(4)
翌日、学校に行く時よりも少しだけ早起きをして家を出た。花束は昨日雅田家から駅まで行く際に、真央さんが購入してくれた。
駅に着くなり、メモを確認しながら特急電車に乗り込んだ。学校とは反対方向に電車は進み、いくつかの駅で停車した。一つ駅を通り過ぎる度に、車窓から見える緑が濃くなっていき、乗ってくる客よりも降りていく客の方が多くなった。
うつらうつらと眠りこけていると、胸ポケットで携帯電話が振動した。誰かから連絡があったのではなく、到着時間を想定して目覚ましを掛けていたのである。
目的の駅に着いたのは昼前だった。あまり大きな駅ではなく、構内にはいくつかの店舗があるだけで、土曜日だというのに閑散としていた。
入り口を出るとバス停があり、いくつかの路線の時刻表を確認して目的地に向かうバスに乗った。
田舎ではないが、決して都会でもないような町並みが横に流れて行った。車も僕が住んでいる町の半分以下の量で、高いビルもあまりなく空が広く見えた。窓から差し込んでくる麗らかな日差しが心地よく、遠くに山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。
メモに書いていたバス停の名前がアナウンスされたので、降車ボタンを押した。降り立ったその場所は片側二車線の国道沿いで、少し先に枝分かれした細い道があった。国道をまっすぐ進むと市街地に行き当たるそうだが、その細道は小高い山の方向へと伸びていた。
僕は枝分かれした細道の方向へと歩いた。目的の場所へ続く道はなだらかな坂になっていて、途中にはいくつかの民家があった。コンビニやスーパーなどはなく、変わりに無人販売の掘っ立て小屋やコイン精米所などがあった。白菜を作っている広大な畑があり、道沿いにはトラクターが止まっていた。
やがて民家の数が少なくなり、道路に落ちる葉陰も濃くなってきた。汗を浮かばせながらしばらく歩いていると、目の前に緩やかなカーブがあった。そのカーブのガードレールの向こう側には開けた砂利の部分があり、そこにいくつかの花束が添えられていた。そこは真央さんから聞いた場所と一致していた。
ガードレールをまたいで、花束を供えた。しゃがんで厳粛な気持ちで手を合わせていると、頭上で山鳥が羽ばたいた。空を切る羽の音が聞こえるほどに周辺は静寂に満ちていた。
移動には時間がかかったというのに、目的はわずか数分で終わった。帰ろうとした時、重ねられた花束の間になにか黒いものが見えた。手にとって見ると、それはだいぶ年季が入った革財布だった。
「あの、それ俺のです」
突然背後からぶっきらぼうな声が聞こえ、あやうく素っ頓狂な声を出しそうになった。振り返ってその声の主を見て、衝撃と納得が同時に僕を襲った。
「おまえ……なんで」
目の前に、井坂が立っていた。
******
新聞記事を見た時、亡くなった人の中に井坂という苗字があった。その人はマイクロバスの運転手で、彼の父親だった。
その日井坂の父親は、いつもどおり客たちを乗せ結婚式場へと向かっていた。式場は市街地にあったのだが、国道で大規模な下水工事を行っていたため渋滞が発生しており、式場と相談した後道を迂回していくことにしたそうだ。
井坂は自転車を押しながら、そのことを話してくれた。自転車は彼が現在家族とともに宿泊している旅館から借りてきたもので、財布は僕が来る一時間ほど前に落としたのだという。
「帰り道逆なんだけど」
「いいから来いよ」
僕は井坂に連れられて坂を上っていた。緩やかだった坂はどんどん傾斜が高くなり、道の左右に林立する木々の青臭い匂いが強くなった。
「雅田はどうした」
僕は端的に、おばあちゃんの体調が悪くなったことを告げた。彼は険しい目つきを変えないまま、そうか、と言った。
歩きながらの井坂は基本的に寡黙だった。会話をしてもそこから話題が派生することもなく、受け答えのようになってしまった。僕は彼に嫌われているので、どこかもっと人目につかない場所で暴行されるのではないかと危惧していた。
陰に深みが増し、まるで洞窟を歩いているようだった。彼の押す自転車は全体的にくたびれており、油を差していないのか、車輪が回る度に耳障りな音が響いた。
「一時期責められたんだ。何でルートを変えたんだって」
はるか先に光が見えた時、井坂が言った。
「渋滞していても、本来の道を行くべきだったって言われてな」
「悪いのは飲酒運転の車でしょう?」
井坂は、悔しさをにじませるように首を横に振った。
「遺族はそうはいかないんだよ。怒りや悲しみの矛先をどこに向けていいか分からなくて苦しむんだ。捌け口は必ずしも一つじゃないんだよ」
井坂はハンドルを握り締め、細い目をさらに細めて、坂道の頂上から漏れている光を見ていた。いつもの攻撃的な性格は鳴りを潜めていた。
「飲酒運転のやつは殺したいほど憎んでいる。でも一部の人間の言うとおり、普段の道を普段どおりに行けばよかったんだって思ったりするんだ」
溜め込んで溜め込んで、ついに爆発したような言い方だった。事故当時、彼は三歳くらいだ。父親の記憶など曖昧なはずなのに、物心ついてきた頃から、そういう痛みに苦しみ続けたのだろう。
「君は、お父さんのことを恨んでいるの?」
すると井坂は首を傾げて、どうだろうな、と言った。
「何も覚えていないからな。顔も写真とかビデオでしか見たことないし」
でも、と言って井坂は顔を上げた。
「ある人に言われたんだ。親父には、迂回する以外に別の目的もあったんだって」
その人はその事故で生き残った乗客の男性だった。去年この場所で偶然会った時にそんなことを言われ、ずっと彼の頭に残っていたらしい。その男性は事故当時から高齢で、先月亡くなったのだそうだ。
先月、井坂がたまたま母親とその人の家を通りかかった時、線香を上げさせてもらい、その時に息子夫婦から一枚の写真をもらったそうだ。写真にはある場所が写されてあり、それがこの先にあるらしい。
やがて坂が終わり、平坦な道になった。木々で景色は見えないが、かなり高いところまで僕らは歩いてきていた。両側から伸びる木々はその先にもずっと続いていたが、一部分だけすっぽりと開けた場所が見えた。そこから道は大きく迂回していて、その道を進むと先ほどの国道と合流するそうだ。
「母さんに、どんな親父だったか聞いたことがあるんだ」
井坂は手の甲で流れてくる汗を拭いながら言った。山の上なので気候もよく、過ごしやすい日和なのだが、慣れない山登りをしたせいか僕らは共に汗だくだった。
「どんなお父さんだったの?」
井坂は、ポケットから財布を取り出してしみじみと眺めると、物を大切にする人だったって、と言った。その財布は父親の形見で、結婚する前に母親から贈られたものらしい。
「給料が出た日には、誕生日でもないのに俺たちに一つずつプレゼント買ってきたって。自分はぼろぼろの財布使っているくせによ」
「君たちの、喜ぶ顔が見たかったんだね」
「親父の友達も言ってた。親父は無口だったけど、人が喜ぶことをするのが好きだったって」
その時、車輪が回る音が止まった。同時に視界から木々が途切れ、そこから見える景色に息を呑んだ。
「これは……」
目の前に広大な紅葉の景色が広がっていた。燃えるように色づいた葉が急峻な斜面を染め上げ、谷には遠目でもその透明度が分かるような清流がきらめきを放ち、美しい山々に彩りを添えていた。川面では白い鳥が片足立ちで羽を休め、穏やかな風に吹かれた葉が舞い上がっていた。誰にも汚されていない、自然が作り出した造形美が、僕らが立っている木々と木々の途切れた場所からだけ覗き見えた。
「親父は、これを見せたかったのかもな」
井坂が隣で言った。彼は先ほど母親と共にこの場所に訪れており、写真で見た景色と見比べたらしい。それは間違いなく、この場所から撮られたものだった。
臨場感溢れる極彩色の光景に、ただただ圧巻するばかりだった。伊織やおばあちゃんにも、そして、亡くなった彼女の母親にも、この景色を見せてあげたいと思った。
「本当に、綺麗だね……」
半開きになった口から勝手に言葉がこぼれた。一瞬井坂は僕を見て何かを言おうとしたが、そのまま黙っていた。
僕らはしばらく目の前に広がる絶景に酔いしれていた。誰も知らないが誰もが心打たれる場所。顔は知らないのに、何故だか井坂の父親が乗客にこの景色を見せた時に、満足そうに笑う顔が想像できたような気がした。
******
帰りは自転車の荷台に乗せてもらった。井坂は一切ブレーキを掛けず、風を切って坂を下った。後ろから何度もスピードを落とすように言ったが、その声は無視された。
やがて盛大なブレーキ音が響き、バス停に到着した。精神を衰弱した僕を見て、井坂が鼻で笑った。ここにきて復讐をされたと思った。
バスを待っている間、何故か井坂はすぐに帰らなかった。仕方なく僕は自転車に乗せてもらったお礼を兼ねて、自動販売機で彼に炭酸ジュースを買ってあげた。
彼は、おう、と言って受け取ったが、プルタブを空けた瞬間、中身が噴出した。渡す前に過剰なくらい振っておいたのだ。彼は水浸しの顔で睨んできたが、これでおあいこである。僕がポケットティッシュを渡すと、彼はふてくされたような態度でそれを奪い取った。
「君はまだ、伊織のことが好きなの?」
井坂の動きが止まった。そしてそのまま考えるような間をおいて、ため息を吐いた。
「もういいんだ。あいつも、気にするなって言ってたし……」
彼はそう言って、山の頂上を見上げた。それはどことなく、すっきりしているような表情だった。もしかしたら井坂は伊織に好意を抱いていたのではなく、父親のことで罪悪感を感じ、同じ傷を負った伊織のことを支えようとしてくれていただけなのかもしれない。
「なんだよ」
井坂が不機嫌そうに言ったので、なんでもない、と言うと、彼は舌打ちをしてまた山の方向を見た。
バスに乗る時、入り口で井坂に呼び止められた。自分で呼び止めたくせに、彼は何かを言いよどんでいた。
「また学校で」
ドアが閉まる直前に僕が言うと、井坂は口を尖らせて、おう、と言った。彼は少しの間だけバスを見送り、その後自転車を反転させると、反対方向へと去って行った。その後ろ姿を見て、素直じゃないなと思った。