大学にいけない(あるいは、いかない)人のための読書会案内
操作ミスがあったのか、投稿したつもりで投稿されていなかった(それとも反映に時間がかかるのだろうか)
以下のような、読書会案内をジモティというサイトに公開した。こちらにもコピペする。
先ほど書いた前書き後書き気に入っていたんだけどなあ。まあいっか。
この読書会は、僕の「金にならない」仕事である。正直この手の「金にならない」仕事は増やしたくないものだが、思いついたので取り組むことにした。
昨日、知り合ったばかりの大学生と、ちょっとした諍いがあった。(だから、僕は今ちょっと落ちている。)
(僕としては、争うつもりはなかったし、相手にだってそのつもりはなかっただろう。)
詳しい経緯は詳述せぬが、その際相手から以下のように訴えかけられた。
「あなたに奨学金の返済に苦しみ、先の見えない大学生の気持ちがわかるんですか?」
(多少文章変えている)
僕自身の答えは「わからない」だった。
また、「わかるつもり」はない。
(冷厳な反応に思われるだろうし、彼女自身は僕のこうした態度にかなり反感と反発を感じるかもしれない。)
が、それは、僕自身が彼女の訴えを完全にスルーすることを意味しない。
反対に、僕は僕なりのやり方を提示しようと思い、この文章を書いている。
彼女たちが抱えている問題:大学教育を受けたいが、金がかかる
に対し、
ならば、
金のかからない学習の場を提示すればいい。
そして、それは案外簡単なことなのではないか。
以下、ちょっとした回想。
大学四回生の頃、同級生たちが大学院進学について話し合っている中、
こんなことを思った。
僕は文学部哲学科に所属していたのだが、
素朴に、
「大学院へ進学しなくても、哲学は学び続けられるのではないか?」
と思ったのだった。
多少、語弊があるとして、
哲学の学習とは
1)読書
2)思索
3)意見交流
この三つで成り立つと思う。
読書については何を読むか?どのように読むか?といった問題があり、
まあ、大学教授などが身近にいれば相談など乗ってもらえるだろうが、我が道を突き進んでもいい。
(コリン・ウィルソンみたいでかっこいいじゃないか)
社会学、政治学、文学、数学、そのたもろもろ多くの学問も以上の三本柱で学習が成り立つものと思う。
つまり何が言いたいのか、といえば、
「大学の学費が高い、奨学金の支払いが苦しい」という現実問題に対して、
「大学程度の学習は自学可能だ」という主張と実践で対抗してみたい。
たしかに、政府によって大学までの学費が全額免除になればそれに越したことはない。
が、今すぐに実現するわけではない。
(先に触れた彼女との諍いも、僕が、政治に対する無関心を表明したことが始まりだった。
彼女は、とてもいい人なので、市民一人一人の政治参加投票行為を強く信じたいようだった。)
以下、私見にすぎないが、
大学院の役割とは、せいぜいプロの学者の育成に過ぎない。
プロの学者と素人学者との差は何か、それは用語の定義を厳密に扱えるか否かである。
そのためには、すでにプロの学者の一員である大学教授からほぼマンツーマンで指導を受けることが望ましい。
言葉の定義とは、言葉の運用法そのものであるともいえ、つまり、口移しで習うに限るからだ。
僕自身は素人なので、そのような厳密な学術用語の伝授など不可能だが、
素人ならば素人であることを自覚した上で、思索を重ねていけばいい。
プロに対して一定の敬意を払い続ければいい。(卑屈になると言う意味ではない。)
そもそも大学教育を受ける目的とはなんだろうか?
二分できる。
1)とにかく好きなだけ学びたいから。
2)なんらかの資格を取得したいから。
だが、実を言えば、この2点に関して、たとえ大学進学が金銭的に不可能に近くても、
解決可能だと思う。
1)好きなだけ学びたいなら好きなだけ学べばいい。
2)大学以外の方法で資格の取得を試みる、あるいは、資格取得を経由しない方法でやりたいことをやる。
資格を取得したい理由=特定の職業に就きたいからだと思うのだが、
医者にならなくても、医者とは違う形で、病を癒すことは可能だし、
教員免許を取得しなくても、子供たちと関わることは可能だし、
学者にならなくても、学問に傾注することは可能だ。
(具体的な方法についてはここでは触れない。と言うのも各人が考えれば良いことだから)
お金がないから、学べない。と言う発想は、発想の貧困だと思う。
と、ながながと書いたが(このように長々と書くと反感を持つ人々が一定数いる。丁寧に書くことになぜ反感を抱くのだろう?)
とどのつまり、ネット上で読書会を開きたい、と言うそれだけの話である。
大学レベルの教養を身につけるための読書会。
誰かが講師役を務めると言うのではなく、一つの本をわりとゆっくり読みながら、自由奔放に意見を述べ合う、それだけである。
まとめる。
問題
「大学教育を受けたいが学費が負担だ」
現状
「政府はこの問題を十分に解決してくれない」
僕自身の考え
「政府に期待するより、僕たちの方で「勝手に」解決策を模索した方が早い」
僕が提示する解決策
「大学レベルの教養が身につく、読書会を開く」
以下、但し書き、
・僕自身の学歴は、とある大学の哲学科除籍である。
・僕自身は学歴至上主義ではない。別に知識人ぶるつもりもない。しがないフリーターにすぎない。
実際、小卒の知人がいるのだが、僕は彼女のことを天才だと感じる(信じる)。
・このような学校教育によらない学習の場がいたるところで(自然に)生まれることが、学歴と言う価値観を覆すきっかけになると思う。
わかりやすく噛み砕けば、「大学」というブランドがなくても人は学びを深められますよ、ということを僕は実践によって示そうとしている。
読もうと思う本(暫定的)
大澤真幸「社会学史」
小熊英二「社会のしくみ」
ジョン・R・サール「心の哲学」
宮台真司「システムの社会論ーー宮台真司初期思考集成」
遠山啓「現代数学入門」「数学入門」
単に、僕がこれから読みたい本。どれも未読。
小説が好きだけれど、小説は意図的に抜いている。
もっと薄めの短い本を選んでも良いとは思う。
以上は、あくまで僕の考えを示しただけであり、この読書会のあり方は、参加したい方一人ひとりが考えてゆけば良いと思う。
高校レベルの教養を身に付けたい、という場合、高校の教科書で読書会を開く、なども今後考えてよいな、と思っています。(例えば、これから高卒認定資格取得を目指す人のための読書会)
文章が、ちょっと硬くなっちゃったけど、肯定的に受け止められることを願っています。
この読書会が無事発足すること。また、この読書会を通して、かけがえのない、豊かな人と人との人間らしいつながりが生まれますことを心の底より願っています。
※※
書き漏らしがあった。
以上の読書会ですが、mixiなどSNSを利用したヴァーチャルな読書会にしたいな、と構想しています。
理由は、その方が、どの地域の方でも、どういう生活の方でも参加できるから。
夜働いている方でも、昼働いている方でも、沖縄の方も北海道の方も参加できたら楽しいと思う。
ただ、ヴァーチャル主体+たまに集まる、とするとさらに楽しくなるかもしれない。
構想途中であります。思いの外、すぐに反応があったため、こうした読書会に需要があるようで、意欲が増しています。
ヴァーチャル読書会ということで、想像つきにくいかもしれないので、僕の思い描いている流れを記せば、
みんなで特定の本を一週間に何ページずつ、みたいなかたちで少しずつ読んでいく。少しずつ読みながら、思いついたことがあれば、それぞれメモ取りそのメモをネット上で共有する。他の人たちが書いたメモに対して、さらに思いつくことがあれば、それぞれ自由にコメントしていく。
正解を求めず、自由な発想を重ねていく。
ひとまず、そのような流れを意識しています。
今日はなんだかんだであれこれ書いてしまった。こう言うものは書きたくないのだが、思いつくと書いてしまう。癖なのだろうか。もう書きたくない。
僕の最大の望みは、楽して暮らしたい。である。
もっといえば、みんなで楽して暮らしたい。である。
別に使命の人ではない。宿命の人ではことさらない。
明日、アルバイトの初出勤なのだが、とても働きたくない。
とても、憂鬱である。週4勤務を週3勤務に改めようと思う。
みんなの役に立ちたいものだが、働きたくなどない。
本日の僕はあまり優しくはなかったと思う。
そして、僕の経験上、優しくない男はモテない。
詳述しない。
誰だって壊れている。理想的人間などいないが、それでも人を好きになることはある。
理想的存在ではないにも関わらず、それでも好きになれることに、希望を感じる。
しかし、それは、理想への思考を放棄すると言う意味ではない。
理想的存在たり得ない人間が理想を語る、というのが現状であり、所詮「理想」と表記したところで、その理想とは「理想的存在たり得ない人間が語っていること」として相対化できる。また、天国、などに対してもそう言える。理想ってなんだ?別にそれは、なにか、人間を超えた、絶対不変の何かではない。
所詮、人間の戯言に過ぎない。
が、それは、理想を語ることが無意味というわけではない。
と、なんか、知らんうちに、またややこしいことを書いとるやないか、俺。
別にややこしいことではないのだが、ああ、もういい。おわろう。
本当に終わる。全てを忘れたい。