日記「政治にしか期待できぬうつけども」
久しぶりに、香奈、頭をよくしてあげよう(筋肉少女帯)が脳内で流れ始めた。はっきり言って俺は、優しい人間じゃない。オーケンのように優しくはない。ムカついている。まあ、このむかつきも、すぐに収める。勢い任せに書いた。正直、細かい校正などしたくはない。この話題はこれでおしまいにしたい。
ジャムパンもぐもぐ食べて、それでみんなが幸せならそれでいいよ。
多くの政治を(熱く)語る若者たちが、実は、自分たちのことしか語っていない事実を知らない。
自分たちが自分たちの利益のみ執着して政治を語っているって事実を知らない。
若者だけではないよ。
「学費無料」を訴えるのは誰だ?子育て世代や学生だ。が、「本当に」この世界の問題はそれだけなのか?
「自殺者対策」云々を訴えるのは、鬱々としていて死にたくて死にたくてたまらないやつらなのだろうか?
しかし、「本当に」この世界の問題はそれだけなのか?
目に見えない犯罪がどれだけあるか、考えたことがあるのだろうか?
僕はこの選挙で山本太郎さん、大西つねきさんを応援していた。大西さんは今でも応援している。
が、僕は彼らに対して不満がある。
僕は寡聞ながら、政治家誰一人として「性的暴力0」を訴えている掲げている、事実を知らない。
ネットでちょろちょろと検索してみたらいい。レイプ動画などすぐに見つかる。
レイプ事件の検挙者数=強姦魔ではなかろう。罪に問われない、強姦なんていくらだってあるよ。
本当に、高校の学費無償と、強姦被害を天秤にかけて、学費無償の方が大事なのかな。
以上に提示した「強姦」は、一つの例であり、似たような問題は数多ある。児童虐待しかり。
罪と問われなければ、強姦ではないのか?発覚しなければ、公的機関が介入しなければ、児童虐待ではないのか?
所詮、金金金、金が欲しくて、政治に熱を上げる馬鹿ども。政治家も投票者も、投票を呼びかけるやつらも。
金がなければ幸せになれないなら、たぶん、僕たちの世代は、死ぬまで不幸せだろう。
政治の目的が人々の幸せであり、政治が手段に過ぎないのなら、政治という手段を飛び越えて、幸せになることも可能ではないのだろうか。
っと、本文並みに長々と書いてしまった。
後書きに続く。
政治にしか期待できぬうつけども。
どうにも、今の僕は性格が悪い。性格が悪くなっているという前提で読んで欲しい。大した文章じゃない。
以下、想定される現政治への要求に対する僕なりの処世法を乱雑に書く。ぎゃあぎゃあわめくあかりの阿呆どものために書く。政治が期待に応えてくれないからといって、それで生き延びること(処世)を諦めるくずどものために書く。
高校授業料が高い。高校授業料無償化して欲しい
→高校など行かなければ良いではないか。高卒認定資格の受験料はたかが数万じゃないか。ばかか?
補足、高校の目的は大学レベルの教養を学ぶための土台作り。目的を誤るな。なんのための高校なのか。高校程度の学力さえ獲得証明できれば良いだけじゃないのか。そのための方途が高等学校似通うこと→そのための金がない、という発想しかなぜ生まれない?
想定される指摘。
高校に通わない→同世代との人間関係が築けない。
人間関係など人と人がいれば、築きうるものだ。逆に、具体的な場所の共有がなければ繋がり合えない人間関係ほど貧相な人間関係もあるまい。家族か。人とつながり合う方法ならいくらでもある。
奨学金が重たくて未来の見えない大学生の気持ち考えたことないんですか?
と先日言われた。考えたことなどないばかめ。
大学の無償化がなかなか実現しないという現実に対しても、上と似たような処世法が可能である。大学など行かなきゃいいだろ。目的を誤るな。大学の目的は教養人になることだ。それ以上でも以下でもない。
また、大学を経て、研究者など専門職になりたいなら、勝手になればいい。今すぐ研究しろばかめ。
保育士資格を取得できないからといって、幼児と関われないとでも思っているのか?貴様は、保育士になりたいのか?それとも、幼児の健やかな成長を見守りたいのか?どっちなのだ?くずが。
教職免許を持っていないからといって、少年少女の健やかな成長を見守れないとでも思っているのか。ばかが。
深夜のコンビニでアルバイトをしていたことがある。その際、明らかにリストカット跡のある子が客としてやってきた。他の同僚は、誰一人気がつかなかった。学校の先生や福祉課の公務員では掬い取れない何かが彼女の生活にはあるのではないか。俺はその際彼女に対しなにひとつできなかったけれど、
医者になりたいなら、今すぐ医学書を買って読め。ばかめ。
そもそも、放送大学など、卒業まで入れて70万相当ですむ大学もある。さまざまな選択肢がある。学費補助してくれる海外の大学もある。自分自身で選択肢を狭めておいて、政治家でもない俺に、なに、不満ぶつけているのだ。くずが。と内心思うのであった。
この世の中にある、すべての社会的サービスなど、ほぐしてほぐして、煎じつめて煎じつめて考えれば、所詮、人と人との関係の集積だ。人的ネットワークだ。人的ネットワークに対して大学だの、高校だの、政府だの、会社だの、と名付けているに過ぎない。
人的ネットワークなど人と人とが複数人いて、言葉を交わし合えば、ただそれだけで組みあがり自然発生するものに過ぎない。
わかりやすい例を挙げれば、新聞記者と知り合いで、ちょくちょく情報交換していたなら、そもそも新聞など読む必要がない(と言い切ることはできないが、まあ、言いたいことはわかるだろう)。
人と人とろくすっぽ繋がり会おうともせず、政治にばかり期待しているクズども。
大学や高校へ行けない、あるいは、金銭的にあれこれあるなら、なにか大学や高校とは異なる人間関係を模索すればよいではないか。少なくとも俺は、大学諸島程度の仏教哲学くらいなら(かなり偏りあり、また、プロの学者ではないが)伝えられる。くずが。
政治とは何か?手段に過ぎないじゃないか。目的を誤るな。
目的とは何か。みんなで幸せに暮らしたい。人生を全うしたい。その程度のことじゃないか。それ以上の目的があるのか?教えてくれ?教えらたそばから、それは貴様の煩悩だろう?と切り捨ててやる。医者になりたい?高級官僚になりたい?はあ、それお前のためじゃねえか、お前の自己実現など知るか。阿呆。と言い捨ててやる。クズ野郎。
貴様ら何か勘違いしてないか。目的を誤るな。政治は一手段に過ぎず、政治に裏切られて悲しくてうじうじしてんじゃねえ。阿保が。
俺はどうにも、勘違いされる。別に悪意があって以上のような言葉を吐き散らしているわけではない。
そもそも、貧困問題など、実は、一発で解決可能である。
阿保みたいな提言であるが、「街路樹に植生植物を植えろ。そして、誰でも自由に食せることにしろ。」これで済む。
人間、食う寝るところがあれば生きていける。その上で、豊かな人間関係が築けたら、幸せに、生きていける。
寝るところはたくさんある。現在日本には、少子化が進む一方であり、今後空き家はどんどん増えるだろう。寝る場所くらいいくらでもあるのだ。
じゃあ、あとは食い物だ。街路樹に柿の木やらいちじくやら、ほったからかしにしておいても、自然身を結ぶ植物を植えまくればいい。おそらく、日本中の果樹園がぶっつぶれるだろう。が、それもそれでよいではないか。みんなが金がなくてもたらふく食えたらそれで貧困はなくなる。
俺はそこそこ田舎に暮らしているが、そこら辺の山に普通に柿の木が実っている。にもかかわらず、スーパーには種無しがきが並び、それらを阿呆どもは買い漁る。タダで手に入るもの無視して、金を使い、やれ、金がない、やれ、奨学金が、阿呆ではないか。もっと賢くなれ。くずが。
たぶん、俺はこの文章を書くことで、もしかしたら、何人かの人間関係が崩れてしまうのかもしれない。というより、このような文章を書きたくなったのは、どうにも嫌な言葉を吐き散らされたためであった。だが俺は大人なので、彼女に対しては直接、不満をぶつけることはない。彼女は、はっきり言って、阿保なのだろう。阿保は悪くない。が、賢くなってほしい。
香奈、頭をよくしてあげよう。
この世界は残酷だよ。
せめて、彼女の頭が、よくなりますように。
後書きに続く、と前書きに書いたのだが、まあ、特に書きたいことはない。
というより、本文書いて前書を書いた時点でもう、これ以上書きたくないな、と思った。
伝えたいことは全て込めたつもりである。
が、続けよう。
僕は、山本太郎さんのいくつかの政策について、それはちょっと違うよ、と思っていた。
が、「あなたを幸せにしたいんだ」というメッセージだけは諸手を挙げて賛成した。
そして、多くの方がこのメッセージを受け取ったのだと思う。
なら、そのメッセージに共感したなら、僕たちが取るべき行動規範はもう決まり切ったも同然だろう。
あなた=あなた、なのだ。つまり自分自身。自分自身が幸せになることが、「あなたを幸せにしたいんだ」への真っ当な応答だろう。幸せになれよ。と思う。そんな「たかが」支持政党の全面敗北ごときで、そんな落ち込むなよ。金がないからなんだ。周囲が政治に関心がないからなんだ。大人を信頼できないからなんだ。そんなこと関係なしに幸せになれよ。ばかめ。とこの文章を読まないであろう彼女に対して思う。
というか、ここの文章見せたら、たぶん、ヒステリカルな返答が返ってくるだろうなあ。
そして、また、「あなたは、そうやって知識人ぶって」などとこちらの心を抉るような言葉を吐くのであろう。いや、俺のどこが知識人やねん。という話ではあるが。まあ、頭はよいけど。
文章が上手いことを、「教養を押し付ける」などと表現されたくはない。
それはつまり、「何も書くな」ということであり、「言論の自由」ってものを、まあ、わかってほしい。
正直、もう、こういう政治関連の文章は書きたくない。
攻撃的な反応が予想されるし、僕としては、ただ、みんなが仲良くできたらそれでいい。
そのために、哲学はツールとして使える。ただ、哲学というツールを使いたがらない人々もいる。
以下、少しだけ政治投票に熱心な若者についての私見を述べる。
多くの人々は惰性を、政治的信念にしている。あるいは、惰性=良心と思い込んでいる。
かつて高校生だった大学生が、未来の高校生たちが幸せなように、と語る。
かつて大学生だった新社会人が、未来の大学生たちが幸せなように、と語る。
そんな政治じゃなきゃいやだ、と語る。
が、それはただ、あなたが数年前まで、高校生だったり、大学生だったりしたってだけだ。それだけの理由で、未来の人々の幸福を願う。未来の人々とは何か、それは「本当に」あなたと無関係な人たちのことだ。
未来の人々がいくら幸せになれたとしても、あなたの人生と一切関わりがない。その事実を見つめた上で、それでも、「未来の人々が幸せになったら嬉しいよね」と思えたなら、たぶん、より、肩に力を抜けて、より、知的に投票行為なり政治行為なりに参画できるだろうと思う。
現在の自分が不幸な感じがするから、自分のような人が生まれないように、というのは、まあ、なんというのかな、ここでこんなことを書けば、ちょっと???となると思うのだが、細かい論理を書くのが面倒になった、まあ、それってようは生まれ変わりの思想なのだ。
例えば、大学受験で失敗した親が、子供をスパルタ教育してしまうことと、同じ構造にある。「私が大学受験で失敗して不幸せになったから、この子こそはT大学に入学させて、幸せにして上げる」
自分が今、奨学金の支払いで苦しんでいるから、未来の学生から奨学金うんぬんも、まあ、うーむ、違うけれど同じである。もちろん、学費は無償になった方がいい。別に僕自身学費無償反対などと述べた覚えはない。が、それ、我欲だよ。我欲で、政治に参加している。自分自身の鬱憤を晴らすために、政治に参加している。恨みつらみを晴らすために政治に参加しようとしている。
恨みつらみは、悲しみじゃない。
(と、かなり高尚なことを書いてしまったが、僕自身に恨みつらみがないとも明言しているわけではない。)
ただ、恨みつらみで政治に参加したとして、その参加したあなたが、幸せになれるか、恨みつらみから物事をスタートさせ、あなたが幸せになれるか、という点を僕はここでは問題にしている。というより問題にしたい。
なんだかんだ、後書きも長くなってしまった。
それだけ書き伝えたいこともあるのだろう。
が、まあ、それもこれでおしまいだ。
もう、この話題は終わる。
百人に一人、わかってくれるだろう。
要言する。「幸せならそれでいいじゃん。」
付言する。「ただし、存分に生き延びたい。」
組み合わせると、「(誰もが)幸せに人生を全うすることの方が、政治うんぬんより、大切じゃないの」
追記、投票について。一人一票について、一人一人の投票が大切です、という呼びかけについて。
こう反問したい。
人間一人ができることが、「たかが」投票行為オンリーでいいの?
この一文で理解してほしいものだが、理解しにくいだろう。
年に数回あるかないかの選挙で、一、二票投票することが、あなたが、この社会をより良くするために行える(行うこと)のすべてでいいの?
(別に、政治家になれとか、選挙ボランティアをやれ、と言っているわけではない。もっと、広い意味で言っている。
あなたや俺が、この社会をより良くするために行える行為が、たかが、選挙だけでいいの?しかも、その選挙であなたがしていることは、たかが、一人の人間として投票しているに過ぎない。)
投票に行くことの価値、って、すっっっっっっっごくちっぽけだってこと、なんで、気がつかないのだろう?
民主主義なんて糞食らえ。
一人一票?一人の人間に一票分しか価値がないと思っているのか?
俺/あなたができること、あなたがないすることが、たかが、全得票数の何万分の一票を投じることに過ぎなくていいのか?
ほんとうに、一人一人の投票行為が大切です、なのか。
投票行為をすばらしいこと、それが大人としての義務だよね、みたいな、風評は、逆に言えば、
たかが、ちゃちゃっと投票用紙に名前を乱れがき、それを投票箱に投入することごときで、あなたは素晴らしい、あなたは大人だと、自認することである。
けっ。
ごみじゃねえか。
そんなこと、子供でもできますよ。
ばーか。
あなたは本当にその程度の人間なんだろうか。んなわけないだろう。そんなゴミクズみたいな人間なわけないだろう。そんなゴミなら、生きている価値ないだろう。
みたいな、極端な思いが僕にはある。
表現は攻撃的かもしれないが、しかし、そんなおかしなことを言っているつもりはない。
一応、この次の投稿で、投票行為以外にできる具体例を示したつもりである。
僕は、年に数回投票することごときでは、とうてい満足できない。
俺は、その程度の人間ではない。(あなたもそうだと思う。)
という意味でも、俺は、滅多なことでは投票へは行かない。
もちろん、ここで、選挙投票への棄権を表明することは、論理的飛躍である。
別に、なにかしらかのパフォーマンスのつもりではなく、単に、投票がつまらないから、行かないだけだ。
そうした僕の行為に対して、
「あなたみたいな人が戦後自民党政権を存続させ続けた」などと非難されたくはない。
俺みたいなやつがそうごろごろいるものか。
俺は俺と同レベルの人間に出会ったことがない。
死んでしまいたい。
ここまで書いたところで、どうせ、誰一人理解などしてくれないのではないか。
だとしたら、本当に、生きていたくなどない。
投票行為のみに、人間の価値を置くことが、それのみで人間の是非を判定することが、どれくらい、人間という存在を見くびっているのか、わからないのだろうか。一つの価値観でしか、敵と味方とを分けられないことが、どれだけ人間を見くびっているか。(差別って、人間を見くびるってことだよ。)わからないはずない、と思う。一方的にではあるが、信じている。
生きていたくなどない。
生きていたくなどない。
生きていたくなどない。
生きていたくなどない。
生きていたくなどない。
死にたいなあ。
ふう。
死にたい。
生きていたくない。死にたい。と連呼すると、ある臨界点より先で、妙に心が軽くなるから不可思議だ。まあ、死にたいなあ。
投票行為を信じるってことは。あの投票用紙ペラ紙一枚=あなたの価値って信じることだ。
投票するな、という意味ではない。投票行為など、とってもしょぼい行為であり、あなたの価値はそんなショッボイ行為に収まるはずないだろう、というただそれだけのことだ。あなたはとてもすごいのだ。嘘じゃない。嘘じゃない。嘘じゃない。
死にたいなあ。
生きていたくなどないなあ。
きれいな女性に頭撫でられるだけの余生を送りたいなあ。