第五章:アイリ・シルビウス
よく晴れた日だった。
遠く花の風が吹くのを羨む、寒さ残る春前。ヘンリース卿に従僕として雇われたセンは、毎日多種多様な仕事を覚えるのに必死だった。一日を過ごすことにその日使える全神経を傾けていたし、余裕なんてものは一欠けらもありはしなかった。
そんな折、執事長から直接声をかけられたことがあった。執事長は本来、ヘンリース卿直属の右腕にして、屋敷内の一切を補佐する――実際には取り仕切る――役職であったので、末端であるセンはそれなりに距離を置いた立ち位置を保っていた。話したことはあっても、笑い合うようなことはない。少なくとも一緒に茶菓子を囲んで談話するようなことはなかったし、そんな光景を思い浮かべたことすらなかった。
そんな存在から、突然声をかけられたのは――ちょうど、エリシャの誕生日の前々日にあたる。
「買い物に付き合ってくれませんか」
それが第一声だった。まるで、孫に声をかける老人のような声音だったとセンは記憶している。これにしばらく驚き固まってから、センは慌てて頷いた。
「ありがとうございます。どうも最近腰が痛くていけませんな。寄る年波には勝てないものです」
老執事はホホホと笑うと背を向けて歩き出した。どうも、そのまま買い物に出かけるらしかった。丁度仕事がひと段落していたセンも急いでその後に続いた。小走りに追いかけたはずなのに、なかなか追いつけなかった。
今にして思えば運動神経が鈍いとはいえ、センは十代半ばだ。齢六十を超えた老人に追いつけないはずはない。だというのに、ひとつも距離が縮まらなかったのは、つまりそういうことだったのだろう。
――ヘンリース家執事長。セミルーン・クラスマン。
彼自身からその経歴を聞いたことは直接にはないが、王国内にいて少し裏を探ればその名を知らぬ者はいない。財務大臣に酒を飲ませればすぐに素性は割れた。今でこそ一回の執事に過ぎないものの、彼の前職は王直属の諜報部隊長。その身体能力や情報収集能力たるや推すにあまりある。センがこの国にきてから初めて「知らなければよかった」と冷汗を掻いたのは、他ならぬ自分の上司についてだった。
とはいえ、当時のセンはそのようなことは露ほども知らなかった。そのままでいられたらどれほど平和でいられたことか。
センは何も疑わず、彼の後を追った。
屋敷を出て、西に進む。中央領のある方角だ。ヘンリース領との間に横たわる森をめがけて、セミルーンは迷いなく足取りを進める。
彼の足取りを追いかけながら、センは想像を巡らせる。
――買い物というのは、まさか中央まで歩いていくのだろうか。
それは――無茶が過ぎるのではないか。
そもそも、ヘンリース領を出て森に辿り着くのに馬で四半日はかかる。早馬ならその半分と少し。そこからさらに森を抜けるか外周を歩くかして、同じ時間。そこから中央の関所まで砂漠を歩くこと、数千から一万といくらかの歩数。
とてもじゃないが、ちょっと買い物、で行ける距離ではない。それなりに準備していかなければとてもじゃないが帰れもしない。せいぜい森か砂漠で立ち往生するのが関の山だろう。
そんな恐れからか、センは上司にこの買い物の行き先を尋ねようとした。
その瞬間――セミルーンがセンの顔を見た。
まじまじと、静かに見ていた。
観察しているようでもあった。あるいは、見定めているようでもあった。鑑識眼とでもいうべきか。その価値を計っているようにも見えた。
あまり、心地の良い目ではなかったことは記憶している。
まるで心の奥深い海の底を見透かされているような。せっかく深くに沈めたものを見つけられようとしているような。得体の知れない不安が漠然と浮上したのだった。
一人怯えるような佇まいのセンをよそに、セミルーンは笑った。ふっと、まるでお気に入りの菓子を市場で見つけたときのように。
「どこに行くのか知りたいのでしょう。ええ、いいですとも。教えてあげましょう。なんせ、もう着きましたからな」
「――ハ?」
驚き呆れて、顔を上げる。見たことのない、悪戯を成功させた少年のような笑みが、初老の上司の口許に浮かんでいた。
その彼は、彼の体の奥を腕ごと以て指し示す。その先には、夜の森が暗澹と闇を横たえているだけ――かと思ったが、そうではない。
灯が一つ、ぽつねんと見える。頼りなく、目印程度にしかなりそうもない。
橙色の炎が照らし出したのは、夜中にあってはあまりに存在感のない小屋だった。
暗めの色の木を使っているのか、保護色のように闇に溶け込んで輪郭がはっきりとしない。まるで夜に隠れているような印象さえ受ける。何者からか逃れるように、息を殺すように――。
セミルーンはその小屋の戸口に立つと、徐ろに古びた扉を二度、叩いた。返事はない。窓から中を覗き込もうにも、妙なことに、この小屋には窓もの一つもないようだった。
そわつくセンを他所に、セミルーンは続けてまた二度、扉を叩いた。さっき返事がなかったのだから、今回も変わりないのでは――と思った矢先、センの耳が小さな音を捉えた。
紙を擦るような音だった。くしゃり、と。誰かが室内にいることを思わせるような、幽かだが、確かな音だった。
それを確認して、セミルーンは小さく笑った。それから、また扉を叩く。今度は三度。ゆっくりと。
その直後――緩慢に、扉は開かれた。開くことはないと、センが心のどこかで勝手に思っていたその扉は、おっかなびっくり、確かに開いたのだった。
「――こんばんは、アイリ。お変わりありませんか?」
セミルーンが問いかける先の暗がりに、小さな頭が小さく頷いた。それから、その頭についた二つの目と、小さな口は、やんわりと、春の暖気のような笑みを浮かべたのだった。
目の前にいる少女は、センにとって完全に初見だ。誰なのか、とセミルーンに問おうとしたが、それより先に彼女が小さく頭を下げた。自己紹介でも飛んでくるのかと思って期待をしたのだが、特別声は聞こえてこない。たおやかな息遣いが聞こえるばかりである。
「――ええと……?」
「フッフ……困惑していますね、セン。わかりますよ、仕方ないでしょう。どことも知れぬ場所に連れてこられたと思ったら、誰ともわからぬ少女に引き合わされているのですから。ええ、ええ。困惑もごもっともですとも」
「ええと、あの……まぁ、あの……はい」
「なに、そう縮こまることはありません。――アイリ、あなたも。この少年は私の部下です。そして、できればあなたの良き友人になれればと」
優しい顔が一つ、夜闇に浮かぶ。その大柄な体躯と暗がりに隠されて、アイリと呼ばれる少女の顔はよく見えない。しかし、息遣いが変わったことから察するに、困惑しているように思えた。
この段で――センは不思議に思ったことがあった。
こんな場所に住んで少女がいる、ということではない。背丈から見るに自分よりもいくらか年も下だろう。そんな少女が窓もない小屋に一人でいて、暗号めいたノックに反応してドアを開けることも、もちろんおかしい。そもそもこんな人も寄り付かない場所に、まるで住んでいるように思われることも。
だが、彼が気付いた違和感は、それではない。もちろんそれもあるが、それとは別種の――もっと人間らしい違和感だ。
人は会話を礎に社会を構築する生き物だ。わからないことを人から教わりたければ「これは何だ」と聞くし、知らない人がいれば「お前は誰だ」と訊ねる。その繰り返しでこそ関係は蓄積され、社会へと進化する。
これは社会的生物である人間の、一種本能的な部分だろうか。どれほど対人能力の低い者でも、知り合いが知らぬ人を家に連れてきたら「その人は誰?」とは聞くだろう。少なくとも、失礼でも「え、だれ?」くらいは言うはずだ。
だが――この夜には、何の言葉もない。
少女が、何も言わないからだった。
センは思いを巡らせた。困惑した息遣い。自分の素性を尋ねない少女。そもそも――そうだ。ドアの隙間からセミルーンの姿を認めた彼女の顔は、嬉しそうではなかったか。
会えて嬉しい相手の顔を見て、何の言葉もかけぬ者が、そういるだろうか。
目の前の少女の、あの嬉しそうな顔が、そのような人間に見えるだろうか。
――イヤ。そうじゃない。
そうではない、そもそもが、違うのではないか。
見る。
セミルーンの体から回り込んで、少女の顔を見る。幼い目は不安と困惑に満ちて、心の逃げ道を探すように伏せている。
問う。
あなたの名前は、と。センは静かに、穏やかに尋ねた。わかっていた。答えはない。それが、予想を裏付けた。
聞く。
彼女の口が開く。しかし、言葉はない。代わりに漏れ出た息が、諦めたように地に落ちた。
――諦めている。そのことが、センは悲しく思われた。
そして、ぽつねんと、静寂が落ちた。
「――どうせ、聞こえないもの」
「なにが、聞こえないのですか?」
問いかける声に、答えはない。――答えられない、と表現するのが正しいだろうか。
少女は、センの言葉に目を丸くして口を広げっぱなしにしている。パクパクと、魚のように口を開閉しては、驚きに詰まった喉を広げようとしている。
その様子が、少し面白いと、思ってしまった。
「……なにが、聞こえないのでしょう。鳥たちの声でしょうか。風の音でしょうか。それとも……あなたの声が聞こえないはずだと、そうお考えでしたか?」
問いかけに、少女は答えない。目を見開いて、センを凝視するばかりだ。
――その目が語る声を、センは聞き洩らさない。
信じられない。聞こえるはずがない。そんなはずはない――と。
堪え切れず、笑った。
「僕は耳が良いんです。少しだけ、他の人より。ですから、コウモリの囀りやミミズの嘆き、胎児の夢物語――おおよそ、他の人には聞こえないものまでも聞くことができます。
傲慢な物言いに聞こえたら申し訳ありませんが――森に住む女の子の声が聞こえないわけがない」
センは笑って自己紹介をした。セミルーンも初めて見るような、得意げな顔だった。……努めてそうしていることは、彼の強張った頬を見れば明らかだった。
「……さあ、アイリ。自己紹介なさい。あなたは、ようやく出会えた同じ音景の友に、名を名乗らないほど失礼な人間ですか?」
セミルーンが穏やかにアイリの背を押した。呆けていたアイリは突然押し出されて少しよろめいたが、それをセンが支えた。
そのまま、センはアイリの両手を取って、訊ねた。
「――お名前は?」
「……アイリ、シルビウス…………アイリ、私、私はっ、アイリ……!」
センの両手に、濡れた温度が落ち、伝った。すぐにそれは塗り潰された。アイリが、両手を握りしめたまま、胸元に飛び込んできたから。
服が濡れていくのを感じる。温かいものがシャツを濡らしていく。
少女は泣いた。高い、高い声で泣いた。その泣き声は静寂に同調して、森に響くことはない。
ただ一人、センだけがそれを聞いていた。彼にしか聞こえない泣き声は、そのまま彼のシャツに沁みていくばかりだった。