連作平和公園
ジモティというサイトの友達募集コーナーに以下のような変なものを書いた。
意図的に。真心的に。
変な方がいいと思うよ。
変じゃないと人と繋がれない。
ってわけではないけれど、ズレなくては、つまらないから。
結果はーしゃんしゃん。上々颱風。
「広島平和公園で」
現在僕は大阪にいて、大阪から広島(出生地)へ戻ろうとしている。今週日曜日(7/21)には戻る。
戻って以降の楽しみは、余暇に平和公園をぶらつくことである。平和公園の木陰で、うるせえなあ、このやろうと自然発生する蝉に文句を言いつつ蚊にかまれつつ、ぼんやりと、のんびりと、他では味わえない、無味乾燥なのだが滋養溢れた時を過ごすことである。
ああ、あの場所に、ゲバラが立っていたのか、と、昔眺めた写真を記憶から掘り起こして、平和公園を散歩することが今から楽しいでならない。この楽しみのために帰郷するといっても過言ではない。
しばらく、前、平和公園を歩いた。ぬいぐるみにまみれたホームレスのおっちゃんが印象的だった。もう一人印象的だったのは、(平和)公園のベンチにて背筋伸ばして目え瞑って、なん十分とそのままのおっさんだった。一目見てわかったのだが、彼は瞑想の最中なのであった。平和公園で瞑想するおっさん。瞑想中何を考えているのかといえば、文脈上これしかないな、という内容であった。俺は、少しく嬉しくなった。嬉しさとともに、どうにも、自分の空っぽさに気が滅入った。
平和公園には千羽づるが全国から集まってくる。で、その千羽づるは不定期的に何者かによって燃やされたり引きちぎられたりする。そして、それがテレビのニュースになったりする。そのニュースを見るたびに、俺は、どうにもやるせなくなる。なぜ、「千羽づるを破壊した当事者の心理を誰も汲み取ろうとしないのか」という思いにかられる。誰も彼もがテレビ画面の中で「千羽づるを破壊するなどとけしからん」「皆の平和への願いを何と心得る」と憤るポーズにふけっている。が、千羽づるを破壊する人間にはその人間の何かやるせなさがあったわけで、誰一人として、俺の知る限り誰一人として、千羽づるを破壊した当人へ心を寄り添わせようというものは見かけない。
平和公園を訪れる人々は、ほとんどが海外からの旅行者なようだ。俺が散策した際はそのような印象だった。各モニュメントに群がるのは、圧倒的に白人が多かった。みんなサングラスをかけていた。
きっと、日本の広島の人間は、原爆というものに、一種の客寄せパンダとしての意味しか見出していないのだろう。あるいは、ただトラウマの引き金か。
てなわけで(なにがてなわけだ)ぼんやりと、平和公園で、ぼんやりと、無為に時を過ごせる人がいたらなあ、という思いで、一緒に平和公園をブラつける人がいたらなあ、という募集をここに行います。特にともに食事を供したいとか、デート的なものではなく、まあ、割と無言でも構わない人がいいなあ、と思う。のんびりと、まあ、ただ木陰のベンチで、話したり黙り込んだりを、乱脈に繰り返せる(繰り返したい?そんなやつ果たしているのか?知らんがな)人がおればなあ、と思う。僕は漫画図書館や中央図書館や現代美術館などが好きなので、そちらへ向かうついでに、今後ちょくちょく平和公園をぶらつくのではないか、と思われます。土日は仕事があるから、だいたい平日。
「十月、長崎へ行きたい」
広島に生まれた。だから、(というわけではないが)広島市内にある平和記念館平和公園には何度か足を運んだ。
同じ被爆地でもある、長崎へもいつか足を運びたいと思っていた。
特別に平和祈願の思いがあるわけじゃない。亡くなられた方のことを思い悲しくなることもそんなにはない。ただ、何かを感じとれていないな、という思いがある。別にこのまま感じ取れなくても良い思いなのだろうな、とも思う。
今年の十月ごろ、長崎へゆこうかな、と思う。(本来なら原爆が投下された時節に伺えば良いのだろうが、僕は夏の暑さに弱い)
目的地は平和公園と長崎原爆資料館、正直、他に目的地はない。
夜行バスを乗り継いで行こうと思う。
半日ただ、平和公園でぼんやりと過ごし、一時間くらいかけて原爆資料館を回る。
残った時間を市街地をただぶらつくことで時を消尽する。
記憶にも何も残らないような、ただそれだけの旅行を予定している。
で、まあ、(ここでいきなりくだけてしまうのだが)、そんなただそれだけの予定なのだが、その旅先で見知らぬ人に出会えたらな、と思った。
見知らぬ人というとなにか、こわいイメージがつきまとうけれど、ただ長崎の平和公園で僕の話し相手になってくれる人がいたらな、と思った。単に人寂しいだけだと告白した方が、話がすんなり通るかもしれない。(友達いないんだよな。俺。片手で数えるほどしかいない。)
平和には漠然と、心惹かれるものがある。
のんびりと漫然と生きていたくはない。
かといって、何か特別な活動に従事する気は毛頭ない。
人生には生きがいと同時に虚しさを感じている。
死ぬ瞬間は、きっと、死にたくないなあ、と思いながら、楽しい人生だったなあ、とも思う。寂しさと幸福感を同時に感じることは、別に不可解でも何でもないと思っている。
何の募集だ?友達の募集である。十月の旅先での友達募集。
十月の旅先まで、のんびり文章でやりとりできる友達募集。
一生続きうるちょっとした出会いがあれば、と思う。
言葉によって、人と人とは繋がりうると思う。
それ相応の言葉でさえ、ありさえすれば。