第二章:王城、財務大臣 -依頼-
王城には幾度か訪れた経験のあるセンだったが、単身で訪れるのは今回が初めてのことだった。かといって、主が癇癪を起こすこともなければ、メイド長とともにそれを宥めることもない。仕事量としては、逆に単身の方が少ないくらいだ。――それも、実は少し楽しかったりするのだが。
財務大臣への手紙は滞りなく届けることができた。大臣は手紙を受け取ると、まるで孫からの封筒を受け取ったかのように破顔し、鼻歌交じりに読み始めた。彼はこの国では名の知れた変わり者だ。その理由が――今まさに笑っている理由と合致する。
「おお、エリシャ様はまた字が上達された。今夜は祝いをせねばならんな。――ああ! なんと! 夜が寒くてかなわないなどと! ううむ、心なしか字が震えていらっしゃるようにも見える……ええい! 毛布をここに持て! エリシャ様にお届けするのだ! 王様用のスペアの毛布がまだ残っておろう! 今すぐだ! エリシャ様をお救いするのだ!」
「閣下、お心遣い感謝致します。ですがどうかご安心を。主の執務室は常に暖炉が焚かれておりますし、服も厚手のものを毎日用意しております。そして字が震えているのではなく、手紙を持つ閣下のお手が震えていらっしゃるのです」
「なんと!」
センの言葉に大臣はパン! と小気味のいい音を立てて額を打った。
「ハッハッハ! 麗しのエリシャ様からの手紙とあって、このエルシパ、興奮のあまり手が震えてしもうておったか! うむ、致し方なし!」
「併せて申し上げますと、閣下。涙ぐんでもおられます」
「感動のあまり、な! ハッハ、おうともさ! 致し方なかろう!」
財務大臣――セイム・エルシパはひとしきり大笑いすると、読み終えた手紙を丁寧折り、懐にしまった。その手つきの恭しさといったら、王に献上する書類を持つときよりも気が入っている――とは、彼の側近の印象だ。
「さて。書簡の件、あい、仕った。このエルシパ、エリシャ様のご希望とあらば喜んで尽力致そう。セン、宜しく伝えてくれ」
「はい。確かにお伝え致します。主に代わり心からの感謝を申し上げます、閣下」
センが深く頭を下げるのに、エルシパは雑に手を振った。
「よい、よい。おヌシの礼などいらぬ。なにせ、エリシャ様に代わる者などこの世には一人としておらぬのだからな! うむ、これもまた致し方なし! 天の定めし理である!」
年老いた大臣は年齢など微塵も感じさせぬ豪快な笑い声をあげた。
セイム・エルシパは、今でこそ財務大臣などと裏方の長に就任しているものの、その前職は国王近衛隊長だったという。齢六十を過ぎて角ばった筋骨の巨大さたるや、城壁と並べて遜色ない。たった今、この瞬間も――その巨躯を右手一本で支えて腕立て伏せなどしながら、息一つ切らさずセンと会話をしていた。
動かざるや岩の如く、言の葉の勢いたるや炎の如し。そんな彼を、あまりの動揺と感動に震えさせたセンの主は、言うなれば天災だろうか。
「それでは、私個人から心よりの感謝を、閣下」
「フン、貴様はそういうところが不敵よな。その笑みで落とした女子の数を数えたことがあるのか、ええ? この女の敵め。貴様、自分の顔面が妖精のそれとほぼ同じということをわかっておるだろうに。実に賢しい、いや、小賢しいわい」
「……ええと。お褒め頂き恐悦至極でございます、閣下?」
「これを褒め言葉と捉えるのは国中探しても貴様くらいだろうよ、スカタンめ」
呆れたようにエルシパは鍛錬を止めて立ち上がった。立ち上がってみると背丈はセンよりはるかに高い。並び立つと幼子と大人のようだった。
エルシパが見下ろして言う。
「――貴様に依頼がある。しばし、この年寄りの話に付き合え」
シン――と。
室内に静寂の音が満ちるのに、ほんの一瞬もかからなかった。遠くで従者が固唾を飲む音が、妙に鮮明に聞こえた。センは、その音が示す自分の状態を、つまり緊張だと捉えた。
エルシパは懐から紫煙を一つ取り出すと、火を点けて口に含み、細く吹いた。独特の匂いが鼻をつく。紫煙を嗜まないものからすれば、一般的に忌避される匂いだが、センは別段気にしたことはない。付き合いで吸ったこともある。慣れれば、悪くないものだった。
「お話、と申しますと」
「分かっておろうに。舌禍の魔女よ」
事も無げに言う。その言葉は、どうも軽い。真面目な顔をした割に軽い言葉に、センは一つのことを思いついた。
「閣下。失礼ですが、その話はどなたから?」
「ハン。賢しいな、やはり。……アア、宰相よ。我が国の宰相様からの依頼だ、セン」
興味もなさげに、彼はさらに紫煙を吹き出す。歩いてきた砂地の匂いが少しずつ掻き消されていくようだった。
「昨今、かの魔女の噂が国内を騒がせておるのは、どうせ貴様のことだ。知っておろうな」
「ここにくる道中で耳にしました。看過できない事態にあるようだと」
「左様。数えるに忍びない幼子が行方をくらまし、夢多き兵が命を落とした。国の宝たる緑は荒らされ、人の心も安寧も傷つけられた。我らはこれを国が主だって、優先して解決すべき事件と認識し、調査中である」
存じております、とセンは頷きだけで返した。
「この件について、ことが起きた三か月前より我々は綿密な調査を行ってきた。舌禍の魔女はすぐに取り調べを受けたし、結果として何も証拠は得られず、釈放となった。面倒くさいことに、彼奴めの魔素配列と現場のソレとでは微妙に配列が異なったのが釈放の大きな要因だ。これにはエリシャ様にもお力添えを頂いたから、まず間違いはあるまい」
エルシパの言葉――特に最後の件から、センは絶大な信頼を感じた。
これは別に、エルシパがエリシャ――センの直属の主、エリシャ・ヘンリース卿に心酔しているからというだけの理由ではない。
ヘンリースは魔法解析学の始祖にして、エリシラ国随一の権威として名高い。戦闘にこそ適正はないものの、こと「その魔法がどのようなものであるか」を検分するにあたっては何者にも譲らない。この実力は国中が認めるところであるし、何より、ヘンリース卿がエリシラの一部地域を任される領主となった要因の最たるものでもある。
だから、エリシャが「違う」と言ったのなら、それは「違う」。そのことに、「間違いはない」。
「だが……正解などいくらでも作りようがある」
「……偽造魔法を疑ってらっしゃるので?」
「そう疑うのがまず第一であろうよ。なんせ、エリシャ様が解析して下さった配列は、別人にしては似通うに過ぎる。適合率九割二分などと。一子相伝で同じ魔法系統を受け継いだ者らでも、いや、そうはいかぬ」
魔素配列とは、人間が持つ魔素の、基本的な骨組み、その並びのことだ。
魔法を起こすには先ず元となる魔素があり、それらは五つの種類に分別される。この五つの魔素は、人によってそれぞれ比率が異なり、親子・兄弟、さらには双子であっても確実にどこかしら異なる。これを鍵に、その魔法を解析するのが、文字通り、「魔法解析学」だ。再現性の高い解析方法として、現代では最もポピュラーに検証に用いられている手法でもある。
偽造魔法はこの魔素配列を意図的に組み替え、上書きすることで、魔法を行使した人物の特定を困難にするものだ。相当な技術を要する上に、偽造魔法に独特な魔素の「歪み」が必ず出てきてしまうために、目くらまし以上の用途足りえない。加えて使用は国から厳しく制限されているため、習得しようとする者がまず少ない。習得には国役所での登録が必要であるし、センの知る限り、習得している者は皆、王の配下かそれに類する者だけである。――即ち、諜報部門として、だが。
しかしな――、とエルシパは紫煙を吐いた。
「偽造魔法による歪みが認められなかったのも事実だ。ほとんど素人のワシでも解るほどに、自然な配列であったからな。少なくとも、エリシャ様がそう仰る以上、我々には如何とも出来ぬ領域であろうよ」
そう言う彼の顔は、別段口惜しいという風でもない。どちらかと言えば、別のことに興味が注がれているように、センには見受けられた。
「では、次に疑うべきはどのようなことでしょうか」
「わからん。第三者というには似通りすぎておるし、同一人物というには確率が足りぬ。ただ――ワシ個人の見立てなら、あの娘は、人を殺してはおらぬはずだ」
当たり前のように言い放った一言に、センは言葉を失った。先ほどまで第一容疑者の扱いを受けていた舌禍の魔女が、人殺しをしてはいないという。そう言うエルシパの目からは、常以上の自信を感じられた。
「……そう仰るからには、」
「根拠があるのだろうと? ない。根拠など何一つない。少なくとも再現性のある根拠はない。これはワシの勘だ。この国に長く命を捧げてきた者としての、直感よ」
カカ、と鳥のような笑い声が響く。一瞬にして、手紙を読んだ直後の顔に、エルシパは立ち戻った。センはその急激な変化に困惑したが、周りを見れば側近の女性が嘆息している。戯れが過ぎますわ、と彼女が言うからには、きっといつものことなのだろう。
「良いか。あの娘はそもそも、意図的に他己を殺害せしめるような、そんな魂胆も胆力も持ち合わせてはおらぬだろうよ。目を見ればわかる。自分が何者かを殺したと自覚のある者はな」
「……舌禍の魔女にはそれがない、と?」
「ああ、あれはただの小鳥よ。土砂崩れに怯えて飛び立った小さな鳥と変わらぬ。どのような魔法を使うか、沈黙の舌禍などと呼ばれる所以も知らぬが、少なくともこの事件にはさほど関係あるまい」
「では――では、閣下。なぜ閣下は舌禍の魔女をお調べになられるのですか」
センの素朴な疑問に、エルシパは鼻を鳴らして答えた。
「知れたこと。彼奴めの魔素配列の件よ。当の下手人ではなかろうが、あれは自然に似るに過ぎるからな。彼奴めに関係する何かしらの意図が働いておることは明白。であれば、所在も正体も知れぬ某の足取りを直接追うより、居所も顔も割れておる彼奴の調査から手掛かりを得た方が効率が良い」
「魔女の背景から真犯人を暴き出すと?」
「左様。さて――概ね、これで依頼の内容は解ったか、セン」
エルシパは口を弓張月の形に歪ませてセンに問うた。この人物の悪いところだと、センは思っている。すなわち、人を試したり、人をからかったり――人で遊びがちなところだ。しかし、呆れるほどの悪戯な人物でも、目上は目上。使者としてのセンに失礼は許されない。おくびにも呆れを表に出さず、センは来訪時と同様、とびきりの笑顔で答えた。
「魔女に関する私的調査ですね、閣下」
「然り!」
大音声がセンを打つ。あまりの大声に四肢がピリピリと痺れる錯覚さえ起きた。
「宰相閣下からの命は、かの事件の下手人と特定せよ、であった。別段誰が犯人でも良いのだろうよ。また、明確な捜査方法も言及されておらぬ。であるからには、調査に城外の者を登用したとて問題はあるまい。そして――貴様は耳聡い。顔もそれなりに広かろう。城内でも貴様の噂は耳にする。貴様の来訪を待ち望む下僕どもも多い。少々疎ましくはあるが、今回のような情報収集には適任であろうよ。どうせ城外にも唾をつけておるのだろう、貴様のことだからな」
「お戯れを……過大評価です、閣下」
「笑いながら何を抜かすか、若造め。これはワシの直感で申しておる。それが全てよ」
「……参りましたね」
センは頬を掻いて初めて苦笑いを浮かべてみせた。どうも身に余る評価をされているようで、戦々恐々とする。
「良いか、大臣として一国民たる貴様に命を下す。舌禍の魔女の生まれ育ち、関係深い者の存在、その他あらゆる情報を調べ上げ、報告せよ」
威厳と威圧に満ちた声がセンの頭上から降り注ぐ。これで一介の大臣に過ぎぬというのだから、無茶苦茶だと思いながら、センは静かに頷いた。
「ご拝命、確かに承りました。この身の及ぶ限り、任務遂行に尽力致します、閣下」
このようにして、センに仕事がまた一つ増えた。実のところ、一番厄介な仕事だと、センは胃が痛む思いであった。
サブタイトルに第〇章:が抜けていたのでなおしました(照)