三人
「どうしても、このキバコがあかんのです」
そう言って、手のひらほどの木箱を持った老人がこの屋敷を訪ねてきたのは、ある年の夏の終わりの事だった。
見れば継ぎ接ぎだらけの着物に、その肌は黒く日焼けしている。近隣の村の農民であろうかと、少年は一人思った。老婆の三倍ほどもある立派な檜の門に、その姿は相応しくない。少年は、貧民だからとその命を軽視することはしない。が、些か礼儀を欠いているのではないかと、内心で苛立ちを覚えた。
「それはそれは。少し見せて頂いてもよろしいですか? 」
少年の主は口を開くと、その老婆の傍へと向かい、手にしていた木箱を受け取る。
少年は主を制することをせず、ただじっと二人を見ていた。
近くにいた門番が代わりに驚き、訴えるように少年を見る。けれど少年はその視線に気が付きつつも、主である少女の行動を制することはしなかった。
彼女が大丈夫だと判断したのなら、きっと良からぬ者ではないのだろう少年は思う。以前にも、何度かお同じ事があった。若い女が決して割れない瓶を持ち込んだ時、年老いた男が曇りの取れない鏡を持ち込んだ時、小さな幼子が冷たくなった猫を持ち込んだ時、毒が塗ってあることもあるのだと、少年は少女が直接触ることを制した。けれど少女は、「大丈夫、彼女は本当に困っているだけですよ」とだけ言って、その手を取った。
少年は何故か、少女の言う事を疑うことができなかった。
少女は、嘘について異様に過敏であった。
「これは、どなたの物ですか? 」
腰の曲がった老婆に合わせるように腰を屈めた姿は、とても一国の次期当主とは思えない。
威厳や格式などは到底見受けられず、親しみやすさだけが残っていた。
「オレのジッサマがわけぇころにモラったモンなんですが、ジッサマがこないだシにまして」
「あら、もしかして、山裾の子岩のおじいさんですか」
「おお、ジッサマ知っているだか」
少女が、知っているはずがないのである。
「ええ、トウモロコシを頂きまして、とっても甘くて美味しかったのです。この度は、こころからお悔やみ申し上げます」
「そうだ、ジッサマのとうもろこしさ、あめえんだ。なんだ、なんだ、ヒメサマにもタべてもらえただか。ジッサマもきっとヨロコんでるだ」
どの畑からの作物が料理に使われるのか、彼女は教えられていない。
だから、「視た」のだろうと少年は思う。
「カラスキ、ちょっとこちらへ来て」
少女が、少年の名を呼んだ。
***
この少女――カグラ様に命を拾われたのは、8年前の事だ。
畑が焼け、家が焼け、親が、兄弟が焼け、村が焼けた。
夏に汗水垂らしながら育てた作物が、隙間風がひどくボロかったけれど確かに俺の居場所だった家が、厳しかったけれど愛してくれた親が、喧嘩もしたけれど俺の一番の理解者だった兄が、弟が、姉が、大好きだった皆が焼けた。
丁度、裏山にいた俺たちだけが助かった。
村の外で生きる術など知らず、炭となり果てた家族を見捨てることも出来ず。
捨て犬のように雨に濡れながら丸まっていた俺たち三人に傘をさしてくれたのが彼女だった。
「カラスキ」
小箱をかざしながら、カグラ様が言う。
手を出せということなのだろう。
「これ、振ってみてくれないかな」
手渡された箱は、なにかの染みで黒ずんでいる。遠目からは黒い木箱に見えたが、近くで見ると白い木箱だった。その昔は綺麗な寄木細工が施されていたのだろう。角は削れ、ひびも入っているが、表面にはうっすらと幾何学模様が浮いている。
どうしても開かないのだと老婆は言っていた。けれど割れた断面は、表面と同じように黒ずんでいて、最近になって出来たものとは思えなかった。
シャンシャンシャン
箱いっぱいに詰め込まれたような、鈴の音が鳴り響いた。
「で、その箱は何だったの」
頬杖をついたスバルが、興味深そうに手を伸ばす。
掃除番の途中なのか、この寒い中たすきを掛けたままだ。いつものように高く結い上げられた黒髪がふわりと揺れた。
「知らない」
「おばあさんが持ってきたものでしょ、なんで知りもしないカラが持ってるの」
「それも知らない。姫さまが下さった」
「へー」
俺自身には微塵も興味がないのだろう、適当な相槌を打つだけで、彼女はこちらに見向きもしない。先程の俺と同じように、開閉口を探しているのだろう。角度を変えながら、近くから遠くから、念入りに箱を調べている。
けれど、見つからないのだろう。四面のどこにも口の見当らないその箱は、動ずる事無く眠り続けている。スバルが首を傾げた。
あの老婆は、確かに木箱だと言った。
「これさ、箱ってよりもただの木じゃない? 」
「そうなんだよなぁ。箱って何かを入れるための物だろう。なのに開け口がないなんて」
「それにさ」
バシンと、スバルが爪で箱を弾く。
「やっぱり、中身も空洞じゃないと思うんだよね」
人の物を、古い木製の物を、断りもなく爪で弾くものだろうか。
古い木製の物だけど、俺の物だから、断りもなく弾いたのだろうか。
「おい、それ姫さまに貰ったって言っただろ」
「うん、そうだね」
「そうじゃなくて。姫さまに貰った物なんだから丁寧に扱えよ。傷つくだろ」
「だって、気になるじゃない」
スバルが勢いよく箱を振る。
音は、鳴らなかった。
「空洞も無いのにどうして鈴の音がしたのよ。これ、怪しすぎるでしょ」
「姫さまが大丈夫だって言ったんだから大丈夫だろ」
「姫さま、姫さまって......。いくら姫さまがくれたからって、元は知らない人の物なの。少しは警戒しなさいよ」
苛立ちを露ほども隠そうとせず、スバルが立ち上がった。呆れたような冷たい目で俺を見下している。
警戒しろと言われても、姫さまに貰ったものを無下にできるわけもなく、調べても何ら手がかりが見つからないのだから成す術もない。
いい加減にしてくれと言うと、スバルが木箱を投げた。
「丁寧に扱えって言っただろ」
「もう知らない」
そう吐き捨てると容赦なく襖を開け放ち、部屋から出て行った。
あの日、七年に一度ひらかれていた祭りの為、俺たちは裏山に登っていた。
祭事で使うサカキの葉は裏山の社の物を使うことが、採りに行くのは今年七歳を迎える子供の役目ということが、伝承に定められている。村で七歳を迎える子らの内、くじで選ばれた俺たち三人がその祭りのお役目をすることとなったのだ。
社につきサカキの葉を探している時、誰かが「なにか音が聞こえる」と言った。山にはイノシシやオオカミも住んでいる。それに、木々が深く多い茂る裏山も、中程にある社付近だけは開けていた。獣であれば逃げるか隠れるかして身を守らなければならない。そう思って耳を澄ましていた。
空が、白く光った。
ドンと大きな音が鳴った。
視界を覆いつくした砂煙が晴れる時には、地獄が始まっていた。
空を赤く染めた光源が、山裾に落ちていた。深く、抉れていた。
村が焼けていた。慌てて山を降りたが、誰一人として助けることは出来なかった。
村の外に出た事など無く、世界の全てだった村が焼けて未来を失った。
そんな俺たちの前に現れた光がカグヤ様だった。
黒く炭となった家族を、友達を、村人を一緒に埋めてくださった。
行くあてのない俺たちに、居場所を下さった。
失われた将来に、選択肢を与えて下さった。
だから俺は、ここにいる。
スバルも共に地獄を見、掬われ、彼女自身でこの場所を選んだ。
あいつだって恩義があるはずだ。
あの態度、不敬ではないだろうか。
「カラスキ、いるか」
スバルが開け放ったままの襖の間から、憧れの先輩がひょっこりと顔を出した。今日はお勤めが無いのだろうか、制服ではなく、翡翠色の着流しを身に着けている。
「はい、ここに」
「さっき姫さまに渡された箱、不安だったら俺が預かるが大丈夫か」
「いえ、御心配には至りません。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「ならいいんだが」
笑顔で答えたはずなのに、イチヨウさんは苦笑していた。
どうしたのですかと尋ねると、いや、と言葉を濁される。
「あー、なんだ。もし異変があったらすぐに言えよ」
「はい、ありがとうございます」
先輩はかっこいい。学問、武術の腕前もさることながら、俺のようなものに気だって使って下さる。
そうだ、心配とはこうやってするものだ。間違っても、途中から怒りだして物を投げつけることを心配と言わない。
「あの、イチヨウさん。この後、時間ありますか」
「ああ、休日だから一日中空いている」
「また稽古つけてもらってもいいですか? 今度は棒術を!!」
いつか、この人のようになりたいと思っている。
この人のように強く賢くなって、姫さまを守りたい。この人と対等になって、肩を並べたい。
後二年したら、少しは今の彼に近づけるのだろうか。
「構わない。では半刻後に中庭で」
「はい!!ありがとうございます」
久々の稽古に心が躍る。
いつか俺も、大切なものを守れるようになるんだ。
生き残った、たった二人の家族を。スバルを、タタラを。
箱の事なんて、もうすっかり頭から抜け落ちていた。




