知人H氏への哲学通信
予備知識。知人H氏=教育家。
彼との関係→俺=彼の哲学担当?
知人H氏への手紙からの引用です。
一部、論理の飛躍、説明接続詞不足がみられますが、原文のまま。7/20作成の文章。
とりとめないのですが、社会的にフリーライダーとみなされている人たち(僕自身含みます。なので、以下は自己弁護でもあります。)に可能性を感じています。定職についていなかったり、家庭を築いていなかったりする人々。
これはやや偏見あると思うのですが、ネット上でのやりとりだったり、一時的に行った家庭教師の仕事なり(あるいは実父母を観察すること)で感じたことは、親御さんはお子さんが第一なんだなあ、ということ。で、それが思考のボトルネックになっている(気がする。当人たちには指摘しません)。皆が皆我が子が可愛いというのは、言い換えれば、皆が皆身内のことだけ考えていると言うこと。本来は、子供なら皆可愛い、人間なら皆同じ、生命は皆尊い、くらいの気持ちでありたいところ。
これまで、散々多くの人々に指摘されたことではあるけれど、こうした我が子が可愛いと言う気持ちは、我が子だけが可愛いという気持ちでもあり、ただの立場主義に過ぎない。(僕自身、他の人々他の生命に比べて特別大切な人はいます。なので、以上の批判は僕自身にも当てはまります。)
実は、ちょっとむしゃくしゃした気持ちがあります(笑)。子供がいる人たちってなんだか、すごく偉そーなんです。「我が子のために社会を良くしよう!」とか、「我が子のために頑張る私えらい」みたいな。僕の本音は、「そんなこと知るか」です。うーむ。なんというか、我が子が知的しょう害があるから、知的しょう害の子供がのびのび暮らせる社会にしたい、みたいなこと言う人が、きらい、なんです。それ、ただ我が子が可愛いだけじゃん。利己心じゃん。なに社会的活動してますみたいな顔してるの?バカじゃん。とすみません、口悪くなりました(汗)
で、話が飛躍しますが、フリーターの多くはおそらく、結婚しません。(って決めつけちゃあかんですね)結婚しないし子供を持つ予定のない人々も多い(はず)。
が、そうした、定職につかない(会社に縛られない。会社的なしがらみがない)、家庭を持たない(家族愛がない=我が子第一みたいな偏見がない)、あとそこそこ暇(考える時間がある、学ぶ時間がある)な人たちって、案外というか、率直に考えて、かなり公平な見方でこの世界に接せられるのではないだろうか、と。まあ、全てが全て、とは言わないけれど。
自分に子供がいなくても、子供のことが好き、そんな人が好きだなあ、と言う話でした。
(ちなみに、Hさんへの私信は、わりと「きれい」に書いています。「いい子」ではないですが)
ちなみに、以上のように考えた経緯は、この頃、ネット上で、フリーターの人と仲良くなる機会を得たから。もともと、僕は自分で自分のことを頭がいいと思い込んでいる人間で(笑)当初は、皆にものを教えてやろう、みたいなノリでネットであれこれやっていました(挫折&方向転換済み)。が、この頃は、一対一の信頼関係を着実に積み重ねて、結果論としてムーヴメントを起こそうと思うようになりました(いろいろ価値観の変転があったのですが、生き延びることが目的から前提に変わったり、ちと未整理なのですが意識、自己、他者などの捉え方が換わったなどなど)。で、色々な人と文章で話してみたのですが、ふらふらしている人(って言い方はあれだけれど)たちから、他者に対する興味関心を感じました。逆に、ふらふらしていない人って、あまり他者に関心興味がないんだろうな(持つ必要がないんだろうな)とも。
うーむ、以上の記述は僕のルサンチマン?かも。
ただ、興味関心がないと、知識だけを振り回す人になるのでは、と予測してます。
哲学の話?(注!素人哲学者による哲学っぽい話)
これは考え中なのですが、哲学=人間の限界をシビアに測ること考えてみました。
よく生きること=人間という限界ある存在として、限界いっぱいまで生きること→人間の限界を知らねば、ってなわけで哲学は存在するのだろう、と。
なので、哲学は暗くて明るい。
哲学科を一応卒業(卒業後証書破棄しましたアホですね)したのですが、哲学の定義が在学中につかめず、あれこれ考えた末、ようやくひと段落。まあ、当たり前みたいな定義ですが。
なので、こんなことも言えます。人間の限界を体感として理解してしまえば、哲学は死んじゃう。哲学は人類史上何度も何度も死んでしまっている。人間は、いずれ死んでしまう存在である、ということは誰もが知っていることであり、だから、誰もが「人間とは死によって限定されている存在である」という哲学を完成させている。でも、ちょっと(じゃないなあ)矛盾するんですが、同時に、人間はあれやこれや、生や死とは異なる限界を見出したがる。例えば、以上のような考え方行くと、スポーツで、なんらかの限界(記録など)に挑戦することも、哲学と言える。ウサイン・ボルトは人間の走行速度の限界に誰よりも近づいたというために、誰よりも、走るということに関する人間の限界を体感しただろう、と。って、何が書きたかったのかわからなくなった。ので、おわります。
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哲学ネタ。(実は、他に哲学ネタが好きな知人がいて、Hさんに送った文中の哲学ネタの部分だけ、その人にも送ります)
自身の死を見つめた際、ほんとうに空っぽな気持ちになれる人は稀なのかもしれない。
子供がいる親は、「私が死んだ後もこの子が残る」会社などに貢献した人は、「私が亡くなった後も会社は残る」といった風に、自身の死を空っぽというか、虚しさとして(ってこの表現もあれだなあ。言葉がつかめない)捉えられる人は稀なのだと思う。
自分自身の死を意識した際、ギラギラする人とギラギラしない人とに分かれると思います。
「どうせ人生一回きり好きなことしようぜ」という言葉は確かにその通りだけれど、そこに含まれる雰囲気には、何か同意しきれないものがある。
と、これじゃあ、遠回しなディスりです。
なんというか、死を空っぽな感じで受け止めるって結構大事なんじゃないかなあ、と根拠なく。
もちろん、死=完全な消滅ではなく、なんらかの影響余波のようなものはこの世には残るけれど。(例えば、遺書が残ったりします)
これは、まあ、補足。
素人哲学者とプロ哲学者の差は、言葉の定義の厳密さ。定義が厳密でなければプロではない。僕はもともとレトリックなどが好きで、好き勝手に言葉を定義外に応用死まくるのが好きなので、一生素人哲学者です。なので、浜本さんに送るあれこれも、「素人」のたわごとだという前提で。
あれこれ書くのは楽しいです。今回も勝手に楽しませてもらいました。あかんですね。
それでは、また。
だいたい毎日五万字くらい手紙を書いている。
慣れればかけますよ。