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日記&書簡集  作者: dok
16/31

ちょっと前に書いた手紙

今、酒に酔っており、まあ、うん、なんとなく投稿する。投稿するよ。あうう。

酒はかなり、効く。缶ビール一本で、すっぽんぽん。あかんなあ。

久しぶり?なのかどうか、よくわからないのですが、久しぶりに何か書き送りたく、この文章を書いています。

何を書こうか考え中です。自分な素直な気持ちを、うまくかきあらわせられたら、と願っています。

結局、僕は、素直な、変な表現ですが、裸の心情を書き表わしたいという気持ちが強いようです。(ルソーとは、多分タイプが違います。)本音と建前という言葉が、日本にはありますが、もし、仮に、本音が清らかなものなら、建前などいらないはずで、僕は、本音を清らかだと見做したいようです。性善説というのかもしれません。人間の本性が優しさなら、ただ素直なままでいられたら、それでいいだろうに。

(もともとどういうテンションでやりとりしていたのか、なんだか書き倦んでしまいます。)


ここしばらく、躁鬱というか鬱というか、生きるのがしんどく、じゃあ、ということで、「仕事」に逃げることにしました。経験上、鬱だからといって鬱々と寝込んでいても、救いが見えてこない。

眠り込んで眠り込んで、夢の中が楽しくて、夢から覚めたら、とても寂しくて、という日々は、しんどいな、と思ったので。

というわけで、ほとほとふらふらしていますが、住み込みで、働けるところを探して、今、とある旅館で働いています。

(実は、仕事の休憩時間を縫うようにして、この文章を書いています。)


様々な人に会うと、考えるきっかけが得られるので幸いです。

みんなが幸せな世界になればよいのに、と思います。あるいは、もうすでにみんなは幸せなのだろうか、と周囲の人々を眺めながら考えます。彼らは、時に笑い時に愚痴りながら、生きている。幸せって、もっともっと心の底から楽しめる何かなはずなのに。


旅館に住み込みで働きながら、仕事覚えながら、少しずつ鬱が晴れてきています。

仕事の合間を縫って、母に一方的な鬱々メールを送り続けているのですが、その行為が僕自身に何か働きかけているのだと思います。自分自身よくわからないのですが、僕にとって書くことは祈りです。ですが、僕は無宗教で無神論なので、祈る対象がありません。祈る対象がないにも関わらず祈るという習性というか生き方だけ持ち合わせた人間は、なんというか、アサッテの方向に向かって、自分自身よくわからないやり方で祈るのが好きなようです。こうして、浜本さんに手紙を書くことも祈りに似ています。


祈りってなんなんでしょう。

ご利益を期待するのは、祈りではなく、願掛けとか、何か別の事柄のように感じます。


先ほど、母への手紙で書いたのですが、僕は、たとえ、スリにあっても、家が燃えちゃっても、例えば地震でありとあらゆる身近なものが破壊されても、仮に誰も死なずに済んだなら、ああ、よかったね、面白い体験ができておもろかったわあ、あはは、と笑っていたいです。いや、まあ、実際に被災してしまうと、生活が苦しかったり、さまざまな苦労はあると思うのですが。

みんながそうなれば良いのにな、と思わなくもないです。

お金なんて溝に捨てたい。

生きているんだからそれでいいじゃないか。

ですが、僕自身はどうなのか。僕自身は確かに生きている。でも、とても満たされない。


唐突に変な話になるのですが、

僕は以前、赤ちゃんの感覚に陥ったことがあります。

ある日とても安心してしまい、(わけわかんない話ですが)あまりに安心してしまった結果、頭の中が真っ白になってしまいました。理性はあるけれど、一切の言語が浮かんでこない。視覚認識は働くけど、頭の中の真っ白さ、が視覚情報を上回っている。

なんとなく、無邪気に甘える小さな子供達や赤ちゃんはこういう感覚なのかな、と思いました。

余計なお世話だろうけれど、みんながみんなこんな赤ちゃんみたいな安心感に浸れれば良いのに、と思いました。


今、読書会で読んでいる大澤真幸さん(社会学者評論家)の『社会学史』という本に「ルソー問題」というトピックが紹介されていました。これは、エルンスト・カッシーラーという人が提唱した問題で、一文でいうと「ルソーは、自由主義者として解釈することもできるが、同時に、全体主義を正当化する思想を提供しているようにも見える」というルソー解釈上の問題です。この一見反する解釈をどう統合したら良いのか、というのが「ルソー問題」だそう。

ルソーとは異なる次元だと思うのですが、僕の中に、他者の幸せを願う一面(自由主義)とその他者の幸せを思う事で生まれる支配欲(全体主義的)とがあるようです。

「ルソー問題」はルソーの中に問題を見出すのではなく、僕自身の中にもある問題に、ルソー自身はどのように取り組んだのだろうか、と優等生的な発想に溺れています。


祈り続けると、きっとよくわからない方向へ進んでいくのだろう、と思います。

祈りは、行為に近い気がしています。

本当は、直接的に世界中の人々を幸せにする行いに勤しんだら良いのだろうけれど、ただただ祈り続けるという道を進みたいようです。

何でもかんでも自分の考えにひっつけて発想を広げるのは、よくない気もするのですが、祈りと練習(スポーツ学業など含め、種々様々な練習)は何か通じ合うものがある気がします。祈りには、絶えず繰り返し繰り返し繰り返すという性質があるように思います。祈り続ける、というのか。ただ飽きもせず、繰り返し続ける。


以前、学問の目的は、これまでにない新しさを創造する事と僕の考えを述べましたが、これは、同時に、誰もがそれぞれにこれまでにない新しさを創造しうると信じたい気持ちの表れでもあります。ノーベル賞受賞者も、近所のおっさんも実は、同じくらいかけがえのないすごい素晴らしい知性の持ち主なのだって信じたい。というのも、その方が、そうでないよりも、絶対に絶対的にこの世界は楽しいから。




そういえば、11:00〜14:00まで仕事が休み時間です。

あと、十五日が休みの予定です。

住み込みなので、生活費ほとんどかからず、微減だった貯金残高が回復しつつあり嬉しいです。


僕の手紙は、まあ、その、ひまつぶしに。

鬱っぽい時に、鬱からやや晴れかかったときに書いた文章。なので、ところどころ、文意がよくわからない。いや、書いた本人、俺はよくわかるのだが、俺以外だといろいろよみにくかろうなあ、と思う。助詞がぬけておるがな。まあええがな。

前半はよくかけている。


批評とは別次元の何か、を書いているようだ。

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