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その傘をはずして  作者: L.Y
14/31

(3)

 この日をきっかけに、僕は毎日雅田家に訪問した。伊織は全ての家事を一人でこなそうと奮起していて、僕が手伝おうとすると決まって憤慨した。


「出来る恋人を仕立てて、おばあちゃんを安心させようとしたのは君だろう」


 彼女はおばあちゃんの体調が急変してから完全に視界が狭まり、本来の目的を忘れていた。


「でも、私だって頑張れば一人で……」


 そこで僕は、台所の隅に隠してあるダンボールを指差した。ばれていないと思っているだろうが、そこには大量の割れた茶碗やグラスが入っていた。


「君はおばあちゃんに、アルミホイルでご飯を食べさせる気?」

「うう……」


 観念したのか、伊織はしぶしぶ言うことを聞いた。当然このやり取りはおばあちゃんの見ていない場所で行われている。


 秋の深まりつつある今の時期は、気を抜いているとあっという間に日が暮れてしまう。だから僕はなるべく効率よく家事を行えるように、様々な書物を読んで自ら実践した。両親は共働きだし来年は一人暮らしをするので、僕自身にも効果はあるのだ。


「そんな風に置いたら水がちゃんと切れないでしょう。傾けて置いて」


 伊織が洗った茶碗を水切り籠に普通に置いたので叱責した。傾けないと、椀の中に水たまりができてしまうのである。


「油が付いた皿はお湯で洗って。その方が落ちやすいから」

「でも、手が荒れちゃう」

「目の前のゴム手袋はシンクの飾りなの?」


 僕が指摘すると、伊織は頬を膨らませて指示に従った。

 彼女に勉強を教えてもらう際、いつもこんな風に罵倒されているので、これを気に彼女が態度を戒めてくれると思った。しかし甘かった。


「座標の点を打つところが違うでしょう。せっかく式は合っているのに、ツメが甘いのよ!」

「今のはたまたま間違えたんだ。いつもは」

「言い訳しない!」


 僕が彼女に厳しくすると、彼女の指導はその数倍の殺傷力を持って牙をむいた。僕らのそんなやり取りを、おばあちゃんはいつも傍らで微笑ましく見ており、そんなおばあちゃんを見ていると、日が経つごとに伊織もよく笑うようになった。


 彼女が不器用なのは、一人で抱え込みすぎていることと、一度にすべての仕事を処理しようとしていることにあると気づいた僕は、伊織の為に一週間にすべきことを書いたリストをプレゼントした。


 例えば掃除機をかける日を、火曜日と土曜日だけにするといったものだ。買い物も週末にまとめ買いして、肉類は小さなビニールに一日分ずつ小分けして冷凍する。洗濯も二人暮らしなので毎日ではなく、二日置きで事足りる。家事には毎日行わなければならないものとそうでないものがある。これは主婦の常識なのだ。

 リストは表計算ソフトで作成した簡易的なものだったのに、伊織は思いのほか喜んでくれた。


「歩、ありがとう!」


 彼女からまるで命を救われたような表情でお礼を言われた。それは悪くない気分だった。

 僕の愛ある指導が功を奏したのか、翌週から彼女は学校を休まなくなった。携帯電話で僕が作ったリストの写真を撮っており、毎日それを見て自分がなすべきことを確認していた。

 ただ、昼休みになると伊織は毎日おばあちゃんに電話を掛けていた。


『そんなに毎日電話してこなくても大丈夫だよ』


 スピーカーにした電話口でおばあちゃんがあきれるように言っていたが、伊織はそれでも心配なようだった。僕も元気のないおばあちゃんを見ていたので、自分がいない間におばあちゃんに何かあったらという彼女の気持ちは痛いほど分かった。


******


 週末、僕は伊織と一緒に、茄子のはさみあげを再び作る計画を立てていた。次の日は土曜日で休みだし、両親も二人とも酒席が入っているので、遅くなっても大丈夫だった。


 駅のスーパーで買い物を終えたのは、夕方の六時頃だった。進路のことで担任と面談があったので伊織には先に帰宅してもらい、今日やるべき仕事を済ませておくように指示した。明日はペットボトル回収の日なので、ちゃんとラベルをはがし、中を濯いで袋に入れなければならないのだ。


 雅田家に着いた時、門の前に人だかりができており、その人垣の向こうに救急車が止まっていた。

急いで様子を見に行くと、ちょうど玄関から救急隊員が担架を担いで出てきた。担架の上には胸を押さえて苦しんでいるおばあちゃんが乗っており、その傍らに伊織がいた。


「おばあちゃん! おばあちゃん!」


 伊織は取り乱していて、近くにいる僕にさえ気づかなかった。やがて伊織はおばあちゃんとともに救急車に入ると、市街地の方向へ去っていった。救急車がいなくなると、家の周りにいた人たちは波が引くように消えていき、その場所に僕だけが取り残された。

 呆然とその場に立ち尽くしていると、真央さんが車でやってきた。これからおばあちゃんの搬送された病院に向かうそうで、僕も連れて行ってもらうことにした。


 病院に到着すると、伊織が集中治療室の前の椅子に腰掛けていた。うつむいて手を震えさせ、祈るように目を瞑っていた。


 面会客がぽつぽつと帰り出した頃、治療を担当していた医師から関係者だけ診察室の中に入るように言われた。真央さんは伊織を支えながら、彼女の歩調に合わせてゆっくりと診察室に入った。部屋に入る瞬間、伊織が一瞬だけこちらを見た。彼女の瞳は真っ赤に腫れており、不安そうに顔をゆがめていた。


 それから一階のロビーで二人の帰りを待っていると、三十分ほどしてから真央さんだけが戻ってきた。その顔色は優れなかった。


「山は乗り越えたみたいだけど……」


 現在おばあちゃんはかろうじて指を動かすことしかできず、今回の発作で体に重篤な負担がかかったため、何らかの後遺症が発症している可能性があるそうだ。容体が急変する恐れがあるため、これから数日間は家族や関係者以外病室に立ち入り禁止なのだという。今も伊織はおばあちゃんに付き添っており、真央さんはこれからおばあちゃんの入院の準備をして再び病院に戻ってこなければならないそうだ。


 雅田家に着いて、真央さんが着替えや保険証などを準備している間、僕は部屋を片付けることにした。

 台所の床にはコップやフライパンが散乱しており、ゴミ袋からペットボトルが数本飛び出していた。そのうちの一本はラベルがはがれかけており、伊織がどれだけ慌てていたのかが想像できた。


 それらを片付けた後、火の元を確認した。居間に戻ると、畳んであったと思われる洗濯物が崩れていた。全てを畳みなおした後に縁側の窓を閉め、他の部屋の戸締りを確認しようと居間の電気を消そうとした時、それがそこにあった。


 開かれたアルバム。そこに写っているのは見たことのない女性だった。


 人の物を勝手に見てはいけないという良心が働き、僕は目を逸らした。しかし、女性のそばに一緒に写っている三才くらい女の子が視界に入ってしまい、理性よりも本能が先に動いた。少し頬がふっくらしていて、ビー玉のような瞳をしたその子に、伊織の面影を感じた。女性の方は仕事ができそうな凛々しい人で、着ている洋服や髪型が真央さんにそっくりだった。容姿からして、年齢も今の真央さんと同じくらいだろうか。


 小さな伊織とその女性は、どこかの寺の濡れ縁に座って、こちらに向かってピースをしていた。女性が伊織を片手で抱きしめ、伊織はその女性の横腹に埋もれるようにして笑っていた。そんな写真が、開かれたページにいくつも飾られていた。


 次のページを捲った時、そこに一枚の新聞記事が挟まっていた。


 ――式場送迎バス、トラックと衝突。死傷者多数。

 見出しにはそう書かれてあった。細かい文章の下に、マイクロバスの前方が大破したモノクロ写真が掲載されていた。今から十三年も前の記事だった。


 事故の概要はこうだ。この町から遠く離れた県境の町で、ある家族の結婚式が執り行われることになった。新婦側の親戚や友人はほとんどがこの町に住んでいたので、会場までは送迎バスが利用されることになった。


 当日の朝、参列客を乗せたバスは法定速度を順守して片側一車線の国道を走っていた。ゆるやかな坂を上っていた時、対向車線の乗用車が中央線を大きくはみ出しながら坂を下ってきて、バスと正面衝突した。バスは横転した後、ガードレールを突き破ってそのまま林の中に転落し、その衝撃でバスの運転手を含む前方車両に乗っていた五名の乗客が亡くなった。重軽傷者も多数出て、その後の調べで乗用車の運転手が明け方まで酒を飲んでいたことが発覚した。


亡くなった五名の中に、僕はある名前を見つけた。


「……雅田月子」


 雅田なんて、そんなにある苗字ではない。ということは……。


「伊織の、お母さんよ」


 いつの間にか、居間に真央さんが立っていた。真央さんはボストンバッグとカバンを足元に置いて、真剣な表情で僕を見ていた。


「ごめんなさい。勝手に見てしまって……」


 すると真央さんは頭を振って、いいのよ、と言った。


「あなたに見せるために準備していたのよ」


 真央さんは机の前に座り、アルバムを一枚ずつ懐かしむように捲った。捲られていくページには、今よりも数段元気そうなおばあちゃんや、若かりし頃の真央さんも写っていた。


 ただ、どの写真にも父親と思われる人物は写されていなかった。彼女の母親はシングルマザーだったのだ。伊織やおばあちゃんが、率先してこのアルバムを僕に見せたくなかったのはこういう事情があったからなのだ。


「明日が命日なの」


 そう言って真央さんは、上着の内ポケットから一枚の封筒を取り出した。中には電車の切符が四人分入っていた。


「あなたの都合がよければ、明日みんなで事故現場にお参りに行く予定だったの」


 そんなこと、伊織は一言も言っていなかった。僕が訪問している間も、水面下でおばあちゃんと話し合っていたのだろう。前に訪れた時、机の上にアルバムがあったのはそのためなのかもしれない。

 最後のページまで見終えると、真央さんはアルバムを閉じた。アルバムの表紙には、やはり①と書かれていた。


 その時何かが頭の中で引っかかった。再び新聞記事を読み返し、それが何だったのか理解した。


「どうかした?」

「いえ、別に」


 はぐらかすと、それ以上真央さんは詮索してこなかった。しかし代わりに、あるお願いをされた。


「もしあなたが良ければ、花束を供えに行ってくれないかしら」


 事故が起こってから十三年間、伊織とおばあちゃんは毎年現場で追悼していたが、おばあちゃんの体調を考え、今回で一区切りをしようと話していたらしい。真央さんも明日は休みを取っていたが、二人のそばにいることにしたそうだ。


「分かりました。僕が行きます」

「……ありがとう」


 病院に行っても僕はまだ面会禁止だ。それなら、家で悶々と心配しているよりも何かしらの任務を遂行していた方が良い。


 それから具体的な地名や、駅から乗る路線バスなどを事細かにメモした。ざっと計算すると、電車とバスを乗り継いで片道三時間以上かかる距離だった。


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