(11)
一仕事終えた後ということもあり、僕は他人の家だということも忘れて夢中でスイカを食べた。三つ目のスイカを取ろうとした時、おばあちゃんの視線を感じ我に返った。
「すいません。こんなに食べちゃって」
おばあちゃんは優しく笑いながら、いいのよ、と言った。
「伊織ちゃんもね、スイカを食べる時は夢中になって食べるの」
僕は伊織がスイカを食べている場面を想像した。伊織のことだ。自分の分だけでは満足できず、おばあちゃんの分まで食べてしまうのだろう。僕は何度も彼女に、自分が食べたり飲むはずだったものを盗られている。
その時突然、遠くの空から何かが墜落したような音が聞こえた。
「降ってきそうだね」
おばあちゃんはかじりかけのスイカを置いて、縁側の窓を閉めた。そして取り込んだ洗濯物を一枚ずつ畳み始めた。
「僕もやります」
「味噌作りで疲れたでしょう。ゆっくりしていて」
「いや、でも」
「伊織ちゃんの下着もあるのよ」
それを言われたらどうすることもできない。おばあちゃんはしてやったり顔で、ふふふっと笑った。
雷の音が少しずつこちらに近づいてきて、数分もしないうちに激しい雨音が聞こえ始めた。あの日と同じくらいの勢いを持ったひどい雨だった。
つけっぱなしのテレビで、速報が流れた。この町に大雨洪水警報が発令されたらしい。伊織はちゃんと、傘を持って行ったのだろうか。
「伊織ちゃんのことを、考えているんでしょう」
機械的な速度で洗濯物を畳みながら、おばあちゃんが言った。
「いえ、別に……」
「嘘おっしゃい。私は騙せないよ」
おばあちゃんは自信たっぷりに言った。動揺を表すように、雨脚がさらに強くなる。軒先から落ちる雨だれが、脈打つように聞こえた。
「伊織ちゃんと会うのが怖いかい」
「……はい」
おばあちゃんの言う通り、伊織に会うのがどうしようもなく怖かった。それは彼女が僕を威圧する時に感じる戦慄の走る怖さではなく、何かを失うような得体の知れない怖さだった。
僕の葛藤を見抜いたのか、おばあちゃんは労うような表情で、俯いている僕の顔を覗き込んだ。
「歩くんは伊織ちゃんと似ているね」
「……伊織さんと、僕が?」
そうだよ、と言っておばあちゃんは頷いた。
「同じ質問をした時、伊織ちゃんもそんな顔をしていたから」
おばちゃんは力強い瞳で僕を見つめながら言った。その目は伊織が度々見せる、あの意思の強そうな瞳と重なった。すべて見透かされている、と思った。
家を包み込む雨の膜が、薄くなってきたように感じた。地面を叩く水の礫は、起伏のない一定のリズムを保っていた。雨だれの間隔も、最初より長くなっている。
ふと、おばあちゃんは緩慢な動作で窓を少しだけ開けると、曇天の空を見上げた。
「伊織ちゃん、遅いねぇ。昼には帰ってくるって言っていたんだけど」
おばあちゃんが、わざとらしいため息を吐いた。時計はいつの間にか三時を過ぎていた。昼間だというのに、電気を点けないといけないくらい暗かった。
「雨の日は関節が痛くって、迎えにいけそうもないねぇ」
困ったねぇ、と棒読みで言いながら、おばあちゃんは腰をさすった。
「……もう、僕が行きますよ」
するとおばあちゃんは、目じりをいやらしく下げ、本当かい? と言った。実に白々しい態度である。
玄関で靴を履いていると、おばあちゃんに傘を渡された。しかし渡されたのは一本だけで、靴箱の横にある傘立てにはあと二本傘がささっている。
「そこのは、穴が開いているから使えないのよ」
僕の疑いのまなざしで気づいたおばあちゃんが、弁明するように言った。二本のうち一本にはまだ値札が付いているが、果たして本当に穴など空いているのだろうか。
「気を付けてね」
「はい」
玄関を開けると、湿った空気と、風に連れてこられた微細な雨粒が頬にぶつかった。鈍色の空を見ると、不思議と伊織との諍いがあったあの日に、立ち返ったような気がした。
僕はおばあちゃんに一礼して玄関を出た。少しだけ歩いて振り返った時、おばあちゃんはゆらゆらと手を振って微笑んでいた。僕はまた一礼をして、今度は振り返らずに学校に向かった。
あの日、伊織に対してどうしてあんなにも怒ってしまったのか。それは単純な嫉妬だけではない。それは今心の中で確認するのではなく、伊織に対して言わなければならない答えだった。
伊織は怖がりながらも、僕と話し合いの場を設けようとしていたのに、いつだって僕は聞く耳すら持たなかった。そんな罪の意識が、僕の足を動かしていた。気になることや知りたいことは山ほどあったが、今はどうでも良かった。
胸の中に取り返しのつかない罪悪感が広がっていて、五体投地で一刻も早く謝りたかった。そんな思いが、歩く速度を速めた。履いていたチノパンの裾も、靴下も靴も濡れてしまったが、本当に濡れているのはそんな場所ではなかった。
校舎に足を踏み入れた時、飛散している落ち葉や風の音もあの日と全く同じように見えた。自然と傘を持つ手に力が入り、僕は昇降口へと歩いた。通路は閑散としており、校舎の窓には明かりが一つもついておらず、下駄箱の照明だけが頼りなく灯っていた。
その昇降口の屋根の下に、伊織がいた。
伊織はずっと空を見上げており、雨が止むのを待っているようだった。その姿を見て、急激に脈が速くなった。
僕は傘で自分の顔を隠しながら昇降口に向かった。伊織が一度だけこちらを見たが、すぐにまた空を見上げた。
彼女の顔が鮮明に見える位置で、立ち止まった。ゆっくりと顔を上げると、雨の壁をはさんで、そこで伊織と目が合った。彼女は僕を視認すると、息を呑むような表情を浮かべた。
「え、歩? なんで……」
「……迎えに来たよ」
伊織と目を合わせずに言った。彼女はことの状況がつかめていないようだった。
そういえば何故、こうもタイミングよく彼女はこの場所に立っていたのだ。雨宿りするなら、室内でも大丈夫なはずなのに。
「あれ……おばあちゃんが真央さんと一緒に来るって言っていたんだけど……」
そういうことか、と思った。つまり、僕が学校に着くタイミングに合わせて、おばあちゃんが伊織に電話をしたのだ。とんでもない知将である。
「おばあちゃんに、君を迎えに行くように言われたんだ」
「そう……」
気まずい沈黙が流れた。雨の音だけが僕らを包み込んでいた。誰もいない校舎に、あの日の僕らが取り残されているようだった。止まっていた時間が再び動き出した。
「あの、歩。あの、ええと……」
彼女は突然の出来事をうまく処理できていないようだった。こんな狼狽した彼女の姿を見たことがあるのは、きっと僕を含めたごくわずかな人間だけだろう。
「話したいことがあるんだ」
僕は彼女の隣に移動して、傘を畳んだ。伊織が緊張した面持ちで、ちらちらと僕を見ていた。
「君と離れてから、いろいろ考えた。今までのこと、これからのことを」
彼女と目を合わせることができなかった。それは人見知りや女性に対する耐性などが起因しているものではなく、胸の中にとめどなく広がる罪悪感がそうさせた。
「君と出会って、僕の生活は変わった。使い走りにされることもなくなったし、男子たちにへこへこしなくても良くなった。でも、良いことばかりじゃなかった」
隣で伊織がゆっくりと頷くのが見えた。まだ彼女の顔は見れない。
「大変な思いや辛い思いもした。全部君のせいだって思った。でも、よく考えたら違ったんだ」
カーテンが揺れるように雨が降っており、水のベールが僕らをこの場所に閉じ込めているようだった。校舎にはきっと僕らしかいなくて、外界の喧騒と隔絶されたこの空間だけが別の時間軸の上にあるかのように、ゆっくりと時が流れているような気がした。
「好転反応って、知っているかな」
伊織はしばらく考えて、無言で頷いた。好転反応とは、例えば体が何らかの症状に侵されていて、薬を飲んだり治療をした際に、体がそれに抵抗したり、薬の効果で毒が出たりして一時的に体調が悪くなるという現象である。
「僕は今までの生活が正しいと思っていた。誰にも干渉せず、干渉されない。そんな未来で良いと思っていた。でも、君の荒治療のせいでとんでもない反応が起こったんだ」
いつの間にか、うつむきがちに彼女がこちらを見ていた。僕は深呼吸して、自分なりの答えをまとめた。
「……僕は、君とちゃんと友達になりたかった。でもいろいろな場面で、僕と君の関係が嘘だということを思い知らされた。ずっと、君とは釣り合わないって気持ちもあったから、そんな弱い気持ちがそうさせたんだと思う」
伊織の秘密を知っている井坂に対しての単純な嫉妬ではない。そもそも出会った時から、彼女の家庭の事情など僕にとってはそれほど重要でもなければ、どうしても知っておかなければならないことではなかった。
彼女に秘密があっても、僕らはうまくやっていた。諍いが起こる前まで、少なくとも僕は充実した日々を過ごしていた。
苛立ちの原因は、外交的になろうとしている僕と、内向的に収まろうとしている僕の葛藤だったのだ。ずっと、求めてはいけないと思っていた。伊織とちゃんとした形のある「人間関係」になるということを。
深呼吸して、彼女に向き直った。目の前で伊織が、形の良い瞳で僕を見ていた。.それはいつものように力強い視線だったが、瞳はわずかに潤んでいるように見えた。
その瞳で、彼女はいつも僕を見てくれていた。僕が去った時も最後まで見捨てず、ただの契約上の一人としてではなく、一人の人間として向き合おうとしてくれた。
「ごめんなさい。君のことを、ずいぶんと苦しめてしまって……」
僕は頭を下げたまま、彼女の顔を見ることができなかった。鼻の奥がつんとしていて、油断したら泣きそうだった。誰かに対してこんな気持ちで謝るのは初めてだった。
「顔を上げて」
微かに震える声が頭上から降ってきた。視線を上げると、彼女も泣きそうな顔で僕の事を見ていた。
「私もずいぶんと考えたよ。私のわがままで、あなたの事を振りまわしてしまった事や、配慮に欠けていたことを」
でもね、と言って伊織の目つきが険しいものになった。
「もとはといえば、あなたが私に嘘の告白をしてきたことにも原因があるなって、思ったの。それは分かるよね?」
僕は頷いた。そもそもの元凶は、僕の浅はかな行動から始まっているのだ。巻き込んだのは僕の方でもある。
「私はあなたを利用していた。あなたも私の気持ちを弄ぼうとした。でもそういうことって結局、どっちが先にしたかとか、どっちの罪が重いのかって話しても、何も解決しないのよね」
いつしか僕は、叱られる子供のような態度で彼女の話を聞いていた。
「罪を擦り付け合っても仕方ない。大事なのは、お互いを見つめ合うことなんだって、気付いた。でも、あの日あなたがあんな風に怒らなかったら、私もきっと気付かないままだった。自分の行いにも、あなたの気持ちにも」
その声は、雨音の中でも縁取りされているように鮮明に聞こえた。
そして彼女は姿勢を正し、僕の目をまっすぐに見た。
「歩がこれからどうしたいのか、聞きたい。どんな答えでも、ちゃんと向き合う努力はするから」
彼女の瞳は溺れそうなほどに澄んでいた。僕がもうおばあちゃんをだますようなことは辞めたいと言ったとしても、今の彼女ならそれを受け入れてくれるだろう。ただ、その答えもすでに僕の中で出ていた。
「君のことが知りたい。そして、ちゃんと君の友達になりたいんだ」
伊織は僕の言葉を予見していたかのように微笑んだ。たまに彼女が笑っても、いつもは羨望のまなざしというフィルターが掛かっていたので、憧れに近い感情でしか見ていなかったが、彼女がこんな風に愛らしく笑うということに、僕は初めて気づかされた。
「私も、歩のことが知りたい。そして、あなたの事を利用するんじゃなくて、ちゃんと何でも話せる友達になりたいよ」
その瞬間に、彼女の目じりから一筋の涙が零れ落ちた。彼女は鼻をすすりながら、たまった涙を手の甲でごしごしと拭った。
「私も、いろいろあなたを悩ませてしまってごめんなさい。でも、こんな私でよかったら、今日から友達になってほしい」
伊織は照れくさそうに笑うと、手を差し出してきた。僕はその繊細で柔らかな手をそっと握った。温かな塊が握り合った掌の中で生まれ、それが指先から体全体によどみなく広がっていくようだった。
「帰ろうか」
「うん」
傘を広げると、彼女が自然な動きで中に入ってきた。僕らは互いに照れ笑いを浮かべながら目を逸らし、校門に向かって一歩を踏み出した。肩が触れ合って緊張したけれど、とてもすがすがしい気持ちだった。
偽りの関係とはいえ、僕らは根底になくてはならないものを持ち合わせていなかった。それは思いやりだったり、信頼だったり、逆に相手の悪いところを知ることであったり。僕らは人間関係を築く上で必要な、礎を作るという重要な行為を怠ったのだ。しかし今日、僕らはようやくスタート地点に立った。出会ってから随分と時間が経ったけれど、やっとお互いの心に土台になる石を埋め込んだのだ。
いつか彼女が、自身の事情を話す時が来たら真摯に耳を傾けよう。話したくないならそれでいい。どんな事情があろうとも、彼女が魅力ある女性であることに変わりはないのだから。
「お腹空いたなぁ」
「クロワッサンでも食べようか」
「それってまさか、駅のあのパン屋さん?」
「そうだよ」
「あのクロワッサン、歩も好きだったの?」
「まあね」
彼女の声が聞こえる。その声は、僕の心の中にかすかに残っていた毒素を排出していくようだった。雨は次第に止みつつあったけれど、もう少しだけ降っていて欲しいと心の中で願った。