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日記&書簡集  作者: dok
7/31

七月六日のH氏への書簡。自己分析

文脈がわかりにくいかもしれないが、当時書いた自己分析としてはわりとよくかけた気がするので掲載。

Hさんの文章のパクリですね。


自分なりに、多くの人々に伝えたいこと、書き出してみて、各項目を短文で読んで、何かが、伝わる形にしようかな、と。その思考整理ノート。


字、汚し(汗


義務教育ボイコットして、漢字の書き取り練習サボりまくるとこうなります。


このノートとは無関係なのですが、僕はいつだったか、宮沢賢治全集で彼が最後に残した手帳を読み、何かを得ました。


手帳そのものも迫るものがあるのですが、その手帳一ページ一ページが、活字に再現されていたんですね。全集製作者の熱意に打たれました。全20巻くらいある全集の最終巻です。

僕も農民芸術概論が気になり、借りたら、概論より、手帳に心奪われました。


あれこれ、新しい思い生まれつつあります。

人と人との繋がりというのがキーワードなようです。

僕の中に、誰だって、いつまでたっても子供であり、同時に、大人、という思いがあるから、一概に教育だけ、考えたくない。なにか、もっと、、、と漠然としていきます。


こちらが、心開いて、なおかつ、穏やかな気持ちで接することで、自ら考えてきた人たちとは、繋がれる、と信じています。

公理の比喩を用いれば、同じ前提のもと、思考してきた人たちは、似たような推論に至るはずだから。


僕の中に、差別心への嫌悪がかなり強くあります。きっかけは、障害者施設での仕事です。

そこに通所されていた知的障害のある方は、魚が嫌いで、魚料理のたびに魚を投げ捨てようとしていたんですね。そして、実際に投げ捨てても、職員たちはみんな笑っている。僕も当初笑っていました。

でも、ある日、ふっと、同じ命なのに、かたや人間の形をしているから、大切にされ、かたや魚の形をしているから、食べられず捨てられ、笑われる。なんなんだ、これは。と思いました。

障害者福祉という、公共性の高そうな仕事場においても、理不尽な命の差別が行われている。そして、その事実に、僕以外誰も気がついていない。

大げさですが、世界が崩れる気がしました。


まあ、魚より人間が大切です。でも、やはり、わからない。


ちなみに、似たような議論をピーター・シンガーという哲学者を唱えているそうです。

優生学ではなく、なぜ、もっとより広範囲へ人間の外側まで、普遍的な愛をふりまけないのだろうか?という疑問です。あるいは、多くの人々の一貫性のなさへの不信。

競馬場で、馬かわいい馬かわいい、と言っている女の子たちが、別の場面では、馬肉を頬張っていたりする。なんじゃそりゃ、と思ってしまう。うーむ、考えすぎですね。。。


なんだか、話逸れましたが、実は、僕という人間は、根幹部分が、出来るだけ生命大切にしたい、であり、その派生から、子供達の現状がおかしい、こんなのいやだ!という思いが生まれているのでは?と分析しています。

見た目は全然違うけれど、ナウシカ?の系譜かも。(さらに、話が逸れていく汗)


蟲や腐海の菌類に共感するナウシカは、ある面では、とても非人間的で非情ではあるけれど、風の谷の子供達やじいやたちのことを思っている。まあ、うーむ。ナウシカのように強くなりたい笑


今度は、宮沢賢治ではなく、ナウシカ読みたくなってきました笑


ノートの方は、千項目プラス数百のサブアイデア書き出す予定です。やはり、極端に走りたいので。百や二百じゃ足りなかろう、と。どこにどう発表するかは未定です。完成するかどうかも。

小説こそ本業!のつもりですが、僕の中の社会性というか、僕なりの社会性は、このパンフレット?作りで、概ね人に伝えられるようになるはずです。思想、哲学、というよりも、もう少し具体性のある、けれど、各項目が無数の有機的繋がり有した、社会論?


誰もがこんな風に、自分の損得抜きにして、他者に何を伝えたいか(ある種の遺言ですよね。自分を埒外においている点で)を模索できたら、その現象は、きっと、とても良い社会の先触れです。

新しいやり方を模索しなくては、この世界はまともにできない。なぜならば、これまでの方法は全て失敗に終わったから。釈迦の悟りも、イエスの愛でさえ、この世界から差別や搾取を無くせなかった。ガンディーやゲバラでさえ。なら、論理的に考えて、新しい、もっといい方法を発明するほかない。

つまり、本気で世界を変えたいなら、フロンティアの開拓というか、先例になるほかない。

先例を示す。

新しいやり方を示す。

でも、この発想も、古いのかもしれない。


仏陀もイエスもガンディーもゲバラもみんな等しく挫折者にすぎず、でも、世の中の多くの人たちは、その事実にピンときていない。変だなあ、と思います。

宮沢賢治も含めて、どうにかして、彼らの挫折を乗り越えたい、、、と話が大きくなってしまいました。


でも、これが、僕の本音の一部です。


まあ、同時に、大変すぎることはしたくないなあ、小説書いたり、友達と自由連想で交流する方が、楽しい!という本音もあるのですが汗


と、とりとめない現状報告でした。

損得を考えていない以上、逆に、うまくいくに違いない、と確信しています。今、は、いつだって未来に繋がるのだから。この今この時も、未来の、何事かへつながっているはずです。


青臭いですね笑


ーーーーーー


僕という人間を、かなり冷徹にぶった切ってみると、


1)命がほぼ無条件に好きなのでしょう。

2)その一方で、どういうわけか、感情表現のかなり大きな部分を文字情報で担っている。


3)結果。文字や言葉でのやり取りが可能な人間のことをやや優先して好いている。


となる気がします。いや、今たまたま思いついた仮説ですが。

なんらかの感情のやり取りが可能なら、虫とだって仲良くなれる、それは、当たり前の話なのかもしれないです。


うーむ、なんの話だ?

変な話で申し訳ない。


ある意味での。僕の素?をしめしておこうとおもいまして。

本文中に出てくるパンフレット作りは飽きた(無理して行っている)気がしたのでやめました。

また、なかなか壮大なことを書いているが、現在の僕は、かなり、気持ちが沈見込み、また、正直、色々なことが面倒臭くなっている。


ただ一つ言い添えたいことがある。


この世界が(少なくとも人類社会が)完全に平和になるための必要十分条件は、全人類一人残らずが、釈迦、イエス、ガンディレベルの知性と良心を備え持った時に限る、ということ。


以上のようなことを書くと、すぐ僕のことを理想主義者だと、よくわからない避難を仕掛けてくる人々がいるが、以上の指摘は、ただ、人類社会の平和=誰一人何一つ差別や暴力のない社会について、本気で考えめぐらせれば、自然想起する発想だと思う。


理想主義なのではなく、理想状態に至るためには、これしかないよね、というシビアな認識だ。


一体なぜ、理想を語る=能天気に現実を見ない、と捉えられるのか。現実を見つめることと、理想を想起することは、相反しない。


しばらく、思想的な記述書きたくない。疲れた。もう、いやだ。俺だって疲れるんだ。もう、いやだ。

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