(2)
校内に植わっているイチョウの葉が色づき始めた頃、伊織に紅葉を見に行こうと誘われた。場所は郊外にある自然公園で、真央さんが車で連れて行ってくれるらしい。
当日の朝、僕は自宅の最寄り駅で迎えを待っていた。待っている間、駅の敷地内にあるバス停のベンチに座り、鞄の中からこの日の為に購入していた旅行雑誌を取り出した。コンビニで立ち読みした時、たまたま今日行く自然公園の特集が組まれていたのである。
しかし、約束の時間になっても伊織たちはやってこなかった。何度か連絡を入れたがつながらず、僕はそのままベンチに座って待っていた。着信音が鳴るたびに確認したが、すべて不毛なメールマガジンばかりで、彼女からは何の音沙汰もなかった。
伊織から連絡があったのは昼過ぎだった。いつの間にか待ち続けて二時間が経過していた。彼女から着信があった時は、待たされた苛立ちよりも安堵感の方が上回っていた。
『……歩』
受話器の奥から弱弱しい声が聞こえた。明らかに様子がおかしい。
『どうしたの?』
伊織は僕の問いかけには答えず、沈黙の隙間から微かに鼻をすする音が聞こえた。彼女はどこかの建物の中にいるようで、背後からは反響する多くの人の気配を感じた。
『歩、どうしよう!』
僕は伊織を落ち着かせながら事情を確認した。彼女の涙ながらの説明を聞いた後、冷たい手で、突然心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。今朝、おばあちゃんが倒れた。
******
知らせを聞いてすぐ病院に向かった。
その病院は土曜日も夕方まで診療しているということもあり、院内は大変混み合っていた。伊織からのメールを頼りにおばあちゃんの病室へと走っていると、看護婦に注意された。
おばあちゃんのベッドは窓際の左奥だった。病室は四人部屋で、すべてのベッドにカーテンが掛かっていた。病室に伊織と真央さんはいなかった。
ベッドに近づきそっとカーテンを開けると、おばあちゃんが能面のような無表情で眠っていた。傍らに点滴台があり、薬剤の充填されたビニールバッグから伸びた管が、白い布団の中に向かって伸びていた。 おばあちゃんは遠目から見ると、呼吸しているのかどうか判別できないほど生気が感じられなかった。
しばらくして、伊織と真央さんが病室に戻ってきた。伊織はひどく狼狽しており、真央さんに体を支えられていた。
彼女にどんな言葉を掛けるべきか考えていると、真央さんに病室の外へ連れ出された。フロアの中央にこぢんまりとした休憩スペースがあり、自動販売機で真央さんに買ってもらった缶コーヒーを飲みながら事情を聞いた。
今朝自室で眠っていた伊織は、金物や陶器が次々と落下するけたたましい音で目を覚ました。急いで台所に向かうと、そこにはグラスや茶碗、なべが散乱しており、その中におばあちゃんが倒れていたそうだ。声を掛けてもおばあちゃんは意識がなくぐったりとしており、すぐに真央さんが飛んできて救急車を呼び、今まで治療されていたそうだ。
心臓の疾患が原因で、倒れた時に多少の打撲はあったが幸い骨に異常はなく、投薬治療で現在は安定している状態なのだという。このまま三日ほど入院して経過を観察し、異常が見られなければまたもとの生活に戻れるそうだ。
******
その後おばあちゃんは無事に退院したが、その衰えは顕著に出ていた。
今まで手際よくこなしていた家事も満足にできなくなり、台所にも長時間立っていることができず、震える手が何度も皿を落とした。次第に必要な時以外は活動しないようになり、一日の大半を居間に座って過ごし、うつろな目でぼんやりと庭の方を見てばかりいた。
伊織が学校を休むようになったのは、ちょうどその頃からだ。おばあちゃんのそばにいて介抱をしてあげたいそうで、学校にもその旨を伝えてあるらしい。
彼女が休むようになってから、僕はあまり雅田家に行かなくなった。
夕方彼女の家を訪ねても、彼女はクラスメイトから借りたノートを書き写したり、独学で予習をしたりなどで、とても話し掛けられるような雰囲気ではなかった。おばあちゃんの体調は安定しているが、僕が訪ねたことによって気を遣わせるのも申し訳なかった。
それでも、どうしても彼女やおばあちゃんの様子が気になったので、週末雅田家を訪ねた。
インターホンを押すと、中からおばあちゃんの声が聞こえた。いつもは伊織が出迎えてくれるのに今日は来てくれなかった。僕は挨拶をして靴を脱ぎ、居間に移動した。おばあちゃんは座椅子に座ってお茶をすすっていた。
「いらっしゃい。お茶淹れるから待っててね」
「持参しているのでお構いなく。それより、これを」
自宅から持ってきた紙袋をおばあちゃんに渡した。中には北九州の名物であるぬかみそ炊きのパックが入っていた。レトルトカレーのようにお湯の中で温めるだけで食べられるのだ。
「ありがとうねぇ。そんなに気を使わなくてもいいのに」
おばあちゃんは紙袋を仰々しく受け取り、机の上に置いた。
その時僕の目に、あるものが飛び込んできた。机の上にアルバムが置かれていたのだ。それは僕が以前見たものとは別のもので、表紙には①と書かれてあった。
「歩くん。伊織ちゃんを呼んできてくれないかな」
おばあちゃんは二階に目を向けながら言った。もう正午過ぎなのに、彼女はまだ降りてこないらしい。
二階には三つの部屋があり、突き当りが伊織の部屋だった。
ノックしても返事はなく、しばらくドアの前で迷っていたが、おばあちゃんからの依頼だからしょうがないという結論に至り、初めて彼女の部屋に入った。
伊織の部屋は六畳ほどの和室で、驚くほどすっきりとしていた。部屋の隅には年季のある漆色の洋服箪笥があり、その箪笥の上におばあちゃんと植物園で撮った写真が飾られていた。壁には古い時計が掛けられており、その下に高校の制服がぽつんと吊るされている。
その部屋の中心で、ちゃぶ台の上に突っ伏している伊織の姿があった。彼女は部屋着姿ですやすやと静かに眠りこけていた。傍らには肩に掛けてあったと思われるタオルケットがあり、先ほどまで勉強していたのか、机の上には参考書とノートが開かれていた。ちゃぶ台の下には、介護関係の本が数冊散らばっていて、ページのところどころに付箋が貼られていた。
「伊織、おばあちゃんが呼んでるよ」
いくら呼んでも彼女は起きなかった。顔を覗いて見ると瞳は閉じられており、薄く開かれた唇の隙間からかすかな吐息が聞こえた。気を抜いてしまうと見惚れてしまうほどに整った寝顔だった。
「伊織、伊織ってば」
僕はそっと彼女の肩を揺すった。こんなに華奢だったのか、と思った。相当眠りが深いのか、何度揺すっても彼女は目を覚まさず、どうしたものかと考えていた時、グス、という音が聞こえた。
「……ごめんね」
震えるような声で呟くと、彼女は一筋の涙をこぼした。僕は彼女の肩にタオルケットを掛けなおして、部屋を出た。
居間に戻って事情を話すと、おばあちゃんは予測していたような反応で一言、そうかい、と言った。机の上にあったアルバムは、もうなくなっていた。
それから僕は家事を手伝った。洗濯物を取り込んで伊織の物以外を畳んだ後、台所に移動した。流し台の中には鍋やいくつかの皿が置かれていた。おそらく朝食で使った食器だろう。
「伊織ちゃんがね、おばあちゃんは洗わないでって言うのよ」
後ろでおばあちゃんが困っているように言った。伊織はすべての家事を自分一人で請け負おうとしているらしく、おばあちゃんが少しでも自発的にしようとすると怒るらしい。僕はその全ての洗い物を処理した。
昼食がまだということで、早炊き機能でご飯を炊き、鍋の中の味噌汁を温めなおした。持ってきたぬかみそ炊きの準備をしている最中、二階から伊織が降りてきた。
伊織は目をこすりながら、台所に立っている僕を不思議そうに見た。
「あれ、歩。来てたの?」
僕は味噌汁をかき混ぜながら頷いた。すると伊織は僕の隣に来て、流し台にない洗い物を見ると顔をしかめた。
「あなたが洗ったの?」
「うん。おばあちゃんに止められたんだけど」
念のため、おばあちゃんを擁護するように言った。伊織は申し訳なさそうに、ごめん、と言った。
「いいんだ。それに、言っただろう。僕は掃除や料理が好きだって」
伊織が責任を背負い込まないように、意識して明るく言った。彼女は何も言わず、整然と並べられた食器類を見ていた。
伊織に準備を手伝ってもらい、雅田家の住人は少し遅い昼食を取った。ちなみに僕は、家を出る前にきっちり食べてきている。
食事中、伊織は箸を持ったまま度々船を漕いでいた。僕とおばあちゃんがその度に起こしたが、ついに彼女は味噌汁の入った茶碗をテーブルにひっくり返した。
「……ごめん、すぐ片付けるから」
慌てて立ち上がろうとしたが、その時に膝を机にぶつけて悶絶していた。僕とおばあちゃんは互いに顔を見合わせて苦笑いすると、二人で連携して机の上を片付けた。伊織は部屋の隅で、気まずそうにその作業を見ていた。
食事と片づけが終わった後、僕らはそのままテレビを見ていたが、伊織は相変わらず眠そうだった。
今度は机の上のお茶が危険にさらされたので、僕はおばあちゃんの指示で再び伊織の部屋に行き、布団を敷いた。衰弱している彼女を強制的に寝かせて部屋を出ようとした時、いきなりズボンの裾を掴まれて危うく転びそうになった。
「もうちょっと、いてよ」
伊織が駄々をこねたので、仕方なく腰を下ろした。
「いつまでいればいいの?」
「私が完全に眠っていると判断できたら、静かに部屋を出て」
「君のいびきが聞こえ始めたらってことだね」
「失礼ね。私はいびきなんてかかないわ」
「それは君自身じゃ分からないことだよ」
部屋の隅で彼女が寝付くのを待った。時計を見ると、もうすぐ三時になるところだった。実はその時間帯からおばあちゃんと一緒に鑑定番組を見る約束をしていた。
「また、歩の料理が食べたいな」
「もう茄子は勘弁してよ」
「……あの時の歩、おもしろかったなぁ」
僕はちっともおもしろくなかったが、彼女が満足そうなので今回だけは目を瞑ることにした。茄子のはさみ揚げを作ったのはほんの四ヶ月ほど前なのに、すごく遠い昔のように思えた。
しばらく雑談を続けていると徐々に伊織の返答が遅くなり、ついに彼女は何も返さなくなった。吐息が聞こえ始め、ようやく彼女は穏やかな眠りについた。
はだけていた布団をかけ直し、静かに部屋を出ようとすると、今度は服の袖を掴まれた。彼女は瞳を閉じたまま微笑んでいた。
「歩、ありがとう」
僕はその手をそっと離し、布団の中に入れてあげた。部屋を出る時、僕は彼女を見て聞こえるか聞こえないかの声量で、また来るよ、と言って戸を閉めた。