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その傘をはずして  作者: L.Y
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(10)

 夏休みは残り一週間で終わろうとしていた。

おばあちゃんは元気だろうか。一人でご飯を食べながらそう思った。


 市販の浅漬けを一口食べるが、やはりおばあちゃんが作ったものの方がおいしいような気がした。三人で食事をしているとき、伊織は楽しそうにどうでもいい話をしていた。そんな日常の一こまが、郷愁を覚えるような気持ちにさせた。


 伊織から借りていたハンカチを見つけたのは、ちょうどそんな時だった。屋上で告白した時から借りっぱなしで返すのを忘れていたのだ。

 もしかしたら伊織は、僕にこのハンカチを渡したことすら忘れているのかもしれない。ただ、人から借りたものを借りっぱなしにしておくことに罪の意識を感じた。


 そこで僕は正直に、自分の胸に手を当てて聞いてみた。

 感じているのは罪の意識か。いや、違う。僕はきっと、伊織に会うための口実を探していたのだ。その口実が、このハンカチなのだ。


 どっちにしろ、あと一週間ほどでいやでも学校で顔を合わせることになる。どんな結果になろうとも、早いうちに彼女と向き合わなければならない。せっかくのきっかけをおざなりにしてはいけないと、僕はハンカチをポケットに入れ家を出た。


 雅田家に着いた時、生垣の外から縁側が見える場所に移動し、泥棒さながらの綿密さで生活の気配を感じ取ることにした。もし、客人が来ていた場合は日を改めたるつもりだった。


 しかし背伸びをして生垣から顔を出した時、庭で洗濯物を取り込んでいたおばあちゃんと目が合った。数秒間目を合わせた後、おばあちゃんは目を細めながらこちらに近づいてきた。


「あらぁ。歩くんじゃない。そんなところで何をしているの?」

「ええと、その……」


 その場をごまかすように、へらへらと笑うことしかできなかった。これが他人の家だったら完全に不審者だ。


「そんなところにいないで、中にお入り」

「はあ」


 玄関から家に入り、そのまま庭の方に回るとおばあちゃんは何事もなかったかのように洗濯物を取り込んでいた。縁側には大量の衣類が無造作に置かれていた。


「あの、手伝います」

「いいのよ。ゆっくりしてて」

「でも、二人でした方が早く終わりますから」


 僕は半ば無理やりにおばあちゃんを手伝った。物干し竿には伊織の制服も掛けられており、以前洗濯を手伝った時に私の物には触らないでと釘を刺されていたことを思い出した。僕の中でその公約はまだ生きており、僕は制服から目を逸らしてタオルやまくらカバーなどを取り込んだ。


 取り込み作業を終えると、まるで命を救ってもらったかのような丁寧さでおばあちゃんにお礼を言われ、家の中に通された。作業をしながら目を配らせていたが、どうやら伊織は不在のようだ。残念な気持ちと安堵感が同時に胸に広がった。


 居間で待っていると、おばあちゃんが麦茶を持ってきてくれた。


「あの、伊織さんは?」

「朝から学校に行っているよ」 


 恐らく、文化祭の準備か生徒会関係だろう。それにしても夏休みも終盤に迫っているのに、彼女は忙しすぎやしないか。


 おばあちゃんはテレビをつけて天気予報を見始めた。現在の大気の状態は非常に不安定で、言われてみると確かに一雨来そうな空模様だった。湿気を含んだぬるい風が縁側の軒先に吊るされている風鈴を揺らし、鈴虫の声のような音が通り過ぎていく。古い壁時計が二時を知らせる。


 おばあちゃんが一呼吸おいて、麦茶を一口飲んだ。グラスの中の氷が崩れる音がした。


「今から味噌を作るんだけど、ちょっと手伝ってくれないかな」


 帰るタイミングを見計らっていると、何の脈略もなくおばあちゃんが言った。味噌まで手作りなのかと思った僕は、少し興味があったこともあり手伝うことにした。


 台所に移動すると、鍋に火がかけられていた。おばあちゃんは鍋の中に入っている大豆を一粒箸でつかむと、それを指先でつぶした。煮加減はいい按配で、続いておばあちゃんは茹で上がった大豆をざるにあげた。煮汁も後で使用するそうで、ざるの下には煮汁を受け止める別の鍋が敷いてあった。

 その後冷水で大豆の温度を少し下げ、用意していたすり鉢の中に大豆を投入し、すりこぎでゴマをするように大豆をごりごりと潰し始めた。


 おばあちゃんの手際を観察していると、やってみるかい、と聞かれたので僕は作業を手伝った。粒が残らないよう、ペースト状になるまで大豆を潰さないといけない。僕はしばらくの間、無心で手を動かし続けた。


「なかなか手際がいいわねぇ」

「おばあちゃんほどでは」


 その後、麹と大豆を混ぜ合わせ、煮込んでいた大豆の煮汁を全体にまんべんなくいきわたるように流し入れた。それを再びもちをこねるように下からすくい上げて、上から押さえつけながら混ぜ合わせる。この工程は約六十回繰り返さなければならない。


 いつしか僕は、指示を受けながらほとんどの作業を請け負っていた。初めて触る味噌は、やわらかい粘土のような感触だった。

 味噌をこねながら、伊織のことを考えた。虫除けや生ごみの消臭剤を作ったときも、きっと今のようにおばあちゃんがそばにいたのだろう。その光景は想像するだけで微笑ましいものだった。


「歩くん、どうしたの?」


 いつのまにか手が止まっていたようで、おばあちゃんに尋ねられた。


「おばあちゃんは、何も聞かないんですね」


 おばあちゃんは、何のこと? などとは言わなかった。ただ、意味深にふふふっと笑うと、味噌をこねるのを交代した。


「伊織ちゃんがこねるとね、いつも大豆と麹がうまく混ざらなくて、二度手間になっちゃうのよね」


 おばあちゃんは両手で力強く味噌をこねながら言った。ちなみに、麹と大豆がちゃんと混ざり合わないとその部分だけが腐ってしまうらしい。


「混ざり合うって、大変よね。完全にひとつのものになるには、それ相応の時間と労力が必要なんだもの。同じ器に入れて、適当にこねくり回すだけじゃ、腐っちゃうだけなのよ」


 おばあちゃんは手首で額に浮かんでいた汗を拭った。


「おいしくなあれ、おいしくなあれって、心をこめながらこねないとだめよ」


 そう言っておばあちゃんは、再び意味深な笑みを浮かべた。遠まわしだが、含蓄のある言葉とその笑みの中に、おばあちゃんの言いたいことが集約されているように思えた。


 おばあちゃんはこねた味噌の感触を確かめた後、そのまま味噌をボールの中で押し固めた。それをおにぎりくらいの大きさに握ってほしいと指示されたので、おばあちゃんの手つきを真似ながら僕も味噌を握った。握るというよりも空気を抜く作業で、これを怠ると味噌の中に空気が入り、カビが発生する原因になるらしい。


「伊織ちゃんは学校で問題を起こしていない?」

「問題は……」


 伊織は優等生なのでおおっぴらな問題は起こしていないが、僕と彼女は、現在筆舌しがたい問題の渦中にいる。


「特に、ありませんよ」


 声は震えていなかっただろうか。おばあちゃんの様子を見ると、どうやら悟られていないようだ。


「伊織さんは、先生にも生徒にも信頼されていますよ。昔からそうだったんでしょう?」


「ふふふ。実はね、あながちそうでもないのよ」


 味噌を手早い動作で握りながら、おばあちゃんは少しだけ昔話をしてくれた。

 それは伊織が小学三年生になったばかりのことだった。


 おばあちゃんは伊織にせがまれ、授業参観に出席することになった。参観日当日、教室には若い父兄ばかりいて、おばあちゃんの居心地はすこぶる悪かったらしい。それでも伊織は、おばあちゃんが学校に来てくれたことをとても喜んでくれたのだという。


 しかし、事件は授業中に起きた。ある男子生徒が、伊織のことを馬鹿にし始めたのだ。その男子は、クラスの友達は皆両親のどちらかが出席しているのに、何でお前のところはばあちゃんなんだよ、というようなことで伊織を揶揄した。小さな火種は瞬く間に教室内に広がり、後ろに立っている父兄も伊織とおばあちゃんを見てこそこそと話していた。


 孫に辛い思いをさせたくなかったおばあちゃんは、伊織を連れて教室を出ようとした。そこで思わぬ事態が起きた。

 突然立ち上がった伊織は、担任が黒板に書いた十個の問題のうち一問だけを残し、残り九問すべてを鮮やかに解いたのだ。そして先ほど自分のことを揶揄した男子のところに行き、こう言った。


 ――私やおばあちゃんを馬鹿にするのなら、こんな問題だって簡単に解けるんでしょうね?

 クラスが静寂に包まれた。担任も新任だったようで、今の状況を終息させることができずに固唾を呑んで伊織の行動を見入っていた。


 皆の注目を集めたその男子は、ゆっくりと立ち上がり、版書してある最後の一問を解こうとチョークを持った。しかし彼は教壇に立ったまま微動だにせず、終いには足を震えさせながら先生に、分かりません、と言って席に戻された。


 伊織の反撃はそこで終わらなかった。彼女はこの機を逃すまいと、再び彼に牙をむいた。


 ――よくもまあその悪い頭で、私やおばあちゃんのことを馬鹿にできたわね。あなたがどれだけ恵まれているか知らないけど、私はあなたに負けることはないでしょうね。きっと、これから先もずっと。


 周囲から奇異の目で見られていた伊織は、誰もが目を伏せてしまいたくなるような絶望的な状況で起死回生の一手を打ち、目障りだった男子を断罪したのだ。


 それから伊織は、勉強以外でも誰もがやりたがらなかった飼育小屋の掃除や、学級委員などを率先して行い、強いものに対抗し弱いものに手を差し伸べた。彼女がクラス内で絶対的な地位を確立せるのにそう時間は必要なかった。


 おばあちゃんの話を聞いて、現在の確立された彼女のキャラクターの片鱗を垣間見た気がした。同時に、そんなに幼い頃からおばあちゃんと二人暮らしをしていたということに疑問を感じた。でも、おばあちゃんにそのことは言わなかった。なんとなく、聞いてはいけないような気がしたのだ。


 味噌を団子状にし終えると、それをひとつずつパッキンが付いている袋に入れた。空気の層ができるとカビが発生する原因になるので、隙間ができないよう押しつぶしながら、袋に塗り固めるように入れなければならない。団子の味噌をすべて入れ終わったら袋から空気を抜き、パッキンを絞めて作業終了だ。


「やっと完成ですね」


 額の汗を拭いながら言うと、おばあちゃんが、完成は最低でも半年後だよ、と言った。


「そんなに待たないといけないんですか?」

「発酵させないといけないからね」


 袋に入れた味噌は冷蔵庫に入れず、人と一緒の生活圏内に置いておかないといけないそうだ。時間が経つと徐々に水分が出てくるので、袋をずっと置きっぱなしにせず、こまめにひっくり返してその水分を味噌全体に浸透させなければならない。発酵が進むと袋が膨らんでくるので、空気を抜いてカビの発生を防止する必要があるのだ。


「勉強になりました。ありがとうございました」

「こちらこそ、手伝ってくれてありがとうね。休憩しましょうか」


 その後僕らは居間でスイカを食べた。スイカはよく冷えており、一口かじるとみずみずしい食感と、夏を実感させる甘さが口の中に広がった。


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