第四章:我(儘)君と執事長
森を抜け、元来た砂漠を歩き、ヘンリース領に辿り着いたときは、もう太陽が昇る寸前であった。そこから待機させていた早馬で領地を駆け、屋敷に辿り着いたのは、主が朝食を食べ終えた頃だった。
食事を終えた主は、食堂から出てくるや否や、入り口付近で控えていたセンの顔を見つけると、もともと鋭い双眸をさらに鋭くして、「遅い!」と声を張り上げた。徹夜で帰路を急いだ体に力強い声が容赦なく反響する。若干眩暈を覚えながらも、センは謝罪するよりほかになかった。
「申し訳ありません、エリシャ様。ただいま帰りました。砂嵐が酷く途中で迷いまして――」
「ドジ! もう、夜のうちには帰ってくるって言ってたじゃない! せっかく面白い魔法を見つけたから夕食のときに話してあげようと思っていたのに、バカみたい!」
「申し訳ありません……そのお話は是非本日の昼食の際にでもお聞かせ下されば幸いです」
「いやよ、バカ」
エリシャは顔をそっぽに向けて拒否した。取りつく島もない。センが頬を掻くのに、執事長が憐れそうな顔をする。
「我が君、それでは夜通し帰路を急いだ彼があまりにも――」
「夜通しずっと急いできたんならさっさと寝ればいいでしょう、バカ! こんなとこで突っ立ってないで沐浴を済ませてさっさと休みなさい! 夕食までセンの顔なんて見たくない!」
それだけ叫んで、エリシャは踵を返した。ズカズカと乱暴に廊下を行く彼女の後ろを、数人のメイドがついていく。その横顔が――一様に笑いを堪えていたのに、どうも笑みがこぼれた。
「ずいぶんご心配をおかけしてしまったようです。面目もありません」
「……昨日は大変でしたよ、セン。久々の愚痴係、この老骨には随分堪えました」
執事長の恨み言に、センは朗らかに笑って謝罪した。笑ってしまったのは、深い皺の奥に優し気な笑みが綻んでいたからだ。
「さて、改めて、セン。中央への使者の命、ご苦労様でした。エリシャ様の仰る通り、しばらく休息するのが良いでしょう。ですが――そのまえに、少しだけ。この老骨とお茶でもどうですか」
総髪の白髪を撫でながら、彼はそのように誘ってきた。彼がこのような誘いを申し出る場合、特別大事な話があるのはいつものことだ。――もっとも、彼が言うことに大事でないことは、センにとって滅多にないことだが。
――この館の執事長は、背が高く、白髪を総髪にまとめた、いかにも紳士風の男が務めている。物腰は常に柔らかく、時には冗談も言う好々爺だ。館の主たるエリシャに面と向かって意見を言えるのは彼ぐらいなものだ。主からはもちろん、従者たちからも信頼は厚い。メイドの中には初恋が彼だったという者もいるとか。ただの噂だが、そんな噂を話すと彼は決まって、ホホ、と日向のように笑うのだった。
「この老いぼれに惚れた晴れたなど、寿命を縮める以外の何物でもありませんが――いやなに、誰かに憎からず思っていただけるのは、幸せなことではありませんか」
茶をカップに注ぎながら、朗らかな声で笑う。まるで孫の姿を遠巻きに見る祖父のようだと、センは感じた。、
静かに一定のリズムで注がれていく茶は、朝陽とともにその香りを室内に満たしていく。それが部屋いっぱいに満ちた頃、テーブルには二つのカップと少な目の菓子が並んでいた。
執事長が席に着いた後、センもその向かいに座った。向かい合わせに座ると、白髪だけの髪が朝日に輝いて、まるで丁寧に使い込まれたシルバーのように見えた。
「財務大臣はご健在でしたでしょうな」
「もちろんです。エリシャ様へのお土産も、いつも通りこちらに」
「ははぁ、これはこれは……あの方も本当にマメな方です。感服ですな」
「ハハ」
流石に渇いた笑いしか出なかった。
「それで、大臣は何と?」
「無論協力を惜しまないと、力強いお言葉を頂けました。――それとは別に、一つ依頼を受けました。これは僕個人に対してですが」
「ほう?」
執事長はここにきて心のそこから興味深そうな顔を見せた。この人物は、これで意外と好奇心が強い。存外いろんなことに首を突っ込みたがる。それこそ、メイドたちの井戸端会議にさえ。
センは少しだけ言葉を選んだあと、非常に抑えた声で小さく言った。
「――アイリのことを調査してほしいと。中央で起きている例の事件の真相解明に協力せよと、そう命令されました」
その報告に、執事長はしばらく何も言わなかった。ただ黙って、自分で入れた茶の水面を見つめていた。それからしばらく、朝の光の中に沈黙が横たわった。軽い沈黙だった。ともすれば、窓を開け放てば簡単に消えてしまうような。
――沈黙は、結局彼自身が小さな息を吐くことで払われた。
「そう、ですか。……あの子も、これで隠れられなくなるのですね」
「――そうですね。これまでのように、陰口に怯えて森の小屋に潜むことは、この先難しくなるでしょう」
「ええ、そうでしょうとも。もともと、あの事件があって以来、彼女はより一層外に出なくなった。だが――ついに、外に立ち向かわなければならないのですね」
執事長は立ち上がった。そのまま、徐に窓辺に寄ると、館の上空を見上げて眩しそうに目を細めた。
センは座ったまま、彼を見ていた。彼がどのような考えをしているのか、解らないわけではない。ただ、「どれ」を考えているのかが、判らなかった。
「彼女にとって吉と出るか、否か……どちらにせよ、私にできることはそう多くはない」
老人は枯れた息を吐いてセンに向き直った。その顔は――静かに、いつも通りの笑みを浮かべていた。
「大臣の命には従いなさい、セン。その上で……アイリのことを頼みます。彼女がいつか、世界に怯えることのないよう、守り、導いてあげてください」
「はい」
息をするよりも早く帰ってきた答えに、執事長は笑みを深めた。微笑む顔の裏側にある考えを推して、途端に恥ずかしくなる。なんとなく、恥ずかしかった。
ひとしきり俯くセンを観察した後、執事長は席に戻った。それから、少し温くなった紅茶を半分ほど飲んで、こんなことを言った。
「覚えていますか」
「……何を、でしょう」
得体の知れない羞恥からようやく顔半分ほど立ち直ったセンは、少し死にかけの声で返事をした。執事長はそれに笑って答えた。
「こんないい陽気だったでしょう。あなたに彼女を紹介した日の翌朝も。忘れてしまいましたか?」
「まさか」
「……フッフ。あなたは、普段は年に似つかわしくないほど言葉を選んで話す癖に、こういう話題だけは何も考えずに喋る」
「……申し訳ありません、今のは忘れてください」
「難しいですねぇ」
そんな風に揶揄う言葉を投げ放って、執事長は朗らかに笑った。
「ですが、なに。あなたも難しいはずだ。そうではありませんか? きっと。忘れる、などと」
執事長の問いかけに、センは答えなかった。即答できる内容だったが、即答してまた揶揄われるのも恥ずかしかったし、そもそも答える必要もないと感じたためだ。
その言葉の通りに、センは今でも忘れられない。
一年と少し前。丁度、今日のような小春日和の中で。
センは、他ならぬ、この執事長から、舌禍の魔女の守護を任されたのだから。