Y子さんへの手紙
Y子さんとの関係。現在音信不通に近い。といいつつ、二、三週間前に手紙は来た。
本文中に、「好き」という言葉が一度顔を出すが、ここでいう好きとは最愛の友人として好きという意味であり、それ以上でも以下でもない。最愛の友情以上の関係などこの世にないし、彼女に対する、友情が今以下になることもない。
って、何だこの宣言は。
ちょっと頭が固くなっている。攻撃モードの今朝である。全てを呪いたい。
Y子さん。今、生きていたくない気分。死にたい。とかくと大げさだな。すぐに、元気になるよ。それで、元気な手紙をY子さんに書くよ。でも、今は、死にたいし生きていたくもない。死んでしまいたい。消えたい。Y子さんに出会う直前に似ている。誰にも言葉届かないんだ。死んじゃいたい。Y子さん、俺の手紙届いてるの?もういや、って、どういう意味だったの。本当にいやになったの。それとも、まだ繋がっているの。わからない。しんどい。消えて無くなりたい。餓死したい。起き上がらないと。ここにいないと。生き延びないと。生き延びれるかな。生き延びたいな。生き延びれるかな。生き延びたいな。生き延びれますように。あのさ、Y子さん。好き。期待など誰からもされたくない。何でだろ。
近況報告。政治に関心ある女子大生と接点持ったんだけど、僕が投票行為が嫌いなので、基本的には毎回棄権していると言ったら、すっごくキレられた。キレられたので、投票行為以外にも政治参画する方法は山ほどあるし、大半の投票者はわけわからないまま投票してて、アホだよ、と書いたら、さらにキレられた。それで、仕方ないから、相手とこちらの考えが一致する点を描いた上で、じゃあ、あなたはどんな社会にしたいの?と問いかけたら無視された。なんだこれは。俺、何も悪いことしてないじゃないか。投票行為は個人の自由で、意思の表明もわかりやすい方がいい。相手の好みに合わせて、うん、投票絶対行った方がいいよ、なんて、言ったら気に入られたとしても嘘だろう?
えっと、こんなところにこんなものたちを書いている。https://mypage.syosetu.com/1664910/
陽子さんの鬱が晴れたら見に来てほしい。今日は、どうにも布団から抜け出せなかった。調子が良い時は二時間しか眠らないのだが。五倍くらい眠ったなあ。雨が。
お腹減ったなあ。明日からバイトが始まる。とても気が重い。日本の就労環境は僕には合わない。うるさい。始終よくわからないBGMが流れ続ける。頭が犯される。ワニマが俺の頭を犯す。せめて、ジョンレノンに犯されたいものだ。心地よくない音楽に満ちている。頭が悪くなる音楽に満ちている。
ちなみに、以上の文章も、先ほど示したサイトに公開する。強いて言えば、僕はどうにも、意思が強いだの、強硬だの、強いだのと、わけのわからない評価を受けることが多いのであるが、それは誤解であり、本当は死にたいのだが、死んじゃうとそれはもう自我の消滅であり、自我の消滅は生理的に怖いので、だから、死なない、その程度の人間に過ぎない。鬱々として、布団から抜け出せないことだってあるし、昨日だって、区役所のベンチで、ずっとうつむいていた。何で分かり合えないのだろう。わかり合うとはどういうことか、考察済みであり、その僕の考察によれば、人は、「思い込み」を利用して、「わかり合っている」と「思い込む」ことしかできない。というものだった。「思い込み」の素晴らしいところは、双方向に思い込み合えるということだ。例えば、僕とY子さんが双方向に、「彼/彼女は私/俺のことをわかってくれている。優しく支えてくれている。」と思い込めていたら、それでいいんだ。それがテレパシーってことで、つながりあっているってことだ。だから、この「思い込み」こそ、人とのつながりの全てだよ、って考えは、独我論じゃない。独り、じゃ、意味がないんだ。ああ。意味がない。何にもない。まあ、独り、こうして、一方的に、Y子さんに手紙を書くって行為も、一種の「思い込み」であり、その「思い込み」って、わかりやすく、この現実社会にしばし見られる現象と照らし合わせたら、キリスト教における神への信仰行為だよね。向こうからは、返事など来ない。でも、それでいいじゃないか。届いている。この世界そのものが、神の創造物であり、たとえば、死者を思う際、その亡くなられた方から僕らが受けた影響をすべて思い返すだろう。もう、この世にはいないけれど、僕ないし私のなかで、彼ないし彼女の影響は残り続ける。だから、この世界が、こんな風に見える。光り輝いたり、暗雲立ち込めたり、様々な色彩でこの世界が見える。こんな風な「色眼鏡」を与えてくれたのは、もう亡くなられたあの人だ。あの人は、まだ、私ないし僕のそばにいる。
僕から他者への発信は、心→言葉であるが、他者から僕への返信は、この世界→この世界を僕がどう感じるか、そのものなのだ。この世界そのものがとてつもなく馬鹿でかいお手紙で、それを解読することが、唯一の、愉しみであり、
ああ、死にたいなあ、と思う。
すべては、ゲームだよ。ゲームに過ぎない。世界平和へ、という目的にしたって、何をどうしたらそれらが実現するか、の知的ゲームに過ぎない。多くの人々は、言っちゃ何だけれど「あほ」だから、既定路線しか見えない。つまり、投票行為。が、まあ、それだけが全てじゃないってことは、見ようと思えば見える。この世界は他者からの返信だから。他者と深く関わりたいと願った僕のようなものには、見えるんだ。見える。で、様々な選択肢が見えてくる。でも、その選択肢の結果はわからない。なぜならば、結果とは、他者からの返信であり、他者からの返信は、その実幻想だからだ。幻想なので、他者化の返信は世界そのものへと溶けて消えてしまう。
って、まあ、意図的にわかりにくく書いてしまった。わかりやすく書くことに、しんどさを感じ始めたのだ。お行儀よく生きることにしんどさを感じ始めたのだ。明日から、バイトという身売りが始まる。僕の人生時間の切り売りが始まる。週に四日五時間前後の切り売りが始まる。生きている心地がしない。何のための人生なのか、まだ、わからない。誰かの役に立てることは心から嬉しいけれど、脳みその中身まで売り物にしたくないんだ。脳みその中身まで誰かに明け渡したくはない。
さて、
ごめんY子さん。後半、ネット上に公開することを意識して書いた。ただ、Y子さんがお元気になることを心から願っている。また、一時期、僕が煩悩にまみれて、とてもY子さんが耐え難いことばかり言葉ばかり送ったことを(一日五十通くらいと、ネット上の道の読者への注釈)改めて、ごめんなさい。昨日も、精神的に落ち込み、あれこれ送ったことごめんなさい。うまくいけばうれしい。うまくいくと確信している。なんだかんだ言って、僕は強い。ニーチェの書簡集が今、とても読みたくて、ネットで注文するつもり。彼の著作は「この人をみよ」くらいしか読んだことないけれど、彼の思索より、彼という人間に近づきたい。彼の強さではなく、彼の弱音に耳を傾けたい。
昨日、新しく知り合った、Y(男)さんから、意思が強い印象と評価されたが、それは、ただ単に、僕が長々と文章書く能力(能力と思ったことはないが)を手に入れているからだろう。文章作成能力など、それは慣れのようなもので、書き続けていたら、特定の思考形式と特定の文章作成能力が自然身に備わるだけだ。
今日は、もう、手紙の類は、これで終わりにしたい。あとは読書と、思索と、遊びと、小説。
僕は書き過ぎているのかもしれない。
僕が何らかの形で活躍できたら、Y子さんや今現在僕が関わり思っている全ての人たちが、間接的に直接的に元気になって、彼らが心の底で待ち望んでいた社会が到来する、足音くらい聞こえ始めて、それで、Y子さんはじめ彼らが溌剌としたら嬉しい。周囲の人々の喜びを優先して願う僕はまだ煩悩にまみれている。世界の裏側の誰かの幸せをまだ心の底から願えない。
でも、なんだかんだ、Y子さんの幸せが一番大切である。Y子さんが世界で一番幸せになってほしい。幸せに一番とかないけれど。生まれたての赤ん坊が、生まれて初めて、文字通り生まれて初めて、母に抱かれて、おっぱいを吸って、腹満たされて、それで思わず眠りこけたいのだが、なんだか、みんなから声かけられて、それでなんだか、嬉しいような面倒臭くてムカつくような、まだ感情とも呼べない弁別できない、心未満の心で、あぎゃあ、と叫ぶ、そんな(って、長いなあ形容詞が)ごった煮の幸福感がY子さんのこれからとこれまでを全て包み込んだら良いのに願う。包みますように。他に特に、ない、わけではないけれど、今この時はそれを願う。
って、何だこの手紙は。まあいいや。
本文は「死にたい→希望へ」というわけのわからないタイトルでY子さんに送付した。送付してすぐにここに貼り付け、このような後書きを書くことも節操がないな、と思うが、書きたいのだから、書く他ない。
貼り付ける意図は、本文中にあるように、弱さと、僕の非倫理性の暴露であり、わかるひとにはわかればよい、と思っているが、誰一人としてわかってもらえなかったら、落ち込もうと思う。僕はすぐに落ち込む。本当に、千尋の谷へ真っ逆さまに落ち込む。でも、僕の落ち込みは、ジェットコースターで例えると、スペースワールドのタイタンなのだ。凄まじき勢いで落ち込むが、凄まじき勢いでまた上昇する。だいたい、二、三時間落ち込むと死にたくなり、そこから二、三時間したら、なんかわけのわからないねずみ花火みたいな小男がそこにいる。その激変はただ単に、僕が死ぬのが怖い=人生の大半を落ち込んで過ごすなんて時間が無意味に流れてしまうようで怖い、それだけのことであり、僕は恐怖心から、落ち込み、恐怖心から落ち込む心全力で遠ざける。たかが、その程度に過ぎないのに、他者から、「あなたは強いから」「弱者の気持ちがわからない」「普通の人」「普通の人に躁鬱の気持ちわからない」「理想ばっかり語る」「知識人ぶっているあなた」「みんながみんな成人君主じゃない」とかとか、そんな言葉投げかけられたくない。
投げかけられたくはない。けれど、投げかけられたとしても、そりゃ、落ち込むけれど、二、三分で立ち直らないとな。
生きていたくなどない。
しばらく、この手の文章は書きたくない。正直、この手の文章を書くことが「得意に」なりすぎた。
こんな文章、本当は書きたくない。
もっと、ただ、なんとなく、暖かいだけの文章が書きたい。
後書きの後書き
こういう問いかけは卑怯だと思いますが、
あなたが、原子力爆弾で広島長崎で亡くなった方々へ涙流せるとして、
あなたは、ほぼ同時に、たとえば、サルゴン征服王に部族ごと虐殺された人々(何千年前だっけ?)へも涙流せますか?
70年前という遥か過去を昨日のように感じられるから、あなたは原爆で亡くなられた人々に涙流せるのだろう。じゃあ、紀元前300年前後だって昨日のことのように感じて涙流せるのが通りではないだろうか?
もし、あなたが、原爆での被害にだけ涙を流せ、一方、サルゴン征服王による虐殺(その実態僕は知りませんよ?史実が事実であるかどうかさえわからない。ただの伝説かもしれない。)に涙流せないならば、
原爆=悲しいこと=涙流すこと
サルゴン征服王=歴史的事実=テストに出ること
という無思考の類別、判定に流されているだけであり、
もっといえば、あなたは、機械的に「原爆について思いはせること」→「悲しい感情を呼び起こす」→「涙を流す」というそれだけの入力と心的反応と出力を繰り返しているだけに過ぎない。
冷静に考えてみれば、たぶん、わざわざ書くことではにけれど、かなりひどい殺され方していると思うよ。古代の戦争。
これは想像だけれども、
男たち=若年兵たちの戦闘訓練用としてなぶり殺し。
女たち=性的発散からのなぶり殺し。
というのがありそうなことじゃないだろうか。
武士道も騎士道もない時代の戦争なんだから。
こういうことを書くと、まあ、結構、その、うーむ、「そこまで考えられるかあ!」という反応が予想されるけれど、「そこまで考えられるかあ!」という叫びは、僕自身体験済みであり、でも、まあ、考えて見たのである。正直、もう「この先」を考えるのはよしたい。が、一応、僕には少ないながら、理解者がいる。
Y子さんからは小説というか文章全般を、H氏からは哲学というか思索全般を、あれやこれやと称揚していただいた。理解者を得ること以上の幸福は、多分この世にはない。少なくとも、僕はまだ、体感したことがない。まあ、そういう動機で、ここしばらく、この連載を続けている。
書き始めると、書き終わりが見えなくなる。終わりが見えないが、ひとまず終わります。