第二章 (1)
暑さが一向に後退の陰りを見せないまま九月の中頃を過ぎた。その頃になると、校内は文化祭の準備で慌ただしく、当日に近付くにつれて毎日少しずつ下校時間が遅くなっていった。
「あっ、月島くんじゃん」
放課後僕がベニヤ板を運んでいる時、カタクリコに声を掛けられた。カタクリコはしばらく会っていない間に、髪の毛が少しだけ伸びていた。飄々とした佇まいは以前のままである。
「月島くんのクラスは何をするの?」
「タピオカを販売するんだ。君のクラスはカレーだったね」
「そうだよ。みんなで仮装して、青いカレーを振舞うのよ」
「よくそんな企画が通ったね……」
すると渡り廊下の方を、伊織がものすごい勢いで走っていく姿が見えた。最近の彼女は特に忙しく、一緒に帰ることも少ない。
いまいち明瞭としなかった僕と伊織の関係も、ようやく友達という枠内に収まったところで、今後について僕は伊織にある提案をした。
おばあちゃんを始めとする世間の目は、僕らのことをこれからもきっと釣り合いの取れていない恋人だと認識するだろう。それをひとたび、本当は嘘の恋愛関係でつい最近本当の友達になりましたと公開したらどうなるだろうか。降りかかる火の粉を想像しただけで恐ろしい。
だから僕は、結論を可及的に求めることを放棄した。今まで通りの関係で世間を偽り、時が経って頃合いになったら再び考えようという結論に落ち着いたのだ。その先延ばし的な考え方は、とてもずるくて卑怯なやり方かもしれないが、一番波風が立たない方法に違いなかった。
何より、おばあちゃんが僕らの本当の関係を知って悲しむ姿は見たくない。だから友達として、おばあちゃんに安心してもらうためのあくまでもボランティア行為だと思い、彼女の嘘の片棒を担ごうと決心したのだった。
「いおちゃん、就職希望って聞いた?」
「まあ、それとなく」
いつかの帰り道、伊織と進路の話をしたことがあった。僕は当初から他県の大学に進学することを決めていたが、伊織は地元で就職をするらしい。
日々の生活の中で、伊織が真央さんに憧れていて、本当は美容師になりたいのだという事は分かっていた。にも関わらず、彼女が進学しないのには事情があるのだ。
夏休みが空けたあたりから、おばあちゃんが体調を崩し始めた。昔から心臓に疾患があったそうで、過去に何度か倒れたこともあったらしい。
この町には美容系の専門学校はないので、進学するならどうしても遠方になってしまう。そのことが彼女の本心に蓋をかぶせているのだろう。喫茶店で彼女が美容系の雑誌を見ている姿を見ると心が痛んだ。
「遠距離になっちゃうねぇ」
カタクリコが、伊織が走っていった方向を見ながら呟いた。そういえばそうだなと、僕はどこか他人事のように思った。
******
文化祭は二日間開催された。伊織やカタクリコ達が夏休みを削ってまで力を注いだだけあって、伊織のクラスの模擬店「漆黒の晩餐会」は校内でもそのクオリティは特に突出していた。
まず目を引いたのは外観だ。
教室の窓全体を覆い隠すように看板が取り付けられ、真ん中の「漆黒の晩餐会」という文字を取り囲むように、和服を着て無表情にこちらを見る少女や、青いりんごを持って不気味な笑みを浮かべる魔女、看板の四方から忍び寄る無数の手などが描かれてあった。
隣の教室との世界がここから変わるという境界線だと示すように、模擬店の前には黒い絨毯が敷かれ、入り口には血文字で書かれた「こちら魔界への入り口」という恐ろしい案内板が設置されてあった。
次に驚かされたのは彼女たちの仮装である。魔界の魔物や幽霊たちが、人間界でオリジナルのカレーを振る舞うというテーマで、クラス全員が大変凝った衣装を着こなしていた。
伊織は金髪のかつらをかぶり、この学校とは違うカラフルな制服を着用していた。口の周りがべっとりと赤く染まっており、シャツがまくられた腕にはグロテスクな歯形が付いていた。シャツは所々飛び散った鮮血でにじんでおり、よく見ると制服も意図的に破られたかのようにぼろぼろで、肩からは同じくこの学校の物ではない通学用のショルダーバッグが掛けられていた。
「これはね、外国のゾンビ映画で、冒頭であっけなくゾンビの餌食になる女の子のコスプレよ。口の周りに血が付いているから、私はすでに誰かを噛んで、その血肉をむさぼっているという設定なの」
たまたま廊下で会った時、彼女は嬉々とした表情でそんなことを言っていたが、僕は恐ろしくて彼女の顔を直視できなかった。彼女は自らが広告塔となり、文化祭の間その姿で自分のクラスの模擬店を宣伝して回っていた。
ちなみにカタクリコは死神の仮装をしていた。暗幕の所々を切り裂いて死装束を作成し、顔にはどこかで購入してきた真っ白な髑髏の仮面をつけていた。T字のほうきを改造して鎌を作り、首から看板をぶら下げて、伊織と同様に広告塔となって校内を漂うような動作で歩いていた。
「月島くん、鎌が重いよ」
本来死神が絶対に言わないであろう弱音を吐きながら、彼女は廊下の壁に寄りかかって休んでいた。しかしその恐ろしい様相とは裏腹に、伊織のクラスの中で一番客に写真をお願いされていたのは彼女だった。
二日目の午後、僕のクラスの模擬店に真央さんとおばあちゃんがやってきた。二人が来てくれた喜びはあったが、僕は目を疑った。
おばあちゃんは車いすに座っていた。真央さんはいつもの黒一色のコーディネートという井出達で、おばあちゃんの座る車いすを後ろから押していた。僕は動揺を悟られないように二人を接客した。
「おばあちゃん、真央さん、いらっしゃいませ」
「歩くん、なかなか販売員が板についているね」
真央さんが冷やかしながら言うと、おばあちゃんもそれに同調するようにゆっくりとした動作で頷いた。
「せっかくだから、ひとつ頂こうかね」
僕はおばあちゃんにメニューを見せた。酸味の強い味がご所望だったので、チェリー味のものを勧めた。おばあちゃんは特に迷うことなくそのSサイズを注文し、真央さんは抹茶ミルクという味のMサイズを注文した
まもなくして出来上がったドリンクを二人に渡すと、おばあちゃんはカップを四方八方から精査するように観察した。
「それにしても、大きいストローだねぇ」
「タピオカが喉に引っかからないように気を付けてくださいね」
僕が注意を喚起すると、おばあちゃんは恐る恐るストローに口を付けた。
「なんか、ゴムみたいだね」
「その食感を楽しむのよ」
「んん……いくらより少し硬いねぇ」
おばあちゃんは初めてのタピオカの食感に舌鼓を打っているようで、その姿を見てひどく安心感を覚えた。九月の中頃から文化祭の準備などで中々会いに行くことができなかったので心配していたが、思ったよりも元気そうだ。
その後、真央さんに一緒に学校内を回らないかと提案された。おばあちゃんは四人で昼ごはんが食べたいそうで、伊織がすでに準備してくれているらしい。ちょうど僕の休憩時間になったところだったので、僕はおばあちゃんの車いすを押して模擬店に向かった。
二人とも伊織のクラスが何をしているのか把握しておらず楽しみにしているようだったが、漆黒の晩餐会の領域に足を踏み入れた時、他のクラスの模擬店とは明らかに違う異様な雰囲気を感じたのか、かなりうろたえた様子を見せていた。
入り口には、店の受付係りと思われる女子が座っていた。どうやらここで食券を購入するシステムらしい。受付係りの女子は浴衣を着用しており、頭には矢が刺さっていた。
受付係の女子に事情を話すと、入り口のドアからゾンビ姿の伊織が現れた。
「おばあちゃん、真央さん、いらっしゃい」
口に血糊をべっとりとつけたその姿を見て、二人は驚きを隠せないようだった。伊織もちょうど休憩時間に入ったらしく、僕らは一緒に昼食をとることになった。
教室の中は全体に暗幕が掛けられてあり、天井の照明は足元が確認できるほどの光量に絞られていた。 二人用から四人用に組み合わされた机の上にテーブルクロスが敷かれてあり、その上に置いてある燭台のろうそくの炎が、不気味な雰囲気を助長するようにゆらゆらと揺れていた。教室の後方は別の暗幕の掛かったパーティションで仕切られており、そのパーティションの裏が出口と厨房を兼ねているようだった。
パーティションの裏からは、様々な妖怪や悪魔が出入りをしていた。僕らは片目がつぶれて、死装束を着た女子に誘導されて席に着いた。彼女は四谷怪談のお岩さんだと思われた。
テーブルには食券の半券が置かれてあり、「マーメードカレー~ドラゴンの呪い仕立て~」と書かれてあった。
しばらくすると、魔女によってカレーが運ばれてきた。テーブルにカレーが置かれた瞬間僕は言葉を失った。暗がりだがそのカレーの異様さは際立っていた。
事前に聞いていたとおりカレーの色は青かった。おまけにカレーの上には、ゆで卵で作られたと思われる目玉が二つ転がっており、充血した二つの眼球が僕をぎょろりと見ていた。
「ずいぶんとハイカラなカレーだこと」
「これは私たちが着色しているのよ」
二人とも特に問題なさそうに食べ始めたので、どういう肝っ玉をしているのかと思った。僕と真央さんはその見た目に萎縮し、なかなかスプーンをつけることができなかった。
「……これちゃんと食べられるの?」
真央さんが声を潜めながら聞いてきた。
「一応、保健所の申請は通っているみたいです」
「生徒会長の圧力でこんなむちゃくちゃなことをしているんじゃないの?」
「彼女ならやりかねますね」
「二人とも。さっきから何こそこそ話してるの?」
伊織は僕と真央さんを訝しむように見つめていた。ろうそくの炎が、彼女の奇怪千万な顔を不気味に照らし、僕と真央さんはごくりと生唾を飲み込んだ。
「歩、食べなさい」
「うう……」
僕は彼女に薦められるがまま、カレーをスプーンですくった。食欲減退の見た目とは裏腹に、確かにカレーの香りがする。一口食べてみると、特に可もなく不可もない、一般的なカレーの風味と味が口の中に広がった。ただこのカレーを食べて、改めて料理とは見た目がいかに重要なのかを再確認したような気がした。
そして真央さんも伊織の迫力に観念して、一口目を食べた。
「真央さんどう? おいしいでしょう?」
「……うん。まあ、おいしいけれども……」
やはり青いカレーというのに抵抗があるのだろう。この見た目から普通のカレーの風味がするのだから違和感があるに決まっている。
僕と真央さんの葛藤をよそに、正面の二人は何事もなく食べ終えていた。
「目玉を充血させようって考えたのは私なのよ」
「へぇ、よく考え付いたねぇ。本物の人間の目玉かと思ったよ」
「人間じゃなくてドラゴンだよ。生け捕りにしたドラゴンの目玉」
「ふふふ。それはおっかないねぇ」
僕と真央さんは、伊織とおばあちゃんの恐ろしい会話を聞きながらカレーをかきこんだ。
食事が終わり、僕らは校内を見学することになった。
教室のある棟から渡り廊下を渡ると、文化部の部室や移動教室のある棟があり、そこでは美術部の作品展示や、英会話クラブによる日常会話程度の英会話教室、視聴覚室で映画研究会による自主制作映画の上映会が行われていた。
それらの作品を見たり、家庭科クラブが主催している手作り体験教室というものに参加して小物を作ったりして、時間の許す限りを楽しんだ。
途中、伊織のクラスメイトがおばあちゃんに話しかけてくることもあった。その度におばあちゃんは一人一人に、伊織ちゃんのことをよろしくね、と言っていた。伊織は恥ずかしそうに頬を赤らめていたが嬉しそうだった。
二時間ほど経過したところで、おばあちゃんと真央さんは帰宅することになった。
おばあちゃんは物足りなさそうだったが、人も多く、おばあちゃんの体調を配慮しての判断だった。
「また、いつでも遊びに来てね」
帰り際おばあちゃんがそう言ったので僕が、必ず行きます、と言うとおばあちゃんは目じりを下げた。
「歩、一緒に回ろうよ」
二人と別れた後、伊織に誘われてそのまま二人で校内を回ることにした。すれ違う人達がゾンビ姿の伊織を驚いたように見ていたり、両親と一緒に遊びに来ていた子供から一緒に写真を撮ってほしいとせがまれたり、お化け屋敷に入ったら逆にお化けの方が逃げ出したりと、今まで経験したことのない出来事が短時間で目まぐるしく起こった。
夕方、各店が閉店作業を始めている時、カタクリコに呼び出された。彼女は首からカメラを掛けており、記念写真を撮ってあげる、と言った。僕は漆黒の晩餐会の看板を背に、伊織と並んだ。
「いおちゃんも月島くんも、もっとひっついて」
カタクリコに言われるがまま僕らは距離をつめた。すると伊織は自然な感じで僕の腕に自分の腕を絡めてきた。驚いて伊織を見ると、彼女は血みどろの顔でいじらしく口角を上げていた。絡めていないもう片方の腕を伸ばし、カメラのファインダーに向かってピースをしている。
「月島くん、顔が引きつってるよ。リラックスして」
僕はできる限り笑う努力をした。まもなくシャッターが押され、僕は生まれて初めてゾンビとのツーショット写真を撮った。そんな風にして、あっという間に文化祭は終了した。