死神サチコのお迎えファイル(三十と一夜の短篇 第21回)
青い空、暖かな太陽、立ち並ぶ家屋。その中の一軒の屋根の上に、一人の少女と一匹の黒猫がちょこんと座っていた。少女がふああ、と大きなあくびをすると、隣にいた猫もつられてあくびをする。小春日和のぽかぽか陽気。日向ぼっこが気持ちいいある日の午後である。
「あー、こんな素敵な日にまだ仕事だなんて」
「まったく」
猫が前足をぺろぺろと毛づくろいをしながら相づちを打った。黒い毛並みは艶があり見事なものだが、むちむちと太った大きな猫であった。
「ねえサスケ、もう少し休憩してからにしない?」
「だめ。サチコはいつもそう言う。面倒ごと、早めに片付ける方がいい」
サスケと呼ばれた猫は背中を毛づくろいし始めた。その横でサチコと呼ばれた少女がため息をつく。可愛らしい花の模様がついた着物を着ている、おかっぱ頭のちんまりした女の子だ。
「……仕方ない、頑張りますか」
そう言うとサチコはどこからともなく一冊のファイルを取り出した。黒くてわりと年季が入っているように見える。目でつらつらと文字を追い、現在地と目的地を確認する。ふむふむと小さく納得して、ゆっくりと立ち上がった。
「そんじゃ、迷える魂のお迎えにいきましょかね」
「あい」
彼女は死神サチコ。死してなおこの世にさまよう魂を天に導くのが仕事である。東に家族が心配で成仏できないという主婦の霊がいれば、行って大丈夫だと説得し、西に死んだ事に気付かないお爺ちゃんの霊がいれば、わりとストレートに教えてやる。
これは死神サチコと、この世に未練を持った人々の、ちょっとした小話である。
【鈴村ひかり(26歳)の場合】
着物の少女と一匹の黒猫がひっそりとした真昼の住宅街に降り立った。サチコは辺りをキョロキョロ見回したあとに手元のファイルに目を落とす。
「この辺のはずなんだけど」
「たぶん、こっち」
サスケがとことこと歩いて先を示す。そうしてたどり着いたのが、一棟のアパートだった。わりと綺麗な外装で、一人暮らしするには丁度いい物件のようだ。階段をえっさほいさと登り、たどり着いたのは3階の角にある部屋だった。サチコとサスケは、扉を開ける事なくすーっとすり抜けた。彼女たちは普通の人間ではない。壁抜けなんておちゃのこさいさいだ。玄関を抜け中に入ると、家具は何もなく、しんと静まり返っている。きっとこの部屋の住人が亡くなってから綺麗に片付けられたのであろう。部屋の奥に進むと、ベランダに一人の女性が佇んでいた。パンツスーツ姿で、長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。
スーツを着た女性の霊は一心に窓の外を眺めていた。サチコは小さく息をはいて気を引き締め、彼女に話しかけたのであった。
「こんにちは、私はサチコ。あなたをお迎えに来たわ」
彼女の名前は"鈴村ひかり"と言った。聞けば、ブラックな会社で働き過ぎたあげくの過労死だという。
「あの日の朝、会社にいく準備をしていたらものすごい頭痛に襲われました。思わず吐いちゃうくらい痛くて。それで倒れて、そのまま死んじゃったんです」
鈴村はもう痛くないはずのこめかみをそっと抑えた。
「そうだったのね。でも自分で分かっていると思うけど、あなたは死んだのよ。どうしてこの世に留まっているの?」
「それは……」
答えたくないのか、鈴村はうつむいてしまった。単純に考えれば死の原因は勤めていた会社なのだから、恨みつらみの感情がそこへ向けられていてもおかしくはない。
「あなたを死に追いやった会社が憎い? 復讐したいと思う?」
サチコがそう問うと、鈴村はふるふると首を横に振った。
「……いいえ。確かにあの会社に思うことが無いわけではないですが、でもどちらかと言うと、もう関わりたくありません」
「そう。じゃあ、どうして……?」
鈴村はちらりとサチコを見ては顔を赤らめてもじもじとしている。こういった霊の未練なんかは、他人に伝えるのが恥ずかしい場合もある。しかしその憂いを取り払い、魂を天に導くのがサチコの仕事だ。
「大丈夫、秘密は守るわ。私の事は相談屋だと思って言ってみて」
鈴村は「うー」「あー」としばらく呻いていたが、観念したのか、恐るおそるといった様子で語り始めた。
「……私、倒れた時に思ったんです。ああ、女の人の柔らかい太ももの上で介抱されたいって」
「……うん? 」
サチコがいまいち理解できなくていると、鈴村は顔を赤くし、ぶんぶんと両手を振り弁明する。
「いえあの、ほんとに一瞬だけなんです!やましい気持ちとか、全然! ……あの、でもその一瞬だったんですけど、気づいてしまったんです。私は女だけど、女の人が……好きなんだって」
ああ、なるほど。サチコは合点がいった。
「だ、だって、女の人の方が可愛いしキレイだしお洒落だしいい匂いがするんです。肌もやわらかいし、ヘアスタイルだって色々あって素敵だし、バストは大小ありますがみんな違ってみんな良い的な……」
ものすごい勢いで女性がいかに素敵かを語り出した。誰が好きかはその人の自由だ。誰に恥じることなどない。しかし世間では同性同士の恋愛は一般的ではない。鈴村はもちろん自分自身も異性が好きだと思っていた。しかしこの想いに、死ぬ瞬間に気付いたということのなのだろう。
「ええっと、じゃあ、窓の外を眺めていたのは?」
「日がな一日、素敵な女の人がいないか見てました」
きゃっと両手で顔を覆う鈴村。サスケが足元でやれやれと首をふっている。
「生きている頃はこんなにゆっくり日々を過ごしたことなかったんです。小さい頃から勉強に部活、大人になったら仕事漬け。死んだ今の方がとても楽しくて。それに、死んでから言うのもなんなんですが、一度でいいから素敵な女の人と、……その、イチャイチャしてみたくて……」
「魂は肉体を離れたら天に還るものなのよ。全ての生物が同じ。そこでまた次の生を受けるの。あなたがここにずっといるのは良くないわ」
「分かってます。でも……」
うーん、しばしと考えたあと、サチコはひらめいた。鈴村に向かってイタズラっぽく笑いかける。
「じゃあ、女の人と何か思い出を作れればいい?」
鈴村は驚いた顔をしてしばらく固まった。そしてまばたきを何度すると、恥ずかしそうに、そして嬉しそうに「はい」と返事をしたのだった。
「ちなみに、ベランダから見てて、この人素敵だなと思った女性はどんな感じ?」
ちんまりとした少女のサチコではいささか無理があるだろう。
「あ、あの、いかにも仕事のできるキャリアウーマンて方が見てて素敵だなと思いました! ヒールの靴でカッコよく歩いたり、お洒落なスーツを綺麗に着こなしてたり。女性らしさはもちろんあって、髪やお化粧がきれいに決まってて。別に見た目がきれいだから好きっていう訳じゃなくて、そういう風に頑張ってる姿勢に憧れるっていうか。うーんと、クールビューティなお姉さまっていう感じが好きなんだと思います。あ、いえ、サチコさんも可愛らしくて素敵だと思います」
最後に気を使われた。しかしサチコは気にしない。
「それなら……」
パチン、とサチコが指を鳴らすと一瞬でサチコの姿が変わった。
「へ?」
あどけない少女は、グラマラスな大人の女性へ。しっとりとした着物は質のよさそうな黒いスーツへ、その形を変えた。艶やかな黒く長い髪は背にたらしてあり、耳元には金の美しいアクセサリーがつけられていた。長いまつげに縁どられた瞳は神秘的な黒色で、対照的に口元に引かれた赤いルージュが印象深い。その赤い唇が、にっと弧を描いた。鈴村のほうへ腕をのばしたかと思うと、腰を抱きよせ、顔を寄せた。左手は鈴村の腰に、右手は彼女の左手を優しく握っている。
「え? あ、あの、」
「ふふ、緊張しなくていいわ」
まつ毛が触れそうになるほど近づいてくる。サチコの吐息を唇で感じ、鈴村は頭が真っ白になっていった。そして次の瞬間。
ぶっちゅううううう。
何が起こったのか、鈴村は理解できなかった。しかし次第に柔らかなサチコの唇の感触と、抱擁されている温もりを感じる。
(あわ、あわわわわ、綺麗なお姉さまが、私に、キキッ、キキ、キスしていらっしゃる……!? しかも、マウス トゥ マウス!? ああ、やわらかい、甘い、気持ちいい……!!)
サチコが唇をそっと離すと、鈴村はぷはっと小さく息つぎをした。未だに自分に起こったことが信じられないようで、うるうるさせた瞳でサチコを食い入るように見つめている。
「さ、天に還るのよ。そしてまた生まれてきなさい。次の生で、やりたいことやりなさい」
にやりと微笑むサチコのその表情はとても妖艶なものだった。
「……あ、あ、」
鈴村は顔を真っ赤にさせて口をはくはくさせている。たらり、と赤いものが鼻から垂れた。
「……あ、ありがとぉぉおおございまぁぁすっ!!」
彼女は鼻血を吹き出しながら、天に召されていった。それはもう晴れやかな笑顔だった。その様子をサチコは満足そうに見守る。これで一件落着だ。しかし、今までおとなしくしていたサスケが不機嫌そうにしっぽを揺らした。
「サチコ、やりすぎ」
「かわいらしい子だったからつい」
パチンと指をならすと、サチコはもとのちんまりとした着物の少女に戻ったのであった。
【楠木七斗(15歳)の場合】
サチコ達が次に訪れていたのは、町の図書館だった。先程と同じく、黒猫のサスケが案内を務める。ちょっと太めのこの猫は、霊の居場所を感知してサチコの先を歩く。時刻は午後3時といったところで、中にはまだ多くの利用者がいた。本棚の前で立ち読みしている人、いい本がないか物色している人、何冊か抱えてカウンターにいく人、机で勉強している人。そんな人たちに混じって、一人の少年の霊が図書館内をウロウロとしていた。近くの高校の制服を着ているので、きっとそこの学生だったのだろう。人が読んでいる本を横から覗いているようだ。サチコはその少年のそばまで行き、そっと話かけた。
「こんにちは」
少年はチラリとサチコを見るが、自分には関係ないと思ったのか、またふいと視線を戻した。
「こんにちは。君よ、君。そこの死んでる君」
死んでる君、と言われて少年はようやく自分の事だと分かったようだ。
「……え、おれ?」
少年はとても驚いた顔でサチコを見つめた。”なんでコイツおれの事見えてんの?”とでも言いたげである。もちろんサチコ達は死神とその助手なのだから、普通の人間には見えないし、逆にこの世の魂たちとは接触ができる。久方ぶりに話しかけられた少年は、目をぱちぱちしてサチコを見つめた。
「私はサチコ。あなたをお迎えに来たわ」
ふふ、と微笑む彼女はとても可愛らしく、少年は止まっているはずの心臓がちょっとだけドキドキと高鳴った。
「楠木七斗。ちょい前に死んだ。死んだのは多分、自転車で事故ったから」
なんでも自転車で下校中、ブレーキが壊れて勢いついたまま交差点に突っ込んだらしい。しかし死後の彼はその事故現場に留まることはなく、なぜか図書館にいる。
「君はどうして図書館で本を読んでるの?」
楠木少年はどう答えて良いものか悩んだ。
「……えーっと、笑わない?」
「笑わないわ。たぶん」
サチコはいたって真面目に答えた。
「え、たぶんって……まあいいけど。いや、おれ事故って死んだじゃん。そんで意識無くなる前に思ったんだ。これ、異世界転生できるんじゃね? って。ほら、最近アニメとかでよく見るし」
黒猫のサスケがこれ見よがしにため息をついた。サチコは約束した手前、笑いたいのを我慢した。
「でもさ。よく考えたら、おれこのまま異世界転生しても、なんもできなくねって思ったんだ。物知りなわけでも無いし、ケンカも全然したことないし。だからせめて、転生する前に本読んで、頭に知識いっぱい詰め込んどけばいいんじゃないかって」
彼はあちこちの本棚をふわふわ飛んで、人々が開いている本のページを覗いていく。
「サバイバルの方法とかは知っといて損はないし、兵法とか武器の仕組みとかも知りたい。レシピ知っとけばうまい料理作れる。色々勉強とけば、その世界でおれヒーローになれるかもしれないじゃん。だからおれ、勉強しなくちゃと思ったんだ」
楠木少年はきらきらした目でずいっとサチコに詰め寄った。
「ねえ、サチコさんなら分かる? おれ、次どこに転生する? 異世界とか行けちゃう? ゲームの世界、行けちゃう?」
「地球に生まれたものは、何度生を全うしてもまた地球に生まれるわよ」
「えーーっ! それマジで言ってる?」
「おおマジよ。それに次何に転生するかも分からないわ。人間じゃない可能性だって充分あるの」
「え、でもおれ人間だよ? 人間なのに次は虫なっちゃったりするの? なんにも悪い事してないよ」
「……うーん、なんて言えば良いかしら。別に悪い事したら動物や虫になるわけじゃないのよ。この世に生きとし生けるモノは、すべてに肉体と魂があるわ。植物や微生物だってそうよ。肉体という器の中に魂が入っているの。生き物によって大きさはまちまちだわ」
イメージとしては、広大な砂漠があって、バケツでその砂漠の砂をすくう。バケツが肉体で砂が魂だ。そして広大な砂漠というのが、天である。バケツが壊れれば、砂は再び砂漠の一部となる。つまり、肉体を失った魂は全て等しく天へ還り、また命として生まれるのを待つ事になるのだ。そして次にどんなバケツですくわれるかは、神のみぞ知るところである。
「たまに前世の記憶があるという人がいるけど、きっとそれは前の魂が崩れないまま、次の生に行ったのだと思うわ。そういう事もあると思うもの。でも何に生まれ変わるかは私には分からない」
「君の来世は人間かもしれないし、オオグソクムシやワカメかもしれない」
「え、ワカメ……」
「あら、三陸生まれならエリートよ?」
「ワカメのエリート……」
世の中には知らない方が幸せなことがある。楠木少年にとってはこれがそうだったようで、ショックを受けたようだ。見かねたサスケがのそりと歩き出し、楠木少年の足元にすり寄った。
「……わ、でかい黒猫」
少年はそっとサスケの頭をなでると、サスケはお返しとばかりに少年の手をなめた。ザラザラとした舌がくすったく感じる。
「おれの事なぐさめてくれてんの? おまえ、いい奴だな」
そういって少年はサスケを抱き上げ(案の定重い)、しばらくの間「ワカメ、ワカメ、エリートワカメ……」とぶつぶつ言いながらサスケの体をなでまわしていた。
結果として楠木少年のお迎えは失敗に終わった。彼はまだ図書館におり、人々が開く本を横から覗いている。聞けば、最近はとくに海藻や海の生き物のコーナーに多く出没しているようだ。
「サチコ、説得下手」
「ごめんなさーい。近々また行くわ」
図書館をあとにした一人と一匹は、穏やかな陽光が射す街路を歩く。風は冷たいが、天気は良い。サスケは黒い立派な尻尾をぴんと立てて、サチコにすり寄った。
「もう、仕事終わりでいい?」
基本的にサスケは面倒くさがり屋だ。だから面倒なことは早めに終わらせて、さっさと楽をしたいと思っている。サチコが終わりだと言えば、この太めの黒猫は日がな一日日向ぼっこをしているだろう。
「今日、がんばった。チュールル買って」
緑色の目をキラキラさせてサチコを見上げる。チュールルとはサスケが大好きな猫用のおやつだ。サスケもサチコの助手だけあって普通の猫とは違う。霊を感知できるし、扉だってすり抜けられる。しかし、このむっちりした大きな黒猫はそのあたりの猫と同じくチュールルが大好きなのであった。
「うん。今日はこれで終わりにしちゃお。でもお金300円しかもってないや。足りるかな。正造のところに寄ってからいこっか」
こうして死神サチコと黒猫の助手サスケは、日々迷える魂を天に導かんと奮闘する。それが死を司る神であるサチコの仕事だからだ。だけどうまくいく日はそうそうない。一人と一匹は、今日も今日とてゆるーく頑張るのであった。
ま、間に合った……