第一章:舌禍の魔女
世界は砂漠に満ちている。
何世紀前だかは学園の教本にも載っていないが、少なくとも知を孕む人々が図や文字を記すようになった時にはすでに、世界はそのようになっていた。
「一説には、神が別の世界――砂漠と荒野のみの渇いた世界を創られた時に、その世界の渇きの半分をこちらに分けたのだ――ってぇハナシもあるがね」
兵士の一人、顔の厳つくない方――ハイルと名乗る青年が、そんな解説をした。
「その説によるとだ。この世界は元々、木々の溢れる豊かな場所ばかりだった。だが、平等なる神は二つ目の世界をも愛されたので、片方の世界にばかり苦しみが溢れるのは許容できなかったんだと。……たまったもんじゃねェけどな」
ハイルはケラケラ笑いながら、そんな不満を漏らした。背の高い彼の笑みを見上げながら、センはどうしてそう笑えるのかと不思議に思う。不満に思うなら、それらしい顔をすればいいのに。
ハイルの話を受けて、厳つい顔の兵士が口を開く。
「それで、あちらから移した砂漠と同じだけの緑を、こちらから持って行ったのだそうだ。その結果二つの世界は平等になり、両方の土地の人々は何とか生活ができるようになった、と」
こちらは鼻を鳴らしながら、面白くもなさそうに喋っている。首には宝石のついた飾りがついている。伴侶がいる証だ。敵意がなくなった後でも怖い顔のままの兵士は、名前をケインというそうだ。こんなに屈強で強面の彼を旦那に選んだ女性の人柄が、センには興味深く思えた。
「しかし、ハイル。お前、これは昨日お前の近所のチビから聞いた話だろう」
「そうさ、だから一説には、と言っただろ」
鳥のような笑い声を上げるハイルに、ケインはため息を落とした。センもセンで、何だそりゃ、と内心顔を顰めていた。
一頻り笑ってからハイルが、しかしな、と続ける。
「ガキどもがこんな凝った話を思いつくわけはねぇ。あんなハナタレにしちゃあ出来が良すぎる。あいつらにホラぁ吹き込んだ野郎がいるのさ。だから、ガキの幻想ってぇわけじゃないさ」
「なに? おい、そんな不審者情報があるならなぜ報告しない。規律違反だろう」
「俺の推論だからな、事実でもないものを報告するのも規律違反さ。……もっとも、まるきり俺の妄想とも思わねぇが」
「……というと?」
センの疑問詞にハイルは口角を吊り上げて答える。
「沈黙の舌禍――ってぇな、知ってるかい、兄ちゃん」
「…………いいえ」
多めの沈黙の後、否定。それをハイルはどう捉えたか、まじまじとセンを見つめてから、続けた。
「沈黙の舌禍ってのは、この国にいる魔女の呼び名さ。何聞いてもなぁんも喋らねぇもんだから、こんな呼び名になった」
「喋らない、というのは」
「そのまンまさ。奴さん、何尋ねられても口を開きゃしねぇ。ただ質問に答えねぇって意味じゃねぇぜ。いや、それはそうなンだけどよ。ホントに口を閉じたまんま、開きもしねぇ。たまに口を開けたと思やぁ、出てくるのは息だけさ。ハァ、とも言わずに溜息を吐くのさ」
気味わりィ、とハイルは吐き気を催したような仕草をする。広げた両手はお手上げの意味だろうか。
その顔には辟易したような色と――熱湯のような、煮え立つ感情の泡沫が浮かんでいた。
「罪人と決まった者でもないのに、そのような陰口を叩くものじゃない。そもそもあの者が例の惨事を起こしたかどうかの因果関係は肯定できてなかったはずだぞ。余所様を前にして不確かなことを語るのは関心せんな」
難しい顔をより一層難しくしたケインが窘めるのに、ハイルは空の返事を返した。
「班長様は生真面目なこったぜ。まぁ俺が副班だからつり合いはとれてるか。オイ、いいコンビだな俺たち」
「恐悦至極だ、馬鹿者」
荒く鼻を鳴らして、それからケインはセンの方を見た。頭だけ簡便に下げて、流言の失礼を詫びる姿に、苦労人なのだろうなとセンは想像した。
「それで……その喋らない魔女がどうして噂話の犯人になるんですか? 喋らないのだったら、別に関係なさそうなものですが……」
もっともなセンの質問に、ケインが答えた。
「ああ……それは、あの者が舌禍の魔女と呼ばれる契機となった出来事が故でな」
「と、言いますと?」
「あまり確かな情報がない事件だから、人様に話すようなものではないのだが……まぁ、現場の人間の話も、魔法卿の御耳に入れば何か進展があるやもしれん」
そんな打算的なことを前置きにして、ケインは慎重に話を始めた。言葉を選ぶように、噂を伝える中で嘘が混じらぬように。そんな気配を彼の声から感じながら、センは黙ってそれを聞いていた。
ケインの話の内容は、おおよそ次のようなものだった。
楽園国の中央領地を占める、王が統括する王領。その西の地域で、子供が複数人失踪するという事件があった。ちょうど三か月ほど前になる。その地域は貧民街であり、人さらいなどは時折起きていたが、一度に十人以上がいなくなるという事態は過去に例を見ない。王族憲兵団はこの事件に対して、中央の人民全体に関わりかねない危険事案と判断を下し、捜査に当たった。
結果として、分かったことが三つある。
まず、子供たちは皆「行かなきゃ」と言って家を出た。人さらいの線で捜査をしていた自警団にとって、この情報は狐に摘ままれるようなものだったそうだ。
次に、彼らが失踪したとき、貧民街に多くの動物が見られたという。犬猫の類はさておき、家畜や、ふだん街に現れない狼や鷹などまで出てきて、一様に西へと向かっていったという。一種異様な光景だったろうと、センは想像できた。
そして――。
「その動物たちが、皆、一人の少女の前に傅いていたのだ。敬うように、畏れるように」
「傅いていた……ですか」
「そうだ。まるで王を前にした兵士や人民のごとく、首を垂れ、地に伏し、崇めるような声で鳴いたのだ。そして、やつらの中心で棒立ちに立っていたのが、他ならぬかの人――舌禍の魔女だった」
「だった、というからには」
「私がこの目で、その光景を見ている。あれは……こういう曖昧な物言いは、憲兵として宜しくはないだろうが、それでもあえて言えば、異常だった」
そのとき、センは初めて、この厳つい憲兵の、慄きの声を聞いた。それは、巌が震えるようで、大きな地震が起きたか、あるいはそれに匹敵するような畏怖さえ感じさせるものだった。
「……ですが、聞いている分にはただ動物たちに好かれるだけの女性にも思えるのですが」
センの物言いに、ケインは眉間のしわを深くし、ハイルは逆に悪辣な嗤いをとばした。
「そんなかわいらしいもんかよ。兄ちゃん、やっこさんが魔女だってぇのを忘れちゃないか」
「……話の中から魔女らしいものが見えてきませんでしたので。ええと、どういうことがあったんですか?」
「……人が死んだのだ」
「――――」
ぽつりとこぼれるような言葉は、切っ先鋭くセンの声を断った。
「そんな、」
ようやっと紡いだ声はあまりにも力なく、楽園の花風にたやすく掻き消された。
直後、ハイルが大仰に天を仰ぎ、その細目を右手で覆ってため息を吐いた。
「死んだのさ。奴さん、うちの兄弟がビビりながら声かけたらギョっとして一目散に逃げ出したんだ。兄弟はもちろんそれを追いかけた。話を聞かんことにゃ、罪人かどうかもわかんねぇってな。俺もケインもその後に続いたさ。そしたら、ああ……」
ハイルは転び出たかのような息を吐き、センの顔を見た。その目は濃い青色をしていて、深水のように底が見えない。まるで何かを沈めているかのように、深い色だった。
「――よぉ、使者サマ。あんた、森ん中で雨も降っちゃいねぇのに、土砂が横から襲ってくるなんて、想像つくかい?」
ハイルの顔から、冗談味が消えたのを、センはこのとき初めて見た。出会ったとき、槍を構えられたときでさえ、その顔には軽薄な薄ら笑いが浮かべられていた。
だというのに――その男が、心の底から真剣に、自分に問うている。
馬鹿らしいと笑われるかもしれないが、センには、そのことが彼の真実の証左だと思われた。
「……魔法、ですか」
「それ以外に何があるってんだ。デブが丸太で山ドついたら泥が雪崩んのかって話だよ」
「ハイル、口が過ぎるぞ。使者様に失礼だろう」
ケインが厳つい顔をより一層厳つくして窘めると、ハイルはバツが悪そうにそっぽを向いた。
「いえ、お気になさらず、気にしてません。それより、その土砂崩れは、その魔女が起こしたものだと、そういうことですか」
センはハイルに質問したつもりだったが、これにはケインが答えた。正確には、ハイルが何事か口を開こうとしていたのを遮るように、先にケインが発言した。
「わからん。確たる証拠がない。彼女がそれを行ったという証拠も、そうでないという証拠も、どちらもない。そのように言われている理由は、現に彼女がそこに居合わせたということと、例の動物たちの一件。それから、彼女が逃げ出した直後に土砂崩れが発生したという、この三点のみだ」
「疑うには疑えるし、疑いたくもなりますが、証拠としては今一つ、ということですね」
「……けッ」
舌打ちともつかないような悪態を、ハイルがついた。直後彼はケインとセンを置いて、ズンズンと先に進み始めた。
「おい、ハイル。どこに行く気だ」
ケインが引き止める手を鬱陶しそうに払って、ハイルは顔だけ振り返った。
「ションベンだよ、うるせェな! 便所くらい黙って行かせろ。ここで漏らしてやろうか!」
語気も荒く吐き捨てて、ハイルは艶やかな喧噪に紛れて消えた。その後ろ姿を見失って、ケインは深く息を落とした。
「申し訳ない、使者殿。いつもはああじゃないんだが、あの事件の話になると、どうもな……」
「気にしていません。僕の方こそ、彼に嫌な思いをさせてしまったようです。次に会ったら謝罪します」
「いや、使者殿が詫びるようなことは何もない。……あいつも、まだ折り合いがつかんのだ」
「……と言いますと」
「…………」
ケインは一度口を閉ざした。自分の失言を後悔しているようでもあった。しかし、口角を小さく動かしているところを見るに、センには、それでも何か話したいようにも見えた。だから、センは次の言葉を待った。
街中に風が吹く。花の風に乗せられた喧噪は軽やかで華やかで、おおよそ目の前の大男のしかめ面は似合わない。場違いな男は、ようやっと諦めがついたように――あるいは、何かの「決心」がついたように、言いにくそうにしていたことを教えた。
「あいつ――ハイルのな。弟が、死んだのだ。ちょうど、その土砂に飲まれて。一瞬のことだった。あいつは、それを目の前で見ていた。私もだ」
「――――」
無言で、呆気にとられたセンを置いて、ケインは続ける。
「だからあいつは、あの災害の主犯が許せない。そして、あいつにとって目に見える容疑者は、舌禍の魔女、その人だけだ。だから、あいつは舌禍の魔女を憎んでいる。それしか、想いの――怒りのやり場がないから」
「それは――」
それは、何だ。
センは言葉が出なかった。それは、可哀想だ? それは、残念だ? それは、申し訳ないことを聞いた? ……いや、どれも違う。そんな言葉すら、喉元にも出てこない。
大切な人を喪った人物に、かけられる言葉などあるだろうか。失くしたものの大きさに、見合う言葉などあるだろうか。
少なくともセンはそれを知らない。そんな大きな言葉など、彼の頭には一つもありはしない。
街中に風が吹く。ハイルの姿はもうどこにもない。隣を歩くケインの顔は厳ついままだ。
花の風は王城へと進み、その道をセンたちに示してくれる。だけど、その道の先にも、きっと、その答えはない。