていた。空は追悼の日と同じくらいすっきりとした秋晴れで、カーテンの隙間から柔らかい日差しが降り注いでいた。その皺の刻まれた瞳の奥には、空に投影されている何かが見えているのだと思った。
病院の裏にある庭園を散策しながら、少しだけ伊織の両親の話を聞いた。僕の憶測通り、伊織の母こと雅田月子はシングルマザーで、三十代後半で伊織を産んでいた。遠回しに父親のことを聞いてみると、おばあちゃんは苦い顔をしながら、会ったことはない、と言った。伊織は父親に抱かれたことがなく、生存も不明らしい。
車椅子を押しながら庭園を散策した後、背の高い木の下に白いベンチを見つけ、僕らはそこに腰掛けた。日差しが暖かく過ごしやすい気候だったが、空気には仄かに冬の気配を感じた。
「あの子の花嫁姿を見るのが、私の夢だったのよ」
おばあちゃんがどこか遠くを見ながらこぼした。夢だった、という過去形の言い回しが気になった。
「きっと、見れますよ」
「あなたがお相手かしら」
「ええと……」
おばあちゃんは困惑する僕を面白そうに見ていた。
「歩くんはうぶねぇ」
自分の頬が紅潮しているのが分かった。おばあちゃんはそんな僕を見てからからと笑っていた。
「冷えてきたわね」
「はい」
風が吹き、散らばっている落ち葉がさらさらとかき混ぜられた。おばあちゃんが少し身震いしたので、自分の上着をおばあちゃんに羽織らせた。おばあちゃんは上着をぎゅっと握り締めて、ありがとう、と目を細めた。
「……あなただったら、私も安心だわ」
その言葉を、僕は聞いていないふりをした。今のおばあちゃんの発言は僕らのゴールでもある。僕らにとってそのゴールとは終りを意味している。まだ終わりたくない、と僕は強く思った。
******
雅田家の玄関に着いた時、縁側の方から誰かの声が聞こえた。庭の方に回り込むと、伊織と真央さんが向かい合って立っていた。二人は険しい表情で何か言い合っており、ただならぬ空気が庭に立ち込めていた。
「――誰もいない時に何かあったらどうするの?」
「それは……」
伊織は自分の足元を見つめながら、悔しそうに拳を握り締めた。
「何かあった時、冷静に対処できるの? この間もあんなに混乱していたじゃない」
「……」
伊織は唇を噛みしめ、今にも泣きそうな顔で真央さんを見ていた。
「あなたの為でもあるのよ。辛いのは分かるけど、大人になりなさい」
真央さんが伊織の肩を持って諭すように言うと、彼女はその手を振り払って走り出した。その時初めて伊織は僕のことに気付き、何かを訴えるような表情をした後、何も言わずに道の向こうへと走り去って行った。
「歩くん、いたの」
真央さんがばつの悪そうな顔で言った。
日はほとんど沈みかけていて伊織がどこへ行ったのか心配だったが、僕らは二人で縁側に腰掛け話をした。
「お医者さんに施設への入所を勧められたの」
おばあちゃんの体調は思ったより悪く、いつまた以前のように倒れてもおかしくない状態だった。その時はもっと甚大な影響が懸念されるため、やむなく介護老人保健施設への入所を検討せざるを得なくなったのだ。
「おばあちゃん、半年以上前から考えていたみたいなの」
おばあちゃんはすでにいくつかの施設のパンフレットを準備していたそうだ。目星をつけている施設の担当者には、すでに話を通してあるらしい。
半年前といえば、僕と伊織が出会ったくらいの時期だ。彼女が偶然そのパンフレットを見てしまったとすると、僕らのこの謎めいた関係性の始まりにも納得ができる。
真央さんから話を聞いた後、彼女が逃げ込みそうな施設や公園などを中心に探し回った。町を練り歩きながら伊織に電話をかけてみたが繋がらなかった。
結局そのまま見つからず、真央さんから電話が掛かってきて、捜査は打ち切りになった。明日は土曜日で、伊織は必ずお見舞いに来るから大丈夫だと言われ、僕は自宅に帰った。
******
翌日、病室を訪ねるとちゃっかり伊織はいた。僕が入室すると一瞬気まずそうな顔をしていたが、僕は昨日何も聞いていないし見ていないという素振りで彼女の隣に座った。
おばあちゃんは、僕たちに振る舞うためにりんごの皮を剥こうとしていた。しかし、麻痺した左手が度々りんごを落とし、その度にがっかりしたような表情になった。それを見るに見かねた伊織が変わろうとするも、当然彼女にそんな技量はなく、仕方なく僕はいつかカタクリコと片山さんにしてあげたようにりんごを剥いてあげた。伊織は僕の手元から螺旋状に伸びていくりんごの皮を暗い瞳で見つめていた。
「進路はちゃんと考えているの?」
おばあちゃんの質問に、伊織は頷いた。
「求人とかちゃんと見てるよ。進路指導の先生とも相談しているし」
「ずっと学校を休んでいたのに?」
「え、いや、その……」
絵に描いたような墓穴を掘った彼女が助け船を求めてきたので僕は、電話でだよね、と言ってあげた。こんなことで騙し通せるはずないのに、おばあちゃんはそれ以上何も聞いてこなかった。
おばあちゃんの退院が二日後に迫ったある日、遅れてきた僕が部屋に向かうと、入り口に伊織が立っていた。そばに近寄ると、その瞬間に伊織は僕の存在に気づき、咄嗟に腕をつかまれた。
伊織は唇をかみ締めて何かを訴えるような表情で首を横に振った。おばあちゃんのベッドは入り口のすぐそばにあり、すでに真央さんが来ているようで、耳を澄ますと会話が漏れ聞こえてきた。
「――そんな弱気にならないで」
「でもね、本当にそろそろ覚悟しておかないと――」
その会話で大体の内容を察した。伊織は神妙な面持ちでじっと二人の声に耳を傾けていた。
「もしもの時は、伊織ちゃんのことお願いしてもいいかしら。もう、頼れる人があなたしかいないのよ」
「そんなの、当たり前じゃない。何を今更……」
初めて聞く真央さんの震える声に、胸が押さえつけられるように痛くなった。隣では伊織が目元を手の甲でごしごしと拭っていた。
「あなたにはいつも迷惑をかけていたわね。本当に、感謝しているわ」
「だから……そんなこと言わないでよ!」
縋り付くような真央さんの嗚咽が聞こえた。堪えきれなくなった伊織が病室に飛び込もうとしたが、今度は僕が彼女の腕を掴んだ。
「……だめだよ」
僕と病室を交互に見比べた後、伊織はしぶしぶ頷いた。
僕らはそのまま入り口に取り残されたように立っていたが、看護師に注意されたのをきっかけに外に移動した。話し合った結果、今日はそのまま帰ることにした。
バスの中で伊織は終始無言だった。いつの間にか窓の外は黒く塗りつぶされていて、ドアが開くたびに冷たい風が車内に滑り込んできた。途中で乗ってきたサラリーマン二人組が、来週から冷え込みが厳しくなるらしいと愚痴をこぼしていた。
まばらだった乗客が少しずつ減っていき、伊織の家の近くのバス停に到着した時には、僕ら二人だけになっていた。このバスは、僕の自宅の最寄り駅に併設された営業所が終点になっていたので、彼女とはここで別れることになる。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。気を付けて」
伊織は泣き笑いのような表情を浮かべて頷くと、バスから降りた。バス停そばの街灯に照らされた彼女は、窓際の僕を見上げて微笑んでくれた。僕が控えめに手を振ると、そのタイミングでドアが閉まった。 バスは国道の本線に入るためウインカーを出しゆっくりと動き出した。その間も、伊織はずっと僕の方を見ていた。
しかし次の瞬間、伊織は顔を下に向けてそのまま身を反転させ、自宅の方へと歩き出した。薄暗くてよく分からなかったが、彼女の顔が一瞬ゆがんだように見えた。
僕は運転手に頭を下げ、再度ドアを開いてもらった。ステップを駆け下り、自宅に向かって歩いていく彼女の背中を追いかけた。
路地の角を曲がったところで追いつき、勢いで肩を掴むと、伊織は少しよろけながらこちらを振り向いた。電柱のそばに立っている錆びた街灯が彼女の顔を照らした。
「伊織……」
彼女は泣いていた。涙の溜まった大きな瞳が悔しそうに僕を見つめ、叫びたいのを我慢しているように、唇が真一文字に閉じられていた。僕は彼女の肩から手を離した。
「私、何も……できなくて……」
自分の嗚咽にもがくように、伊織が途切れ途切れに言った。街灯の光が彼女の頬を滑り落ちる水滴を煌かせ、そのしずくはあごの先から地面に落ちた。
「もう、おばあちゃんしか……いないから……だから……」
「……君は、よくやっているよ」
落ち着かせるように言っても、伊織は自分を否定し続けた。
「……私が支えないといけないのに」
伊織がセーターの袖で涙を拭いながら言った。拭っても拭っても涙は溢れてきて、伊織は時々自分の感情に抵抗するように空を見上げた。薄明かりの中で、真っ赤に腫れた瞳と上気した桜色の頬が浮かび上がった。
その時、前方から一台の車が迫ってきた。伊織はそれを避ける気力もなく、僕は慌てて彼女を道の端に引き寄せた。
「危ないよ」
注意しても、彼女は無反応だった。
「君が怪我したら元も子もないじゃないか」
少し強めに言うと、彼女は叱られている子供のように頷いた。そのまま何もかけてあげる言葉が見つからず、僕らはその場に黙ったまま立っていた。気を抜くと震えてしまいそうなほど気温は下がっていた。
「……少し、歩こうか」
伊織はまたも無反応だったが、僕が歩き出すと二歩ほど下がって後ろをついてきた。