母が死んだ日
投稿フォルムになれるための小手調べです。
作者の傾向がわかるように書きました。
商品は棚の手前に古いものが並べられる。
新しく仕入れた知識をひけらかそうと、私は母の買い物についていって、奥から引っ張り出した商品を買い物かごに入れた。
「母ちゃん、こういう店って奥のほうが新しいんだろ」
もちろん当時はそんな言葉は使われていなかったが、おそらく私は見事なドヤ顔を母に向けたのではなかったか。
それに対し母は、私の頭にゲンコツを落とした。
痛みと不満を漏らした私に、母は『アホか』と吐き捨て、諭すように説明してくれた。
冷蔵庫に牛乳が2本あったら、古い方から飲むやろ?
皆が皆、考えなしに奥から奥からモノ持っていったら、残ったモンはどうなる?
こういうんはな、すぐには使わんけど安売りしてるから買っておく、みたいなモンでやるこっちゃ。
今日や明日に使う商品でそんなことしても意味ないやろ?
物事にはなんでも段取りがあって、それを考えずにただ新しいもんだけ買うんは考えなしのアホや。
……などなど。
3人兄弟の末っ子で、幼児期の『なんで?どうして?星人』をこじらせ、理屈っぽいところのあった私は、この時『ウチの母ちゃん、なんだかスゲエ』と、思ってしまったのだ。
まあ子供は、自分なり、身内を特別と思い込むところがあるものだが、今考えても、母の言い分はなかなかに理性的だと私は思う。
何やら、タイトルに対して盛大に話がずれた感があるが……この出来事によって、私は『母はなんか頭がいい』と思い込んだという話である。
それから数年、私が中学生の頃のこと。
人は考える葦であり、死ぬまで成長を続けることができる。
そう、40を過ぎた母は、見事に成長を続けていたのだが、その成長に抗おうと、母は、食卓の上にゆで卵を並べていた。
ゆで卵ダイエット(第一次)である。
父と息子3人を前に、妙に早口で言葉を連ねる母。
ゆで卵は、消化に悪い。
ゆで卵1個を消化するためには、ゆで卵1個分のカロリーよりも多くのカロリーを必要とする。
つまり、ゆで卵をいくら食べても太らないのだ。
ちなみに、2000年以降のゆで卵ダイエットは、理由が異なるために第二次と私は区別している。
母は、念仏を唱えるように、わけのわからないことをしゃべり続けている。
父は、新聞を広げて無視していた。
上の兄は、テレビを眺めていた。
真ん中の兄が、虫を見るような目で母を見ていた。
私の中の母は、この日、死んだ。
その後も母は、飽きることなく、こんにゃくステーキや野菜スティック、その他いろんなものを食卓に並べて、私の前で何度も何度も死に続けてくれた。
最初はショックだったが、人間という生き物はなんでも慣れる。
私は、母が死ぬことに慣れたはずだった。
「……痩せたなあ」
私のつぶやきに、母は笑った。
「アホか。金もゼイ肉もあの世には持っていけんわ」
こんなとこは、昔のままだ。
母の背を支える私の手のひらに、悲しいほどくい込むのは背骨の感触か。
なあ母ちゃん、あのムッチムチの、みっちみちの、生命力に溢れかえったぜい肉はどこに行った。
今日明日のことではないが、その日は近いうちに訪れるだろう。
もちろん私だって、明日どうなっているかもわからない。
人は簡単に死ぬ。
それでもなあ……と思わずにいられない。
あれだけ何度も何度も死んだのに、まだ死ぬのか、母ちゃん。
「……もっと昔に、そこに気づいてたら、無駄なダイエットせんですんだのになあ」
「うるさいわ」
あと何度、こんな会話を交わせるだろうか。